中央線吉祥寺駅

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令和2年5月28日

 

私がいだくお釈迦さまのイメージは、祇園精舎ぎおんしょうじゃ竹林精舎ちぃりんしょうじゃでの布教と共に、インド各地を伝道して歩いた「旅の行者」であったということです。そして、もう一つが「瞑想の達人」であったということです。おそらく弟子や信徒から解放されたとき、無上の楽しみは瞑想にあったのではないかと思います。仏典には、瞑想中しているお釈迦さまの横を数かぎりない馬車が通りながら、何も気づかなかったという表記が残されています。これが意識(心)というものの不思議さなのです。

お大師さまも若い頃は、奈良や四国各地の山中で瞑想に明け暮れました。後年は京都で華々はなばなしい活躍をされましたが、本心は高野山での静かな瞑想を好むお方であったことが、その詩文を拝読すればわかります。〈空海くうかい〉という名は、一般には「空と海」と解釈されますが、私はそうではなく「空の海」だと考えています。「空と海」はすなわち海辺での壮大な景観ですが、「空の海」とはつまり〈雲海〉のことです。雲海の漂う山上での瞑想を好む真言の行者という意味です。私はこの考えに、かなりの自信を持っています。

お大師さまはその瞑想に励むや、時空を離れ、人との約束すら忘れてしまうことがありました。つまり瞑想という異次元世界は、時空を離脱しているということなのです。たとえば、私たちがわずかに15分程度のうたた寝をしている間に、東京と大阪を往復した夢を見たりすることでもわるはずです。これが、異次元世界との接点なのです。

さてお話のレベルは急に下がるのですが、いささか時空を離脱した記憶として、私は東京の中央線吉祥寺きちじょうじ駅での経験を忘れることができません。まだ上京して間もない、右も左もわからぬ十八歳の時でした。その日はあいにくの雨で、傘を持ってバスで吉祥寺駅に向いました。そして、私はほんの気晴らしに、高木彬光たかぎあきみつ著の『成吉思汗じんぎすかんの秘密』という小説を読んでいました。ところが、そのストーリーのおもしろさに夢中になり、その後の行動に何の意識もなくなるほどになっていたのです。吉祥寺駅でバスを降り、傘をさして、どのようにして改札口に向かったのか、それすらも覚えていませんでした。ただ、意識ばかりが本の中に没入し、手足は勝手に動いていたのでしょう。

何やら私は、人を視線を感じました。そして気がつくと、みんながジロジロと私を見て行きます。私はたちまち赤面しました。何と、私は駅の構内でも傘をさしたままだったのです。「気のふれたヤツが傘をさしている」ぐらいに思われたのでしょう。その後も、本を読みながら駅を乗り越した経験はありましたが、これほどまでのことは二度とありませんでした。

ものごとに集中して何も見えず、何も聞こえなくなるといった偉人(もちろん、私は偉人ではありませんが)の逸話を聞きますが、十代での忘れ得ぬ経験となりました。こんな経験をしながら、何かを求めて遠くを夢見ていたのかも知れません。「中央線吉祥寺駅」と聞くと、今でもドキッとします。

山路天酬密教私塾

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