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思考
令和2年2月22日
読書にもいろいろなパターンがあります。〈黙読〉や〈音読〉はもちろん、何度もくり返し読む〈複読〉、よく味わって読む〈味読〉、心から感銘して読む〈心読〉などがあります。
昔の寺子屋では、子供たちがとにかく声を出して音読(素読)をくり返しました。声に出すことで、脳を刺激し、記憶しやすいからです。大人になって辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、記憶した語彙が豊富であったからです。声に出して読むということは、記憶力を大きく高めることに間違いはありません。
こうして考えると、僧侶が長い経典を毎日くり返し読誦し、いつの間にか暗誦してしまうのも当然のことです。しかも深い腹式呼吸によって大きな声を出しつつ、仏に融合する感情移入が加わりますから、健康のためにも最適です。「声出し健康法」を代表するものでしょう。もちろん謡曲や詩吟、声楽や朗読もこれに類するものです。
さて、まじめなお話をした後で恐縮なのですが、私はいわゆる〈積ん読〉にもすばらしい効用があると思っています。買ってきた本を読みもしないで積んで置くばかりの様子を指して、皮肉に〈積ん読〉と呼びますが、実はなかなかのものです。
〈積ん読〉はほとんど本を横に積み上げ、タイトルも読みにくい状態のはずです。しかし、書棚を眺めながら「これは何の本であったか」と思って首を傾けた瞬間、そこで不思議なインスピレーションが湧くことを見のがしてはなりません。そこから忘れていた記憶や情報を思い出し、新しいアイデアが生まれるからです。
だから皆様、〈積ん読〉を決して恥じることはありません。私がこうして長く『法話ブログ』を続けられるのも、意外に〈積ん読〉の効用なのかも知れません。いや、きっとそうですよ。