山路天酬法話ブログ

人生の旅は「欲の道づれ」

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人生

令和2年6月10日

 

井原西鶴いはらさいかく(江戸時代の俳人はいじん・作家)は人間を徹底して〝カネの亡者〟と見なし、『日本永代蔵にほんえいたいぐら』を著わしました。文中には「ただかねかねをためる世の中」「世にぜにほどおもしろき物はなし」「うてならぬ物はかねの世の中」「かねさえあれば何ごともなるぞかし」といった銭銀ぜにかね至上主義が列記され、読に終えれば茫然自失ぼうぜんじしつ、とてもとてもついてはいけません。「経済小説の先駆さきがけ」などとも言われますが、しかし一筋縄ではいかぬ手ごわいシロモノです。

この『日本永代蔵』の冒頭は、大阪市貝塚の水間寺みずまでら(水間観音)のお話から始まります。今でも多くの参詣者が訪れますが、古来より独特の形態を持つ寺院として護持されて来ました。日本のほとんどの寺院は江戸時代からの檀家だんか制度によって支えられていますが、それ以前は篤信者とくしんしゃや地元の共同体で運営されて来ました。水間寺は今でも六十歳になると地元の農家や公務員の方、事業家や職人の方が一定の修行を経て僧になるという、唯一無二の形態を保っています。

江戸時代のその頃、驚くことに、有力な寺院は金融業を兼ねて運営をしていました。水間寺もその例にもれません。西鶴はその様相を、「おりふしは春の山、二月初午はつうまの日、泉州(大阪)に立たせ給う水間寺の観音に、貴賤きせんの男女もうでける。これ信心にはあらず、欲の道づれ」と表現しています。水間寺では二月初午の日、一年後に倍額返済を条件に、参詣者に小銭を貸し付けていました。年利100パーセントですが、観音さまから借りるのですから返すのは当りまえで、保証人も担保も不要でした。そうなれば多くの人が、野山を越えて集まるのも当然です。

時に江戸から流れてきた素性不明の男に、銀1貫(2万5千円)を貸し与えたのは異例でした。翌年になっても翌翌年になっても返済には訪れません。水間寺でも、とんだ失敗とあきらめていました。ところが13年後のその日、借り金が倍々に積って何と8192貫(約2億円)を馬に背負わせてやって来たのでした。僧侶たちは驚き、「後世の語り草にしょう」ということで、都から宮大工を呼び、立派な宝塔を建立しました。その男、船問屋の網屋あみやといい、江戸では知らぬ者のないほどの大商人になっていたのでした。

それにしても「信心にはあらず、欲の道づれ」とは、水間寺にしてみれば迷惑な表現だったのでしょう。貸し付けは救済活動であるとして、当時からかなりの反論がありました。貸し付けを目当てにやって来ても、観音さまへの信心を失ったわけではありません。その貸し付けによって、多くの人々が救われたことも確かなはずです。

人は利益がなければ動きません。その利益によって衣食いしょくが足りる時、はじめて礼節を知るのです。利益が欲なら、むしろ欲によってこそ礼節を知るべきです。その欲に使われた人もいれば、欲を上手に使って立ち直った人もいたはずです。欲に使われれば煩悩ぼんのうですが、上手じょうずに使えば菩提ぼだいとなるのです。人生の旅そのものが「欲の道づれ」だと、私は思います。

続続・男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月9日

 

男性はあくまで社会的に生きています。すべてを捨てて、一人の女性のために生きるということはできません(少なくとも、そういう傾向があります)。一方の女性は家庭的(個人的)に生きています。自分を選んでくれた一人の男性のためには、すべてを捨てるのです。だから、女性は両手で恋をしますが、男性は〝片手で〟恋をするのです。

男性は社会的に関わらないと、生きてはいけません。働かなくても生活ができれば一時は喜びますが、いずれは不安におそわれます。だから、定年後の人生が心配なのです。少しでも〝肩書き〟が欲しいのです。一方の女性は働かなくても生活ができれば、何の不安もありませんし、これほどうれしいことはありません。

男性は個人的なつながりよりも、社会的なつながりによって満足します。社会の中で、自分の位置づけがあってこそ安心するのです。地位や名誉が欲しいのは、見栄のためだけではないのです。一方の女性は、誰かと個人的につながることで安心します。特に、自分を選んでくれた一人の男性とつながっていることで安心します。

男性はきれいな女性なら〝誰でも〟さわりたいという欲望があります。これが本音なのです。女性は逆にさわられたいという欲望がありますが、しかし好きな男性からでなければ満足しません。好きな男性からさわられれば気持がいいのですが、嫌いな男性からさわられると、まるで毛虫に触れたような嫌悪感をいだきます。その夜はお風呂でゴシゴシと体を洗い、何度も除菌します。このギャップがセクハラ問題の原因です。

男性はその思考の多くを、論理によって決定します。いつ、どこで、誰が、何をしたかを記憶します。だから、〝事実〟こそが真実なのです。一方の女性は、思考より感情を優先します。何が楽しかったか、何がイヤだったかでその記憶が決定されるのです。男性がとっくに忘れている十年前の〝ひとこと〟を、急に持ち出すのはそのためです。

男性はあくまで論理的に正しく、経済的に有利で、便利であることを中心に考えます。どういうお店で食事をしたいかといえば、近くて入りやすくて、安くておいしいと思うところを選びます。一方の女性はおいしさはもちろんですが、雰囲気を基準に選びます。接待の感じがいいか悪いかが大事なのです。できれば海が見えて夜景がきれいな、そんなお店を望むのです。そして、誰と行くかに最大の関心があるのです。

男性は悲しいことがあれば、時には泣くこともあります。それはあくまで、悲しいという目の前の現実に対して泣くのです。ところが女性が泣く時は、似たような悲しみや直接に関係のない過去の悲しみが次々と連結し、涙があふれ出るのです。女性が涙もろいのは、このためです。男性は悲しいから泣きますが、女性は泣くからさらに悲しくなるのです。

もう、このへんにしましょうか。いつもこのブログを読んでくださるすべての男性に、そして男性である私のブログを読んでくださるすべての女性に感謝いたします。

続・男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月8日

 

男性どうしが集まると、こんな会話をします。「まったく、女ってヤツはわからないよな」と。また女性どうしが集まると、こんな会話をします。「いったい男の人って、何を考えているのかしらね」と。そして、人類はこんな会話を何十年、何百年、もしかすると何千年も続けてきました。男性にとって女性という存在は、女性にとって男性という存在は永遠のなぞなのです。しかし謎であるがゆえに、男女の間には恋愛という「世にも不思議な物語」が生まれるのかも知れません。

当然のことですが、男性は女性になることはできませんから、女性特有の思考や感情を理解することは困難です。それは、女性にとっても同じです。もちろん、男性にも多少の女性的要素が、女性にも男性的要素はあります。そして例外があることも事実ですが、ここでは一般論としてお話をしましょう。

そもそも男性とは、〈願望〉で生きているのです。何をなすか、何をなしげたいかなのです。そして、感情よりも思考が先行し、できるだけ多くを獲得かくとくしたいという狩猟しゅりょう本能を持っています。だから、人生の願望をより多く達成し、より多くの女性をモノにしたいと思って生きています(そういう本能が根底にあるという意味なので、誤解なさいませんよう)。ところが、女性の方は〈期待〉で生きています。何を成すかより、何をしてもらえるかなのです。思考よりも感情が先行し、保守本能を持っています。何かをしてもらって、安心していたいのです。自分が得た安心を、守っていきたいのです。そして、ただ一人の男性から愛されることを願って生きています。自分を選んでくれた一人の男性に、生涯にわたって愛情を注いでほしいと願っています。このことが、まずは男女の根本的な違いです。いっしょに生活をすれば、その思考と感情の差に亀裂が生じるのも当然なのです。

ところが、では世の男性は自分が選んだ一人の女性に愛情がないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。一生の伴侶として大切にしたいと願っていることも事実です。また女性の方は、自分を選んでくれた一人の男性以外に何の関心もないのかといえば、これまた、そんなことはないのです。ここが男女の間の矛盾であり、不可解でやっかいなところです。

私が考えた別の見解をご披露ひろうしましょう。それは、まず男性という生き物は多分に〈イヌ族〉であるということです。主人(社会)という絶対的な大義がなければ動きません。またその大義のために働くことに喜びを感じます。だから社会的に自立できなくなった時、男性はとたんに自信を失います。つまり、何かの意味を持って仕事をしていないと不安になるのです。だから、休日を返上してでも頑張がんばります。一方の女性は〈ネコ族〉です。ふとん(家庭)の上で、気持ちよく眠っていたいのです。大義だの仕事だの、どうでもよいことです。呼んでも、気分が乗らねば寄っても来ません。これは思考より感情が先行するからです。そして、自分に愛情を注いでくれる人にででもらったり、抱いてもらったりすることに喜びを感じます。「私と仕事とどっちが大事なの」という、女性の言いぶんはこうして生じるのです。このお話、まだ続けますか。

男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月5日

 

私は自分が受けてきた教育の中で、最も不満に思っていることが一つあります。それはまた、特にこれからの学校教育の中で、ぜひ採用してほしいと思っていることでもあります。これさえ採用されれば、そして実際に授業として教育されれば、多くの問題が解決するのではないか、多くの犯罪すら減るのではないかと、そこまでも考えているのです。

では、その教育とは何であるかと申しますと、「男とは何か、女とは何か」という男女学のことなのです。つまりこの世に存在する男性と女性の違いを、子供の時からしっかりと教育すべきだということです。そうすれば多くの問題や犯罪は、相当に消え去るのではないかと、そのように考えているのです。

そもそもこの世の多くの問題や犯罪は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。それほどに、男性と女性は〝別の生きもの〟なのです。体や脳の構造はもちろん、思考も感情もまったく違います。ところが、これについて私たちは家庭ではもちろん、学校においても何ひとつ教育されずに何十年も生きているのです。男女の問題こそは、人生で最も大切な課題です。生きていくうえで、何よりも知らねばならないことなのです。しかし、私たちはそんなことも知らずに学校を卒業し、就職して結婚します。そして男女が同じ職場で共に働き、一つ屋根の下で共に暮らしています。問題や犯罪が生じるのは当りまえです。

かつて、『話を聞かない男、地図の読めない女』(平成12年・主婦の友社刊)という本がべストセラーになりました。同書はオーストラリアのアラン・ピーズとバーバラ・ビーズ夫婦による共著で、「男脳・女脳テスト」も付き、特に男女の脳の違いからするどい結論を引き出しました。ビーズ夫婦は、その序文でこう語っています。「この問題の根本原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。これは科学者、人類学者、社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らされてこなかった事実だ。というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり、『政治的に正しい』ことをめざす社会では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ」と。男女の違いを語ることは、民主主義や男女平等に反するという世論に一石を投じた、勇気ある意見です。

当時、私もこの本をきっかけに、男女の違いを語った書籍をいくつか読みました。その頃のメモ書きには、「りない男、反省しない女」「男の手のうち、女の胸のうち」「男の願望、女の期待」などと残っています。そして自分が男女の違いについて、いかに無知であったかも気づき始めました。男女は協力し合うことはできても、理解し合うことはなかなかできません。夫婦も、恋人どうしも、職場の男女も、みな同じなのです。くり返しますが、この世の多くの問題は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。このお話はさらに続けますが、明日と明後日は忙しいので、ちょっと。

天与の恩恵

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人間

令和2年6月4日

 

最近の統計を調べますと、日本人の平均寿命は84・2歳で世界一にランクされています。もちろん、平均寿命と共に健康寿命も大切ですが、それにしても長命です。100歳以上もすでに7万人を突破したと聞きました。ただし男性の平均寿命は81・1歳、女性は87・1歳で6歳の差があります。20年前だと7歳の差がありました。いったい、この差はどこから来るのでしょうか。私はこのことが大変に気になり、素人しろうとなりの結論を出したいと書籍やネットで調べましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。

女性は皮下脂肪が多いから、エネルギーを蓄えているといいます。山で遭難そうなんしても、女性の方が助かる確率が高いのは事実ですが、一概にはいえません。また男性は競争社会を生きるので、多くのストレスをため込んでいます。晩年にはすでに、その寿命まで損じているのかも知れません。しかし女性にも〝競争〟はありますから、決定的な理由にはなりません。

では男女の相違は何かといえば、生殖機能が異なるという一点に行き着きます。つまり、女性にはその生殖機能によって、毎月の〈生理〉があります。こうなると僧侶の私が出る幕ではありませんが、鼓舞こぶして調べた結論をお話しましょう。

まず若い世代の女性(五十代ほど)に比べて、高齢者(八十代以上)の方は初潮から閉経までの期間が短かったことがわかりました。若い世代の女性は、10代の前半から50歳前後までの約35年間を生理期間としますが、高齢者は10代半ばから40代半ばまでと、約30年間であったとされます。そうすると(これもマジメに調べましたが)、一回の生理が約6日、28日を周期とすると、年に13回、これを30年続けると〔6×13×30=2340〕です。これを一年365日で割ると〔2340÷365=6・41〕となり、何と平均寿命6年の差に一致(!)するのです。

女性はこの生理によって血液の老廃物を排泄はいせつし、男性よりも若々しい健康を保っているのではないでしょうか。女性が貧血になりやすいのは生理のせいでもありますが、それだけ血液の老廃物が少ないという証明でもあります。男性も女性の生理に負けぬよう配慮をせねば、平均寿命は追いつけないということになりましょう。しかし、男性でも血液の老廃物を排泄する方法はあります。その一つが献血で、これは人のためにもなります。男性は年に一度か二度の献血をするとよいのです。また瀉血しゃけつ療法(吸玉によって老廃物を取り除く施術)もあります。私も何度か後頭部の瀉血療法を受けました。レバーのような老廃物が出て、頭の中が「スカッとさわやか」になります。

気持ちのよい生活をするには、清掃や片づけが必要です。いらないものを捨てることです。私たちの体も同じです。女性はおつらいでしょうが、生理という天与の恩恵があるのです。長命であることも天与の恩恵です。男性はその分、別の努力をせねばならぬように作られています。「男はつらいよ」、いや、男もつらいのです。

白紙の観音さま

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仏教

令和2年6月3日

 

その昔、美濃みの(現・岐阜県)と尾張おわり(現・愛知県)の国境くにざかいに、一人のお婆さんが営む茶店がありました。年とともに視力が衰え、ほとんど盲目に近い状態でしたが、どうにか茶店だけは続けていたのでした。

そこにある若者がやって来て、白紙しろがみを一枚渡しました。それは文字も絵もない単なる白紙だったのですが、お婆さんには見えません。しかしその若者は、「お婆さん、この紙にはありがたい観音さまが描かれているんだよ。これを信心するとご利益があって、見えない眼も開くんだそうだ。だから、しっかり拝むといいよ」と言うのです。

お婆さんはさっそくこの白紙を壁にはり、香華こうげを供え、「南無観音なむかんのんさま」と宝号を唱えて拝みました。店に立ち寄る客は、「婆さん、あんた何を拝んでいるんだ。ただの白紙じゃないか。あんたには見えんだろうが、白紙には何にも描かれてなんかいないんだぜ」とバカにしました。お婆さんはこんなことを言われて時には迷いましたが、拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いないという信念を貫き、一心に念じました。

そして、半年ほどが過ぎました。何と、お婆さんの眼がかすかに見えるようになったのです。そして、拝んでいた白紙まで〝真っ白〟に見えてきました。確かに観音さまの絵などありません。しかし、お婆さんは考えました。「半年あまりも拝んできたこの白紙は、私にとってはただの白紙ではないんだ。眼には写らなくとも、きっと観音さまがおこもりになっているに違いない。これからもそのつもりで拝んでいこう」と。

やがてこの「白紙の観音さま」のうわさが広まり、いろいろな方がお参りするようになりました。時には僧侶の方までがわざわざ遠方からやって来て、読経をしていきました。もちろん、そうなれば茶店の方も繁昌し、お婆さんは二重のご利益をいただいたことになったのです。

皆様はこのお話をどのように考えますでしょうか。問題は「拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いない」というお婆さんの信念に尽きましょう。私はこのような霊験は十分にあり得ると思います。それが信仰だからです。世に知られた『観音経』には、「念彼観音力ねんぴかんのんりき」という聖句が何度もくり返されます。一般には「の観音の力を念ずれば」と訳されています。観音さまを念ずればあらゆる災難から逃れられると、多くの描写が列記されています。しかし、どうでしょう。「彼の観音」とあります。ただ漠然ばくぜんと観音さまを念ずるのではなく、どこにいようとも自分が信仰し、香華を供え、宝号を唱え、よくよく拝んでいる〝彼の観音〟でなければならないということです。安易に観音さまを念じても、奇跡は起こりません。

それにしても、お婆さんに白紙を渡した若者とは誰だったのでしょう。私はそれが誰であろうと、彼こそは観音さまのお使いだったと信じます。そして皆様のまわりにも、そういう方が必ずいるのです。意外にも、ごく近くにです。早くそれに気づかねばなりません。これもお大師さまの教えですよ。

胸のすくような快僧

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仏教

令和2年6月2日

 

明治時代の始め、曹洞宗そうとうしゅう原坦山はらたんざんというとい禅僧がいました。儒教や医術も学びましたが、やがて出家し、僧侶として初めて東京大学で仏教講義(インド哲学)をしたり、晩年は現・駒澤大学の総監を務めたりもしました。

大変な酒豪で、仏前でも平気で飲んでいました。訪問して来た僧侶にも酒を勧めると、おかたい方はたいてい断ります。すると「酒も飲まんヤツは人間じゃないぞ」とまで言うのです。「人間でなければ何ですか」と聞き返すと、「仏さまじゃ」と放言する始末でした。

この坦山が、まだ若い修行時代のことです。連れの僧侶を伴って大井川を渡ろうとしましたが、昨夜の雨で増水していました。二人は迷いましたが、勇気を出して渡ってみようと決心したのです。二人はすそを巻き上げ、ひもを結び、いよいよ川に入ろうとしました。その時、旅姿の若くて美しい娘が、同じように川を渡りたいおもむきで岸辺に立っているのに気づきました。どうやら急いでいるのに、困惑している様子でした。まさか、娘の身ですそを巻き上げるわけにもいきません。

そこで若い坦山が、「あなたも向こう岸へ渡りたいのかね」と聞くと、そうだと言います。何とかしていただけませんかとでも言いたげでした。しかしこの時代、僧侶が女性の体に触れることなどあり得ないことでした。しかし、坦山は腹をくくって自分の荷物を連れの僧侶にあずけるや、「しっかりつかまっていなさい」と言って、その娘を軽々と抱き上げました。そして、ザブザブと川を渡り始めました。浅瀬を探りながら、注意深く進んで行ったのです。連れの僧侶はにがい顔で後から、坦山について行きました。

そして無事に向こう岸に着くや、娘は「何とお礼を申していいのかわかりません。ご出家しゅっけさまに抱いていただくなんて、身にあまる光栄です。このご恩は決して忘れません。ぜひお名前をうかがいとうございます」と礼を言いつつ願い出ましたが、坦山はにっこり笑うばかりで、振り向きもせずに歩き始めました。

その日の夕方、ある家に一夜の宿をうた二人でしたが、連れの僧侶がどうも不機嫌ふきげんでした。坦山は「おぬし、やけに陰気な顔をしているが、どうしたのだ」と問うと、「どうもこうもあるまい。若い娘を抱き上げるとはどういうことだ。道をみはずすぞ」と言うのです。坦山は答えました。「なんだ、おぬしはそんなことにこだわっていたのか。わしはもう、すっかり忘れていたぞ。おぬしはいつまでもあの娘に思いを寄せて抱いていたのか」と。

このお話はよく語り伝えられています。僧侶は俗にあっても俗に染まってはならないという戒めとして、なかなかに味があります。またこの時代、かくも胸のすくような快僧がいたのです。維新の英雄も政治家も、軍人も学者も、そして若者も、新しい日本を築くために必死でした。それだけ、人としての器も大きかったのです。

合掌でボロが出る俳優・女優

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仏教

令和2年6月1日

 

俳優さんや女優さんは、もちろん立派な演技をします。しかし、合掌した時の姿にたいていはボロが出るので、そのことがとても気になっています。私もたまにはテレビを視るのですが、特に刑事ドラマなどで、若い俳優さんや女優さんが死体に向って合掌するシーンは、「まったく!」といっていいほどサマになりません。

こうしたシーンは、たとえば『鬼平犯科帳おにへいはんかちょう』での中村吉右衛門さんなどはさすがだと思いました。一般に大御所おおごしょと呼ばれる俳優さんや女優さんは、堂に入っているように思います。たぶん、それだけの努力を重ねて来たのでしょう。あるいはお寺や仏壇の前で合掌する習慣があるのでしょう。そもそも合掌の姿は、修行をして生活に溶け込まなければ体得できません。念珠の持ち方も、そのり方も同じです。つまり、単なる演技では必ずボロが出るということなのです。

黒澤明監督は数々の美学的映像を仕上げ、多くのファンを魅了しました。どのシーンを瞬間的に止めても、完璧な構図をなしている手腕には脱帽します。ところが『影武者』での上杉謙信が、「信玄死す!」の知らせに合掌する姿ばかりはいけません。春日山城の雪降る景観をリアルに描きながら、「惜しいな」と思ったものでした。

映画といえば、仏教の祖師や僧侶を主人公にした作品にもいくつか接しました。その昔の『釈迦』では本郷功次郎さんがお釈迦さまを演じましたが、残念ながら紙芝居かみしばいほどの記憶しかありません。萬屋錦之助さんの『日蓮』は貫禄かんろくはありましたが、どうしてもサムライという印象から離れません。『子連れ狼』を僧侶にしたような感じでした。

北大路欣也さんの『空海』を、皆様はどのようにご覧になったでしょう。おそらく、お寺である程度の作法は〝勉強〟したはずです。しかし、大変に失礼ではありますが、私は途中で劇場を出ようかとさえ思いました。お大師さまこそは日本史上、最大の巨星です。俳優さんが演じること自体、どだい無理なのです。もし私が監督だったら、お大師さまの映像は〈後ろ姿〉ばかりに留め、低めの声を静かに流すでしょう。合掌の姿も手に持つ念珠も、ボロを出したくはありません。

私がまずまず得心したのは、『天平てんぴょういらか』で鑑真和上がんじんわじょうを演じた田村高廣さんでしょうか。かなりの〝修行〟をしたのだと思います。主演の普照ふしょうを演じた中村嘉葏雄さんも琵琶法師びわほうし以来、僧侶役には適切だと思いました。

最後に『少林寺』における出演者はみな相当な武術家だけに、拳法も合掌の姿もみごとだったと思います。中国でも日本でも少林武術の旋風をまき起こしましたが、あの鍛錬たんれんこそは修行そのものです。ストーリーはともかく、これぞ僧侶なのだという気迫が見られるはずです。また韓国歴史ドラマの中にも、風格のある僧侶役の俳優さんがいたのを覚えています。

もう、字数が尽きました。酷評を並べましたことはお詫びいたします。それだけ俳優さんにも女優さんにも、期待をしているからです。多謝、多謝。

一目ぼれした尼僧

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仏教

令和2年5月30日

 

お釈迦さまの十大弟子の一人に、阿難尊者あなんそんじゃ(アーナンダ)という方がおられます。お釈迦さまの侍者として最も身近に使え、従って最も多くその教えも聞いたので「多聞第一たもんだいいち」とまで呼ばれています。また、阿難は大変な美男であったことでも知られ、多くの女性からもあこがれの的であったようです。

ある日、阿難は朝の托鉢たくはつを済ませ、祇園精舎ぎおんしょうじゃへ帰る途中でのどのかわきを覚えました。どこかで水を飲もうと思っていた時、清らかな池のほとりに出ました。そして、そこには近所の摩登伽まとが(マータンガ)という娘がちょうど水を汲みに来ていたのでした。阿難は静かに娘に近づき、ていねいに「水を一杯いただけませんか」と所望しました。摩登伽は「かしこまりました。いま汲んで差し上げましょう」と言って、阿難の食器に水を注ぎました。阿難はうやうやしく押し頂き、静かにその水を飲んだのでした。

ところが、その気高く美しい阿難の姿を見て、摩登伽はすっかり心をうばわれてしまいました。もの静かな気品に打ち震え、胸の高鳴りを押さえることができませんでした。この摩登伽という娘は、もともと多情多感であった旨を表記をした経典もあります。礼を言って立ち去る阿難の姿を追いながら、ものにかれたように、ぼんやりとたたずんでいたのでした。

そして家に帰ると、一目ぼれしたやるせない気持ちを母親に訴えました。「女として生まれて夫を持つなら、あの阿難さまのような方と結ばれたいのです。どうか私の心を察して、阿難さまにお願いしてください」と懇願こんがんしたのです。もちろん阿難は仏弟子(出家者)ですから、結婚などできるはずがありません。母親は「それは無理というものだ。阿難さまはお釈迦さまの大事なお弟子なのだよ。こればかりはあきらめなさい」と言いましたが、娘はなおも「この願いが叶わぬなら死んだほうがましです。生きていく意味がありません」とまで訴え続けました。

母親はやむなく、このことを阿難に告げましたが、阿難もまた解決する手立てもなく悩んでしまいました。こうなると、もうお釈迦さまの指示を仰ぐほかに道はありません。お釈迦さまは慈愛に満ちた表情で摩登伽の訴えを聞き、「そなたの気持はよくわかった。しかし、阿難と結ばれるためには、阿難と同じ境界きょうがいに到達しなければ、夫婦となっても破綻はたんしてしまうのだよ。毎日ここに通って私の説法を聞き、修行をすることができるかな」とさとされました。

摩登伽はもちろん承諾し、尼僧にそうとなって世俗の煩悩ぼんのうを超え、一心に修行の道に励みました。そして、やがて大きな悟りに到達し、阿難とは世俗の夫婦としてではなく、法友として共に歩むことに喜びと生きがいを感じるようになったのです。お釈迦さまも阿難も、そして摩登伽自身も、すべてが丸くおさまったのでした。

なお、日本の僧侶は結婚している方が多いのですが、それはこの国独特の仏教として異質な発展を遂げたからです。「堕落した仏教」などと一概に考えてはなりません。念のためです。

「できる男」の薬指

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人間

令和2年5月29日

 

女性が男性のどこを見るかというデータを調べますと、意外に手や指を見ているとの事実が判明しました。

特に現代は営業マンが商品を説明する場合、その手や指に視線が注がれるのは当然です。汚い手や指で説明されれば、誰だって買う気にはなれません。だから、男性専門のネイルケヤーが流行しているともうかがいました。今や男性にとっても、手や指は大事な〝商売道具〟となったことに間違いはありません。男性は常に、自分の手や指への気配りが必要な時代になったのです。

そこで、その指のお話です。読者の男性は自分の薬指を、既婚の女性はご主人の薬指を、恋人どおしの女性なら彼氏の薬指を、てのひらの方から見てください。そして、人差し指との長さを比較してください(この文章から離れて、まずはよく見てださい)。はっきりしないという方は、指の根元のシワから指先までを定規で測りましょう。どうでしょうか、もし薬指の方が長くれば、まず「できる男」と思って間違いありません。つまり、社会的能力に優れているということです。これは単なる遊びではないのです。動物行動学に基づく、学問的な裏づけがあるからです。

このことは、イギリスのケンブリッジ大学での調査結果があります。ロンドンの金融街でデータを出したところ、薬指が長いグループは反対に短いグループに対し、何と年間平均60万ポンド(7800万円)も収入が多かったというのです。7800万円もです。「それは聞き捨てならぬ」と思うでしょう。だから、まじめに測ってみてください。

これは、どうしてなのかと言いますと、男性ホルモンの代表であるテストステロンの分泌量が多いからです。母体に宿って男性としての体が形成される段階で、薬指に投影されるのです。テストステロンは女性にも分泌されますが、やはり男性に多いことは当然です。つまり、薬指の長い人はテストステロンの分泌量が多く、したがって精子の量も多いのです。そして行動力や闘争力があり、男性としての魅力にも富んでいるはずです。

しかし、もし薬指の方が短いという方も、がっかりすることはありません。テストテロンだけで社会的能力のすべてが決まるわけではないからです。たとえばセントニンの分泌量が多いと、気配りや冷静さといた精神性が高く、これも社会的能力となりまです。行動力や闘争力ばかりが男性の魅力ではありません。また、テストステロンの分泌量が多いと、失礼ながらハゲやすいという弱点もあります(そっとお教えしますが、新幹線のグリーン車に乗っている男性客はハゲが多いとの調査結果があります)。

真言密教では薬指のことを「無名指むみょうし」と呼びます。「あえて名づけない指」という意味でしょう。何とも気になる呼び名です。そして呼び名からして目立たず、何の役に立っているのかと思うところに秘密があるのです。私は毎日のお護摩で常に印を結びますので、その重要性がよくわかります。

ちなみに私は、人差し指が根元から七センチ、薬指は七・五センチで、「できる男」のようです(笑)。どうかな。

山路天酬密教私塾

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