山路天酬法話ブログ
字が上手だと何が得か
令和4年11月25日
現代のお坊さんはほとんど、大学や本山の学院を出て資格を取ります。ところが、大学にも学院にも書道の授業がありません。したがって、書道の稽古をすることがありません。だから、お坊さんでありながら、とんでもない字を書く方が少なくありません。皆様も位牌の戒名や塔婆の字を見て、がっかりしたことがあったはずです。
昔のお坊さんには〈小僧教育〉がありました。つまり、お師匠様のそばに寄り添い、身のまわりの世話をしながら、そのお師匠様の字を習ったのです。ですから、お坊さんといえば、字が上手であることが当りまえでした。私が子供の頃のお葬式といえば、大勢の檀家が見つめる中で、住職が堂々と墓標を書いたものです。それを見て、一同がため息をつき、その立派さを讃えました。だから、お坊さんといえば〝尊敬〟されました。
現代はパソコンや印刷機を使って、戒名や塔婆をきれいに仕上げることができます。だからといって、お坊さんが書道の稽古を怠ってよいはずがありません。書道は大切な修行なのです。少しでも稽古をすれば、必ず上達します。上達すれば、信用が高まります。私は現代のお坊さんには何としても、書道の稽古を自分に課してほしいと思っています。
このことは、お坊さんばかりではありません。失礼ながら、若い方の中には書いている字はもちろんのこと、ペンの持ち方すら、ほとんど信じがたい現場に直面します。書き方のコツなら、いくらでも出版されています。通信教育もあります。一日30分、ぜひ稽古をしてみてください。
それに、字が上手だと得をすることがたくさんあります。まず、人からほめられます。そして好かれます。また手書きの履歴書を書く場合に、圧倒的に有利です。そして、少しぐらい頭が悪くても(また失礼!)、利口に見られます(笑)。これは間違いありません。私が知っているある大工さんは学識はありませんが(またまた失礼!)、領収証の字がとんでもなく上手で、お客様からとても好かれています。だから、仕事の依頼も絶えません。
ちなみに、私は自分の著作やタイトルの依頼を、どれほど揮毫して来たかは数え切れないほどです(写真は最近のもの)。

このような仏教関係の場合は楷書や行書で揮毫しますが、文芸誌や歌集などは洒脱に書かねばなりません。どんな書体にも対応できる自信があります。私はいろいろな分野に肩書きがありますが、書道が好きだったことで、どれほど得をして来たかははかり知れません。これは本当のことです。
金運護摩のおすすめ
令和4年11月20日
本日は第三日曜日で、午前11時半より月例の金運宝珠護摩があり、大勢の方がお参りしました(写真)。

コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻、また円安の中で、私たちの生活はますますきびしいものになっています。そして、現代の生活にお金というものがいかに大切であるかは、お話するまでもありません。お金は自分自身の分身であり、また社会が自分というものを評価する目安でもあります。それだけに、お金を「キタナイもの」であるとか、「お金持ちはみな悪い人だ」などと考えてはなりません。
お金は社会に何を与えるかで、その報酬として自分に与えられます。お金持ちと呼ばれる方は、必ず人が欲する何かを、人が喜ぶ何かを社会に与えています。だから、与えずして得たお金は、必ず返さなければなりません。ギャンブルで財をなすことはありませんし、悪いことをしてお金を得た人は、いずれは償いを強いられます。これがこの世の中のルールです。
私は皆様の金運を高めるべく、宝珠護摩をはじめ、霊符神や龍神への祈願に力を入れています。これは皆様が持っている何かを世の中に役立て、金運がアップすることを願っているからです。真言密教の祈りは、必ず皆様の背中を押していただけることでしょう。このブログを読んだ方は、ぜひお参りにお越しください。お参りはどなたでも自由です。あさか大師の金運宝珠護摩で、強いパワーをいただいてください。
なお、本日はこの後に傳法灌頂という秘儀がありました。一定の修行を終了した僧侶の方々が、お大師さまの直接の弟子となるための儀式です。遠くは岡山や広島からも参集されました。ただ宗門のルールで、この様子を公開することはできません。参集した僧侶の方々が、さらなる修行に精進なさいますことを願っています。
インドのお粥はなぜ甘い?
令和4年11月16日
お釈迦さまは出家して後、6年間の苦行を続けました。苦行中の尊像も残っていますが、まさに骨と皮です。しかし、苦行ばかりでは悟りには至らないと考え、ネーランジャラー河で沐浴して瞑想に入ろうとしました。しかし、体力は極限に達して動くこともできません。
その姿を見て、滋養のある乳粥(インドのお粥)を供養したのがスジャータという娘でした。おわかりでしょうが、コーヒーフレッシュのあの「スジャータ」はこの娘の名前をとった商品です。生い立ちのよい娘であったそうです。お釈迦さまはその乳粥の供養を受けて体力を回復し、菩提樹の下で瞑想し、ついに悟りを開きました。仏陀の誕生です。したがって、仏陀を誕生させたスジャータの功徳は、絶大なものといっても過言ではありません。
ところで、スジャータが供養した乳粥とは何でしょうか。これをヨーグルトと書いている本もありますが、それは間違いです。インドのお粥はお米を牛乳で煮つめ、砂糖か蜂蜜を加えた甘い味で「キール」といい、ナッツやレーズンを添える場合もあります(写真は私が作ったキール)。私も若い頃には、よく断食して荒行に挑みました。ヘトヘトになってもお粥をスプーン一杯口にすれば、たちまちに体力が回復することは体験で知っています。お米はそれほどに偉大(!)なのです。

なぜ甘くするのかといいますと、甘味にはお祝いの意味があるからです。インドではお祝いがあると、キールを作って食卓に並べます。日本では赤飯ですが、東北や北海道の赤飯が甘いのも同じ意味です。
真言密教ではお護摩の油にも蜂蜜と〈酥〉を加えます。また、神さまにお粥を供養する場合も同じです。喜びの供養するわけですから、これもお祝いですよね。酥とは牛乳を煮つめた濃厚な状態で、今の食品でいうならエバミルクが妥当でしょう。
余談ですが、現在のコーヒーフレッシュは乳製品ではありません。だから、冷蔵庫に入れる必要がないのです。本当の乳製品なら、冷蔵庫に入れますよね。ネットで検索してみてください。あれは植物油を科学反応で白く見せ、添加物を加えただけの商品です。だから、お客さんがいくらでも使えるようにしているのです。私はコーヒーはブラックか牛乳を入れて飲んでいますが、皆様にもコーヒーフレッシュはおすすめできません。よくお調べください。
さらに余談ですが、日本のインド料理店では、どうしたことかメニューの中にキールがありません。私が知っているかぎりでは、銀座の〈ナタラジ〉という店がデザートとして出していました。めったに外食しないのに、一度だけ出向いた思い出があります。インドでは生米のまま牛乳で煮つめますが、炊いたご飯からでもよいでしょう。キールがどんな味か、皆様もぜひ試食してみてください。
神さまへの接待
令和4年11月12日
皆様は仏教において〈神さま〉と〈仏さま〉とどちらがお偉いのか、おわかりでしょうか。
神棚の方が上にあるから、神さまだと思いますか。いやいや、答えはもちろん「ノー」です。仏教におきましては、仏さまを守護するお役を担当するのが神さまで、山門の仁王さま、鎮守のお稲荷さまや龍神さまなど、そういう意味なのです。だから、仏教では当然、仏さまの方がお偉いことになります。ここまではいいですよね。
ところが、真言密教ではその神さまには二種類があると教えています。一種は仏さまが仮の姿として神さまに化身した場合で、これを「権類の神」と呼びます。〈権〉とは〈仮の〉という意味ですから、「権現」という呼称も、権類の神ということになります。権類の神は仏さまと同体なので、護摩壇のように壇線(護摩壇を囲む五色の線)によって結界(ガード)されていても、中に入って接待(供養)を受けてくださいます。
これに対して、もう一種はもともとの神さま、つまり土着の神さまです。まだ仏教に帰依してはいませんので、仏さまと同じように接待を受けることができません。これを「実類の神」と呼びます。ただ、権類も実類も同じ名前、同じ姿であるところがやっかいです。では、実類の神はどのように接待するのかといいますと、神供壇という法具を用います(写真)。

神供壇には十二本の幣(降臨するところ)が立てられいていて、主に十二天(東北・東・東南等の八方天と梵天・地天・日天・月天)を接待します。右には香水や五穀粥などを用意しますが、真言密教の僧侶は、権類の神は護摩壇にて、実類の神は神供壇にて修するということになります。わかりましたでしょうか。
こうしてお話をすると、神さまへの接待も、なかなかに大変です。私は毎日のお護摩で権類の神(十二天)を接待していますが、神供はめったにできません。でも、縁あってあさか大師が建立されたわけですから、実類の神も大切にしなければと考えています。五穀粥と書きましたが、次回はインドのお粥についてお話をしましょう。お楽しみに。
ツキを呼ぶための生活
令和4年11月8日
ツキを呼ぶためには、月に合わせて生活することが大切です。どういうことかを簡単にお話しましょう。
中医学(漢方)の古典『皇帝内経』には、「人体は月に影響される」と述べられています。人体の60~70パーセントは塩分を含んだ水分です。つまり、海水にかなり近く、これが潮の満ち欠けに関わることは当然でしょう。月の満ち欠けはおよそ29、5日の周期でくり返しますが、これが女性の月経のリズムともなります。昔から「満月の日は出産が多い」といわれるのも、一理あるはずです。
新月から満月に向けては〈開始〉を意味します。体のエネルギー(気)が増えていって、体調も昇り調子になっていくはずです。新しいスタート台に立って、心身ともに整え、目標に向かって進みましょう。満月は〈収穫〉を意味します。エネルギーがピークに達し、体調も最高潮です。ただし、実りの結果が悪かったからといって、ヤケを起こしてはなりません。かえって、そのマイナスの要素をため込んでしまいます。収穫があったなら、その実りを人のために分け与えましょう。その心がけがさらにツキを呼ぶからです。満月から新月に向けては、〈修復〉を意味します。反省して足らないものを補充し、欠点を正すことが大切で、つまり新月に向っての準備期間とも言えましょう。
したがって、満月の日は特に注意が必要であることは当然です。うまくいったからといって有頂天になったり、逆に、落ち込んだり暴言を吐いてはなりません。満ちれば欠ける月のように、私たちはすべてを手に入れることもなければ、すべてを失うこともないのです。これが仏教の〈無常〉の真理、つまり「すべては移り変わる」という教えなのです。

今夜は満月。しかも、皆既月食と天王星の惑星食が同時に起こります(写真は午後7時の撮影で、6割ほどの月食)。何と1580年(安土桃山時代)から442年ぶりだそうで、驚きますよね。
安土桃山時代といえば、織田信長が活躍した頃です。1580年は〈本能寺〉の3年前でした。信長もこの月食を見たはずです。私は彼が現代に生きていれば、映画監督かファッションデザイナーになったのではないかと思っています。既成概念を超えた美的感覚に満ちあふれ、斬新な作品を次々に発表したことでしょう。残念ながら、その気性の激しさから・・・。いや、また余談に走りそうですね。今夜は信長の悪い一面ばかりは控えましょうと言いたかったのです。ご用心を。
生きていくことの根本
令和4年11月6日
あさか大師では昨日と今日、月初めの総回向を修しました。皆様が熱心にお参りされ、僧侶も助法に勤めました(写真)。

私が先祖供養を重んじるのは、人が生きていくことの根本であるからです。ホームページの「先祖供養」欄にある樹木の図を見てください。人を一本の樹木に喩えるなら、太陽の光が信仰のご加護です。お護摩や加持祈祷のパワーです。またよい収穫を得るためには枝おろしをして風の通りをよくし、害虫を除かねばなりません。それが占いでいう方位や家相、墓相や名相(名前の画数)です。しかし、何よりも大切なのは地中の根です。根が弱くして、豊かな実りは望めません。まさに根本であるからです。
根は父方と母方に別れ、祖父母、祖祖父母へとつながります。一般に先祖供養というと、自分が名乗っている姓家ばかりに片寄りますが、血の流れが運命の流れであることを知らねばなりません。つまり、自分自身のルーツです。だから、父母の両家の供養を心がけることが大切です。
この父方・母方の両家を供養すると、人生の開運にサポートを受けることは間違いありません。あさか大師にご縁のあるたくさんの方々が、この両家の先祖供養に励んでいます。このブログをご覧の皆様にも、ぜひ参加していただきたいと思っています。お電話をいただけますれば、詳しく説明をいたします。よいご縁がありますように。
あの世に持ち越せる唯一の財産
令和4年10月30日
あさか大師は来年、開創五周年を迎えます。そこで、境内拡張事業を立案して隣接地120坪を購入し、すでに土木工事に着工しました(写真)。取りあえず、しばらくは駐車場として活用する予定です。

まわりの方々からは、「よく買えましたね」とか、「ずいぶんお金があるのですね」などと言われます。実は、ご寄進を仰いではいますが、とぼしい財力で土地を購入するのは、大変な難儀でした。売り手があってのことですし、資金の調達には心労を重ねました。さらに、土木工事も高額を要します。
しかし、仏教の考え方からすれば、この土地も建物も、私は自分のものでも寺のものでもないことを心得ているつもりです。登記上の所有は法律上の規則であって、いわばこの世での預かりものであるからです。そして、それはこの世におけるすべての所有に対しても、まったく同じであることを知らねばなりません。「所有するものは何もない」と断言するのが『般若心経』の教えであるからです。
私たちは、何かを手に入れるために生きています。そして、働いています。それはお金や財産のためであり、地位や名誉のためでありましょう。それは時には苦しみであり、時には喜びでありますが、そうした目的に向って進むことが、いわば生きがいといえるはずです。生きがいを持つことはとてもよいことですし、生きがいを持つことが、すなわち人生の幸せに等しいことは間違いありません。
しかし、どのような財産も名誉も、あの世には持ち越せませんし、次世代が相続しても、いずれ手放すことなるのは眼に見えています。すべては移り変わるのであり、すべては無常なのです。つまり、一切は仮のものだということです。預かりものだということです。所有するものなど、何もありません。その仮のものの中で、あの世に持ち越せる唯一の財産を、私は〈徳〉と呼んでいます。徳とは世のため人のための〝貯金〟です。徳のために生きることは、人生最後の生きがいであると私は信じています。
今回のこの土地も、世のため人のために役立つことを願ってやみません。徳が積めるとは、何という幸せでしょうか。人は自分のため、家族のために生きていますが、同時に世のため人のためにも生きているはずです。そして、あの世に持ち越せる唯一の財産を、仏教では〈功徳〉と呼んでいます。
なお、「あさか大師開創五周年記念事業」として、皆様より一口5000円でのご寄進をお願いしています。お心をお持ちの方は、ホームぺージ〈お問い合わせ〉よりご連絡ください。案内書と郵便振込用紙をご送付いたします。より多くの皆様に、功徳がありますように。
お不動さまが見える
令和4年10月24日
お護摩を修していると、よくお不動さまや観音さま、あるいは龍神さまが見えたという方がいます。写真に撮っても、瞬間的にそのような形に映ることもあります(写真は龍神さま)。また滝修行でも、同じようなことを聞きます。これについて、私の考えを三つの角度からお話しましょう。

その一つは物理的な次元で、炎の濃淡や岩の凹凸などで、顔に見える場合です。私も子供の頃、天井の木目が顔に見えて怖くなった経験がありますが、心理学ではこれを〈シミュラクタ現象〉といいます。林や森の樹木を写真に撮ると、よく顔が浮かんで見える場合も同じです。こうした現象があることを、まずは覚えておく必要はありましょう。
二つ目は、いわゆる精神的な信仰の次元で、たとえシミュラクタ現象であっても、それをお不動さまと尊ぶのは自由ですし、それを大事にすることはいっこうにかまいません。滝場では、よく岩の凹凸がお不動さまに見えることがあります。それは岩の凹凸を使って、お不動さまが姿を現したのだともいえるからです。阪神大震災の後、京都の東寺のある樹木の切り口にお不動さまの墨絵のようなお姿が現われ、私はお参りのたびに礼拝しています。ただ、これを一方的に押しつけてはいけません。あくまで、自分の信仰として尊ぶことです。上の写真を単なる偶然だとするならそれもよいし、龍神さまだとするなら、それは信仰として大切にすることです。
そして三つ目は、いわゆる霊的な次元です。私は心霊写真ではないかと持参して来た写真をかなり見て来ましたが、たいていは木の葉や壁の模様が顔のように見えるものでした。しかし、中には間違いのない心霊写真もありました。いるはずもない人の顔や手足が映っていたりすると、ぞっとしたものです。海や川で撮影されたものが多く、この場所やこの付近で亡くなった人だなと思ったものでした。お護摩や滝修行でも、見えないはずのものを見ることは確かにあります。しかし、見えないから信仰が足りない、修行が足りないということではありません。念のため。
ついでですが、寺の住職は「この写真を見てください」といって心霊写真(らしきもの)を見せられた場合、決して笑って済ませてはなりません。その方にとっては、夜も眠れないほど悩んでいる場合もあるからです。また、何ごとも科学的な視点だけで見るのも味気ない気がします。お不動さまのように見えるなら、それはそれで「大事にしてください」とお話してほしいと思います。皆様も気になる写真をお持ちでしたら、どうぞご持参ください。
密教修行への道
令和4年10月21日
本日は二名の方が出家受戒し、密教修行への新たな歩みを開始しました。大変に緊張した様子でしたが、何度もの礼拝をくり返して、お大師さまへの誓いを立てました(写真)。

最近はお若い方はもちろんですが、定年後は仏道修行をしたいと希望している方が増えています。ただ、仏門に入ろうとしても、それだけの縁がなければ叶いません。また歴史ある本山は敷居が高く、費用も大変だという声も聞きます。仕事も休まねばならず、髪をおろして剃髪をするのも、(特に女性は)むずかしいはずです。
私はこうした要望に応えるべく、あさか大師での僧侶志願者を募集しています。剃髪の義務もなく、仕事をしながらでも本格的な修行が可能で、賁用にも充分な配慮しているユニークな寺院であると自負しています。まだ4年目でありますが、すでに36名の方が入門しました。ご希望の方は、お問い合わせください。
日本の仏教には大きく分けて二つの流れがあります。心の真如を自らが求める自力派が一つで、禅宗がその代表です。また、あくまでも阿弥陀さまの救いを信じる他力派もあり、浄土宗や浄土真宗がその代表です。では、真言密教はどちらのかといいますと、実はいずれでもありません。自力と他力を融合した、いわば加持力派なのです。自分の努力も必要ですが、あくまでお大師さまの救いを信じるところに、その極意があります。
私は毎日のお護摩によって、また病者加持や先祖供養によってそのことを実証して来ました。ぜひ、多くの方にその加持力を知り、また体験していただきたいと念じてやみません。皆様からのご連絡をお待ちしています。
お金は後からついて来る
令和4年10月16日
本日は第三日曜日で、午前11時半より金運宝珠護摩を奉修しました。弟子僧の一人は遠く神戸から来山くださり、いっしょに助法をしていただきました。本日はお護摩の炎が一段と高く舞い上がり、このきびしい円安を乗り越えられるよう祈願を込めました(写真)。

真言密教は神聖な悟りを求めることと、世俗のご利益を求めることを、同じ目的として考えます。それはすぐれた経営者が、宗教家のような言葉を残していることからも理解できるのではないでしょうか。私は今年8月に他界した京セラ名誉会長・稲盛和夫さんの本をかなり読みましたが、同じことをいつも感じていたものでした。
経営者は利益を上げねばなりません。事実、稲盛さんは「経営の神さま」と呼ばれ、また億万長者でもありました。では、いつも利益のことだけを考えていたのかというと、まったく反対でした。経営の念頭にあったのは、いかにしたら世の中に役に立てるか、いかにしたら人に喜ばれるかだったのです。そして、臨済宗妙心寺派の僧侶として出家(得度)し、雲水(禅宗の修行僧)として托鉢も体験しました。
世の中の役に立ち、人に喜ばれるためには、人の心を学ばねばなりません。そして、心を学ぶとは修行そのもの、悟りそのものにほかなりません。すぐれた経営者はその悟りをもって世の中の役に立ち、人に喜ばれ、それによって大きな利益を得ているのです。利益を追いかけるのではなく、利益が追いかけるのです。つまり、お金は後からついて来るからです。
私は金運護摩に参加される皆様にも、お金は後からついて来るものであることをお話しています。経営のことはわかりませんが、自分のこの考えに間違いがないという、確信はあります。そして、どなたにでも納得していただけるという自信もあります。「経営の神さま」に聞いてみてください。

