他人の悪口、自分の悪口

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社会

令和2年5月22日

 

人はよく誰かの悪口を言っては楽しみ、時間をつぶし、ストレスを解消します。男性どうしが焼き鳥屋に入れば、悪口にはこと欠きません。女性どうしが喫茶店に入れば、これも悪口にはこと欠きません。会議や会合の席では何もしゃべらなかった人が、まるで油紙へ火をついたようにペラペラとしたが回るのです。それぞれが一緒になって悪口を言っている場合もあれば、一方的に悪口を聞かされる場合もあります。ところが聞かされる人も、しだいに相手の悪口に乗ってしまうのはどういうことなのでしょう。

そして悪口はめぐめぐって、「あの人があなたの悪口を言ってたよ」と、当人の耳にも届くものです。またそれを伝えた人からも、「この人は影で悪口を言う人なのか」と思われてしまいます。さらに、「もしかしたら、私の悪口も言っているのでは」となって、互いにまずい関係になってしまいます。少しのほころびが、人間関係の亀裂きれつへと発展するからです。

こうなると、もう収集がつきません。なにを言ったかにを言ったで、今度はうわさ話に発展します。うわさ話は次の人に伝わるごとに、必ず誇張されるのです。また、うわさ話はそれを弁解したり、否定したりするほど真実味を帯びるから不思議です。ささいな悪口が、とんでもない事件に発展する可能性すらないとはいえません。舌が他人をきずつける刃物になることを、「舌刀ぜっとう」とまで言うのです。

そして、最も重要なことを申し上げましょう。それは自分が言った悪口を一番多く聞いているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実です。私たちは他人の悪口を言っているつもりでも、実は自分の悪口を言っているに等しいという意味がわかりますでしょうか。他人の悪口を並べ立てる相手を好きにはなれないように、自分が悪口を並べ立てれば、無意識のままに自分を嫌っていくものなのです。

私も若い頃は、著名な人を批判しては得意になっていたものでした。こういう習慣が身につくと批判は悪口とし、身辺の人の悪口に発展したものです。そして、最もみじめなのは自分なのだという事実すら気づきませんでした。若気わかげの至り、不徳の至りとはいえ、おはずかしいかぎりです。

それでも二十代の半ばからお大師さまの教えにふれ、自分のことを大切に思い、人を思いやることの大切さを知りました。いろいろな遍歴を重ねましたが、今では人のお役に立てることが楽しくてなりません。人のために尽くしていれば、その気持ちはおのずから伝わるものです。そして、私に会いたいと思ってくださる方が増えてまいりました。全国からいろいろな方が集まって来ています。一般の方はもちろんですが、僧侶の方もお見えになっています。まだ二年目のささやかなお寺ですが、皆様もぜひお越しになってください。「悪口など言っている場合じゃない」と、思うようになりますよ。

山路天酬密教私塾

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