山路天酬法話ブログ
中央線吉祥寺駅
令和2年5月28日
私がいだくお釈迦さまのイメージは、祇園精舎や竹林精舎での布教と共に、インド各地を伝道して歩いた「旅の行者」であったということです。そして、もう一つが「瞑想の達人」であったということです。おそらく弟子や信徒から解放されたとき、無上の楽しみは瞑想にあったのではないかと思います。仏典には、瞑想中しているお釈迦さまの横を数かぎりない馬車が通りながら、何も気づかなかったという表記が残されています。これが意識(心)というものの不思議さなのです。
お大師さまも若い頃は、奈良や四国各地の山中で瞑想に明け暮れました。後年は京都で華々しい活躍をされましたが、本心は高野山での静かな瞑想を好むお方であったことが、その詩文を拝読すればわかります。〈空海〉という名は、一般には「空と海」と解釈されますが、私はそうではなく「空の海」だと考えています。「空と海」はすなわち海辺での壮大な景観ですが、「空の海」とはつまり〈雲海〉のことです。雲海の漂う山上での瞑想を好む真言の行者という意味です。私はこの考えに、かなりの自信を持っています。
お大師さまはその瞑想に励むや、時空を離れ、人との約束すら忘れてしまうことがありました。つまり瞑想という異次元世界は、時空を離脱しているということなのです。たとえば、私たちがわずかに15分程度のうたた寝をしている間に、東京と大阪を往復した夢を見たりすることでもわるはずです。これが、異次元世界との接点なのです。
さてお話のレベルは急に下がるのですが、いささか時空を離脱した記憶として、私は東京の中央線吉祥寺駅での経験を忘れることができません。まだ上京して間もない、右も左もわからぬ十八歳の時でした。その日はあいにくの雨で、傘を持ってバスで吉祥寺駅に向いました。そして、私はほんの気晴らしに、高木彬光著の『成吉思汗の秘密』という小説を読んでいました。ところが、そのストーリーのおもしろさに夢中になり、その後の行動に何の意識もなくなるほどになっていたのです。吉祥寺駅でバスを降り、傘をさして、どのようにして改札口に向かったのか、それすらも覚えていませんでした。ただ、意識ばかりが本の中に没入し、手足は勝手に動いていたのでしょう。
何やら私は、人を視線を感じました。そして気がつくと、みんながジロジロと私を見て行きます。私はたちまち赤面しました。何と、私は駅の構内でも傘をさしたままだったのです。「気のふれたヤツが傘をさしている」ぐらいに思われたのでしょう。その後も、本を読みながら駅を乗り越した経験はありましたが、これほどまでのことは二度とありませんでした。
ものごとに集中して何も見えず、何も聞こえなくなるといった偉人(もちろん、私は偉人ではありませんが)の逸話を聞きますが、十代での忘れ得ぬ経験となりました。こんな経験をしながら、何かを求めて遠くを夢見ていたのかも知れません。「中央線吉祥寺駅」と聞くと、今でもドキッとします。
涙も止まらぬ法悦
令和2年5月27日
日清戦争は明治28年に終結しましたが、日本国内は不景気で失業者があふれ出る始末でした。この当時、茨城県のある村(現在の石岡市近く)に、一家五人暮らしの貧しい小作農家がありました。小作だけでは暮らしも立ちません。親夫婦は東京に出て土木作業員となりました。村には長男の元三(十八歳)、長女のサヨ(十六歳)、次男の巳之助(十二歳)の三人が残り、親の仕送りを待ちつつ、元三ばかりは農家の手伝いをしながらやっとの生活をしていました。
しかし運命とは非情なもので、東京に出た両親が流行り病の腸チブスにかかり、相次いで亡くなってしまったのです。三人は粥をすすってどうにか飢えをしのぎましたが、困窮を絵にかいたような暮らしでした。この頃の運動会はハカマをはいて競技をしましたが、学校に通う次男の巳之助にそんな余裕などありません。「兄ちゃん、明日はみんなハカマをはいて来るんだよ。僕にもハカマを買っておくれよ」とせがまれた元三は弟かわいさに、とうとう「そうか、買ってやるよ」と言ってしまったのでした。
元三はあてもなく夜道を歩きつつ、何とかしようとしましたが、どうにもなるものではありません。とうとう、石岡のある店からハカマ一着を盗み出してしまったのでした。翌日、彼は喜んで運動会に向かう弟を見送ったものの、警官から出頭を求められて尋問されるまま、素直に自白して監獄送りとなりました。短い刑期で済んだものの、以来彼は、村にもいられぬ誹謗の的となったのです。妹や弟までもいじめに泣かされ、悔恨の念も逆転して「覚えていろよ!」と、凶賊の徒へと転じました。ついに彼は恨みの農家三軒に放火し、再び入獄して長期の刑を受ける身となったのでした。悪事をなそうと思って生まれて来る人など、いるはずがありません。背負った〈業〉が人を動かすのです。運命を動かすのです。元三はその後も転落を重ね、前後六回の監獄入りをしつつ、三十六歳を迎えました。
そして、彼のこの悲運な人生を救ったのが、東京品川のある寺の住職でした。最後の刑期を終えた彼を自坊に引き取り、家族同様の生活をさせました。お茶も食事も、風呂も就寝も、そして日常の生活も、これまでの人生にない暖かい情けと潤いを与えたのでした。ある時、住職が「死ぬ気になって生まれ変わることができるか」との問いに、彼は「できます」と答えました。そして、合掌して住職が唱える〈三帰依〉に、静かに耳を傾けました。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と。彼は生まれて初めての、涙も止まらぬ法悦を知りました。
以来、元三はどのような誹謗を受けようとも、「自分は生れ変わったのだ。仏さまの弟子なのだ」という信念を貫き、さる農家での奉公を続けました。そして、しだいに信頼が高まり、家庭を築き、村人の手本とさえなりました。善悪のはざまをくり返した彼の人生は、実は私たちの写しでもあります。〈業〉が動けば、私たちの人生でさえ何がおこるともかぎりません。しかし、その〈業〉によって、また立ちなおれるのも人生です。私たちはそれを背負って生きています。
続・香りについて
令和2年5月26日
八千枚護摩にはさまざまな思い出があります。使用していた腕時計が、決まって15分進んでしまうのもその一つでした。「こんなはずはない」と思い、かなり無理をして高級品を買い求めましたが、結果は同じでした。しかしカシオのデジタル腕時計は、安物(!)でも進みませんでした。あれはどうしてであったのかと、今でも思います。
お話をもどしましょう。八千枚護摩中には何度か護摩木がいぶって、キナくささが漂うことがありました。その時、思ってみない遠い記憶が甦るのでした。それは子供の頃に毎日、風呂を沸かしていた時のことでした。父のいいつけで、これが私の日課になっていたのです。現代のようなユニットバスなどありませんから、薪に点火し、竹吹きで風を送りながらマキをくべました。その時、キナくさいにおいが発生するのです。つまり、私はそのにおいを毎日、嗅覚に留めていたのです。しかし年齢を重ねると共に、私の記憶からすっかり遠のいて行ったことは申すまでもありません。
ところが、八千枚護摩中に同じにおいに接するや、何十年もの時を超えて甦る嗅覚の不思議さには、驚きを禁じ得ませんでした。しかも風呂場の前にしゃがみこんで、その炎をじっと見つめていた幼い自分の姿まで、映像のように浮かぶのです。もちろん視覚も聴覚も、味覚も触覚も、五感のすべてが同じように作動しているのでしょう。一度見たものも、一度聞いたことも、一度触ったものも、みな記憶の底には残っているはずです。母親が作ってくれた〈おふくろの味〉も、味覚として残るのも当然です。しかし、嗅覚がこれほどまでに記憶と直結している事実は、意外というほかはありませんでした。八千枚護摩の思い出の中でも、格別な体験として忘れ得ません。
私たちは自宅の前に巨大なマンションが建って景観を損なわれても、しかたがないと諦めるはずです。線路や道路わきに住んで騒音に悩まされても、だんだんに慣れるはずです。注文した料理がまずくても、次は別の店に行こうと思って食べるはずです。購入した洋服の肌ざわりが悪くても、ガマンをして着用するはずです。しかし、悪臭の中で生活することはできません。つまり、嗅覚こそは五感の中でも特別な存在なのです。
現代は空気清浄機はもちろん、消臭剤や芳香剤が数限りなく売られています。それだけ、私たちはにおいに対して敏感なのです。また私たちの生活と嗅覚には、特に密接な関わりがあるのです。ついでですが、〈臭い〉は悪いにおいで「くさい」とも読みますが、〈匂い〉はよいにおいで香りのことです。お間違いなさいませんよう。
いま、若い女性の間でもお香が流行っています。ストレスをやわらげ、安眠へ誘う手立てとしてお香を愛用することは私も勧めています。昨日、香りはこの世とあの世の媒介だとお話しました。そして毎日、幽玄なお香をお大師さまにお供えしています。その時、お大師さまの方からその香りをお届けくださっているようにも思えてきます。香りの感応道交です。
香りについて
令和2年5月25日
私は二十代で真言密教の僧侶となり、三十代の10年間は八千枚護摩という難行に明け暮れました。これはお釈迦さまが、この世とあの世を八千回往復して悟りを開いたという説に基づくものです。一週間菜食して不動明王のご真言を十万遍唱え、さらに一昼夜断食して八千本の護摩木を焼き尽くしました。現在はこの八千枚護摩も各地で修されていますが、当時はこんな難行に挑む行者は少なかったように思います。
私はこれを50回も成満しましたが、始めの頃はすべて断食して修したため、意識がもうろうとする中で不思議な現象も体験しました。修法中には「加持物」と言って、白ゴマを炎に投ずる作法があります。その時、限りない無数の光輪につつまれるのです。その色がたとえようもない輝きを放ち、まるで夢のような心地であったことは忘れられません。私たちは普段は感ぜずとも、多くの異次元世界の中で生きていることを実感したものでした。
このような体験を重ねると、感覚が冴えわたることは間違いありません。特に嗅覚が発達するのです。当時の寺は三階建てで、一階が事務所やロビー、二階が本堂、三階が庫裡(居住所)でした。成満してすぐに境内を巡拝するのですが、その時は三階でどんな食事を作っているかさえ感じ取れるほどでした。「いま、味噌汁のダシをとっているな」ということがわかるのです。また自分が知らない土地で車に乗っていても、はるか手前で「この先にラーメン屋さんがありますね」などと言うと、そのとおりラーメン屋さんがありました。独特のにおいをいち早くキャッチしていたからです。歯が悪い人や胃が悪い人の、わずかなにおいもスグにキャッチしたものでした。
もっとも、私は今でも毎日お香を焚きますので、一般の方より嗅覚が発達するのは当りまえです。しかも伽羅や沈香といった高価なお香を焚きますから、なおさらのことです。皆様も毎日このような香りに接していれば、嗅覚の発達はもちろん、顔までがどことなく仏相を帯びてくるはずです。これは本当のことです。
どうしてこんなお話をしたのかと申しますと、香りこそは仏さまに近づく最も身近な手段であるからです。真言密教の僧侶が行法をするにも、最初に修するのはお焼香です。また、皆様が亡くなった方を回向するにも、お線香を供えます。つまり、香りこそはこの世とあの世の媒介なのです。
品格の優劣も香りです。「紳士の香りが漂う」とか「うさんくさい」などと言うでしょう。本物と偽物の違いもまた香りです。「本物の香りを放つ」とか「怪しいにおい」などと言うでしょう。あらゆる理屈を超えて、本質は香りに現れることを知らねばなりません。香りについてのお話はさらに続けましょう。
ほどほどの大切さ
令和2年5月23日
最近よく思うのですが、生きるということは〝ほどほど〟であることが大切です。たとえば、私たちが生きていくためには酸素・水・光・塩といったものが必要です。しかし、どんなに必要であっても、それが多過ぎてはいけませんし、逆に少な過ぎてもいけないことに気づくはずです。
私たちは酸素がなければ、もちろん生きてはいけません。また、大きく深呼吸をすることは自律神経を安定させ、健康増進にも役立ちます。しかし多過ぎると体内に活性酸素が発生し、健康を害します。アスリートでもない人が過激な運動をして、急死したりするのはこのためです。
水はどうでしょう。体の60パーセントは水分ですから、水の重要性は申し上げるまでもありません。特に真夏に大量の汗をかくと水分が不足し、血液がドロドロになり、熱中症や脳梗塞を招きかねません。この頃は気象予報士でも、「こまめに水分を補給しましょう」などとよく言います。しかし大量に水分をとり過ぎると、これを処理する腎臓に無理が生じます。体に不要な水がたまって冷えの原因となります。漢方ではこれを水毒といい、万病のもととするのです。今日、若い女性の体温が低く、また体がむくむのは、運動不足やクーラーに加えて冷たい水やお茶を必要以上に飲むからです。
太陽光の紫外線が皮膚がんやシミの原因になるとして、極端に避ける方がいますが、これもいけません。朝日を拝んでセントニンを浴びることは、心身のバランスをはかる上でとても大切なことです。うつ病や引きこもり、すぐにキレやすいといった症状は、脳内セントニンが不足しているからです。
塩も大事です。多くの医師が「塩分をひかえましょう」と言って減塩運動を呼びかけますが、高血圧の人口はいっこうに減りません。その理由の一つは合成した食塩(塩化ナトリュウム)にあるからです。また、熱中症は水分の補給だけでは予防できません。血液は塩分濃度を一定に保つ必要があるからです。よけいなことでしょうが、日本人は少しは高価でも、塩と醤油と味噌ばかりは昔ながらの天然ものを使うべきだと私は思います。
こうした事実に照合すると、見えてくる真理がたくさんあります。新型コロナウイルスはもちろん論外ですが、あまりに除菌が過ぎると免疫力が落ちます。謙虚であることは大切ですが、謙遜が過ぎると卑屈になります。正直に生きねばなりませんが、潔癖が過ぎると周囲から敬遠されます。迷惑をかけてはいけませんが、遠慮が過ぎると相手を困らせます。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言うではありませんか。ほどほどの意味を知りましょう。そして、ほどほどに生きることの大切さを知りましょう。世の中を見てください。ほどほどを知らない人が病気になるのです。迷惑をかけるのです。問題をおこすのです。そうでしょう。
他人の悪口、自分の悪口
令和2年5月22日
人はよく誰かの悪口を言っては楽しみ、時間をつぶし、ストレスを解消します。男性どうしが焼き鳥屋に入れば、悪口にはこと欠きません。女性どうしが喫茶店に入れば、これも悪口にはこと欠きません。会議や会合の席では何もしゃべらなかった人が、まるで油紙へ火をついたようにペラペラと舌が回るのです。それぞれが一緒になって悪口を言っている場合もあれば、一方的に悪口を聞かされる場合もあります。ところが聞かされる人も、しだいに相手の悪口に乗ってしまうのはどういうことなのでしょう。
そして悪口は廻り巡って、「あの人があなたの悪口を言ってたよ」と、当人の耳にも届くものです。またそれを伝えた人からも、「この人は影で悪口を言う人なのか」と思われてしまいます。さらに、「もしかしたら、私の悪口も言っているのでは」となって、互いにまずい関係になってしまいます。少しのほころびが、人間関係の亀裂へと発展するからです。
こうなると、もう収集がつきません。なにを言ったかにを言ったで、今度はうわさ話に発展します。うわさ話は次の人に伝わるごとに、必ず誇張されるのです。また、うわさ話はそれを弁解したり、否定したりするほど真実味を帯びるから不思議です。ささいな悪口が、とんでもない事件に発展する可能性すらないとはいえません。舌が他人を傷つける刃物になることを、「舌刀」とまで言うのです。
そして、最も重要なことを申し上げましょう。それは自分が言った悪口を一番多く聞いているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実です。私たちは他人の悪口を言っているつもりでも、実は自分の悪口を言っているに等しいという意味がわかりますでしょうか。他人の悪口を並べ立てる相手を好きにはなれないように、自分が悪口を並べ立てれば、無意識のままに自分を嫌っていくものなのです。
私も若い頃は、著名な人を批判しては得意になっていたものでした。こういう習慣が身につくと批判は悪口と堕し、身辺の人の悪口に発展したものです。そして、最もみじめなのは自分なのだという事実すら気づきませんでした。若気の至り、不徳の至りとはいえ、おはずかしいかぎりです。
それでも二十代の半ばからお大師さまの教えにふれ、自分のことを大切に思い、人を思いやることの大切さを知りました。いろいろな遍歴を重ねましたが、今では人のお役に立てることが楽しくてなりません。人のために尽くしていれば、その気持ちはおのずから伝わるものです。そして、私に会いたいと思ってくださる方が増えてまいりました。全国からいろいろな方が集まって来ています。一般の方はもちろんですが、僧侶の方もお見えになっています。まだ二年目のささやかなお寺ですが、皆様もぜひお越しになってください。「悪口など言っている場合じゃない」と、思うようになりますよ。
数学の詩人
令和2年5月21日
昭和の時代に岡潔という天才数学者がいました。『春宵十話』という随筆集も残していますが、天才にありがちが奇行も多く、「希代の仙人」とか「現代のアルキメデス」などとまで呼ばれていました。
京大理学部卒業の後、フランスに留学して理学博士となりましたが、「私の研究に必要なものは俳句である」と言って松尾芭蕉の研究に没頭する始末でした。数学には美意識こそ大切だという考えがあったからです。そして二十年後、世界中の数学者が誰も解けなかった〈三大難問〉を独力で解き明かすという快挙を成し遂げました。「もしノーベル数学賞があれば、間違いなく受賞したであろう」とまで言われています。
家族五人の生活は極貧で、財産もすべて売り払い、一時は物置小屋を借りてやっと飢えをしのぐほどでした。いつもよれよれの背広にノーネクタイ、長靴だけをはいて歩いていました。「ネクタイは交感神経をしめつけ、革靴は歩くと頭に響くので思考を妨げる」と言い張っています。文明の利器とは縁がなく、奥さんが電話を引いてくれるよう頼んでも、「あれは俗物の代物だ」と言って聞き入れませんでした。それでも奈良女子大教授となってからは、生活もいくらかは楽になりました。そして、数学の研究を始める前の一時間は、いつもお経を唱えていました。
昭和三十五年には文化勲章に輝きましたが、この時ばかりは家族の説得でやっと革靴をはいたという〝伝説〟があります。その受章祝賀の席で天皇陛下より「数学とはどういう学問ですか」と問われると、「数学は生命の燃焼です」と答えました。また新聞記者から「数学で最も大切なものは何ですか」と問われると、「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心です」と答えました。
数学の研究と美意識がどう結びつくのか、私たちにはわかりにくいかも知れません。しかし論理的に数学を考え、また考えて、その最後にひらめく感覚は、美しいものを見て感動する心に通じるのではないでしょうか。だから、数学は生命の燃焼なのでしょう。私は野の花を(普通の花瓶ではなく)よく古い仏具や土器に挿しますが、花を習ったことは一度もありません。それでも、一輪の花が何を語っているのか、どんな器に入れて欲しいのかはよくわかります。そのことはお大師さまの教えを学ぶうえで、大変に役立ちました。
美しいものを見て感動する心がなければ、最後のひらめきには到達しません。自然を見て感動し、絵画を見たり音楽を聴いて感動する時、偉大な科学的発見が生まれるのはこのためです。仏師が木材の中に仏を見い出して仏像を彫るように、数学の埋もれた真理も感動する心から掘り出されるのだろうと思います。昭和の偉大な天才数学者は、まさに「数学の詩人」であったのです。
銭洗い弁天
令和2年5月19日
「銭洗い弁天」という、お金のパワースポットをご存知でしょうか。弁天は「弁天さま」、つまり弁財天のことです。鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社が最も有名ですが、他にもこれに類したの神社やお寺がたくさんあります。
宇賀福神社は文治元年(1185)巳の年の、巳の月、巳の日、巳の刻に源頼朝に、弁財天に使える宇賀神さま(蛇体の神)が、「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ。されば天下泰平の世がおとずれる」というお告げがあったことから始まりました。〈巳〉は蛇体で、つまり宇賀神さまを示します。ちょっと出来過ぎた逸話ですが、これが頼朝が建立した宇賀福神社の由来です。その後、北条時頼がこの湧き水で銭を洗い、一族の繁栄を願ったことから「銭洗い弁天」として知られるようになりました。さらにその湧き水で銭を洗うと、その銭が倍になるという信仰が生まれたのです。
私は従兄弟が鎌倉にいるので、訪れたついでに宇賀福神社を参拝したことがあります。まだ若い頃で、何人かの人が熱心にザルでお金を洗っている姿を見ましたが、自分もやってみようとは思いませんでした。「ずいぶん俗な信仰があるものだ」という程度にしか思わなかったからです。
ところが、今になってお金というものの大切さや、お金を大事に扱うべきことを思案し、そのことを力説するようになって以来、銭洗いの意味も納得するようになりました。私たちはよく、お金を「きたないもの」とする誤った先入観があります。お金持ちはみな悪い人だとする一方的な思い込みと、誰が触ったかわからないから衛生上〝きたない〟という観念を兼ね、このような考えが通用しているのです。
お金はそれを扱う人間によって、善にも悪にもなるのです。しかしそのお金をザルに入れ、清らかな湧き水で洗うことはお金を大事に扱う行為として好ましく、ほほえましいことです。また弁財天は本来は〈辯才天〉と表記し、水や農耕の神さま、歌や音楽の神さまなのです。だから清らかな湧き水で銭を洗ってシャラシャラと音を奏でることは、大きな功徳になるのです。弁財天に喜ばれ、それによって自分が好かれれば、銭が倍になるという信仰もまんざらではありません。
こういう信仰が時代を経て続いているということは、確信があるからです。つまり、霊験があるからです。昔からの伝承に対し、謙虚に受け止めるべきものがたくさんあるはずです。あの頃、銭洗いになど何の関心も持たなかった自分を、今はただただ反省しています。
二つの生き方
令和2年5月18日
私は人の悩みを聞く仕事を、40年以上も続けています。そして、少しでもお役に立てるよう毎日のお護摩のご祈願にも、また先祖の回向にも努力を重ねています。
たくさんの方々に出会って来たわけですが、中には思いのほか早く解決する方があります。お寺に来ただけで、また私とお会いしただけで、心がやすらぐと言ってくださる方もいます。しかし中には、ご祈願に励んでも回向を重ねても、望むようにいかない方がいることも事実です。この違いは何なのだろうと、私はずいぶん悩みました。
ある時わかったことは、望むようにいかないという方は、それをすべて世の中や他人のせいにするということでした。口にすることは世の中や他人への不平不満ばかりなのです。これに間違いはないと、今でも確信しています。こういう方は、自分がうまくいかないのは社会が悪いのだと考えています。それなりの学歴もあり、外見もよく健康でもありながら、それを職場のせい、上司のせい、同僚のせいだと言い立てるのです。
そもそも私たちは社会でも職場でも、多種多様な人に接しなければなりません。上司が寛容で大らかな人ならいいものの、小さなミス一つにでもガミガミと怒鳴る人もます。隣りの席にすわった人が、親切でやさしい人ならいいものの、とんでもなく冷たい人という場合もあります。つまり、世の中はいろいろな人間がいっしょに集まり、人間それぞれの性格によってそれぞれに動いているということなのです。この単純な事実が、思いのほか理解されていません。
つまり、大人になっても、学校を出ても、知識はあっても、人間を理解していないということなのです。また、このことは家庭でも学校でも、一般には教えません。皆様は驚くでしょうが、難関を通って一流大学を卒業し、さらに人もうらやむ一流企業に勤めながら、意外にこういう人が多いのです。自分が今日ある幸運や恩恵が誰によってかなど、考えもしません。何をされた、かにをされたと、そればかりなのです。別のいい方をすれば、感謝ができない人です。
人はもちろん、何をもって幸福であるか不幸であるかなど、一概に決めることはできません。しかし、どんな人でも、どんな状況でも、人が幸福になれるのは感謝をする時です。まわりの人を見てください。誰によらず「ありがとう」と言える人は、まず大丈夫です。悩みごとも願いごとも、何とかなるのです。逆に世の中や他人の悪口を重ねる人は、自分も悪口を言われ、望むことも叶いません。
皆様はこの二つの生き方の、どちらを選びますか。私のブログを読んでくださる方なら、もうわかりますよね。大丈夫ですよね。私からも申し上げましょう。「皆様、ありがとう」と。
ここで気を許すな!
令和2年5月16日
新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言が、まず三十九県で解除されました。
宣言期間中は、国民の多くが強いストレスや危機感を感じたことと思います。外にも出られず、学校にも行けない子供たちは勉強も遅れ、友達とも遊べぬ不満が重なったはずです。また、ご主人もお子さんもいる狭い家の中で、炊事も家事も休めぬ主婦は言葉も乱暴になったかも知れません。家族や夫婦間のDVが増え、「コロナ離婚」なる冗談(もしや本音!)まで耳にする始末でした。一方、お店も工場も未曾有の危機に立たされています。すでに倒産した会社も、数知れません。補助金や借入れで乗り切れるかどうか、まさに瀬戸際の様相です。
また、マスクや消毒液すら、なかなか手に入らない状況は今も続いています。一時はティッシュやトイレットペーパーまで不足する有様でしたが、こちらはほとんど復旧しました。食品も、納豆ばかりは「一家に一パック」などと表示されていますが、さほどのことではありません。私は戦後の生まれですから大きなことは言えませんが、終戦を経験した方ならどうということもないはずです。サツマイモのツルを食べて飢えをしのいだお話をうかがえば、まだまだ楽な時代だと思います。
物に不自由する生活を、初めて経験した国民も多かったことでしょう。つまり、〝平和ボケ〟した私たちは喝を入れられたのです。また人類の愚行に対して、地球そのものがリセットを強いられたのです。このブログでも何度かお話をしましたが、この世は無常なのです。いつ何が起きるかわからない、変わらないものなど何ひとつないということなのです。平和で安心して暮らせる社会など、この世にはないのです。それだけに、私たちは危機感に対してもっと敏感にならねばなりません。地震や台風だって、いつやって来るかはわかりません。誠実でまじめに生きていても、どんな凶悪が迫っているかはわかりません。私も昨年は台風被害を経験しましたので、早くも備えを固めています。
コロナウイルスの件にもどりますが、ここで気を許してはなりません。もし二次感染が増え、再び非常事態宣言が発令されることになどなったら、今度こそ最悪です。人は「もう大丈夫だろう」という時が、一番あぶないのです。九割かた終ったと思って安心すると、最後にミスをします。これで勝ったと思って油断すると、最後に逆転されます。おそらく、一年ほどは警戒を続けねばなりません。専門家の意見にも耳を傾けましょう。
多くの人々が外出を始め、仕事を始め、お店にも入り始めています。もう一度申し上げますが、「もう大丈夫だろう」という時が一番あぶないのです。「ここで気を許すな!」と、おまじないのように何度でも唱えることです。声に出すと、人は実行するものです。そうなのですよ。

