願いが叶う仕組み
令和2年11月29日
私は毎日、たくさんのご祈願を依頼されています。もちろん、自分の願いもありますので、そのことを念ずることもよくあります。だから、願いが叶う仕組みをよく知っています。
何度もお話をしますが、願いが叶うということは、叶うためのヒントやアイデアをいただくということが多いのです。別な言い方をすれば、間接的に叶うという意味です。これは、きわめて大切なことです。
たとえばお金が欲しいからといって、天から一万円札がパラパラと落ちて来るわけではありません。売り上げを伸ばしたいからといって、明日から千客万来というわけにはいきません。つまり、お金や売り上げに関するヒントやアイデアを授かるという意味なのです。ご祈願をしたら、それがどこから授かるかに注意を傾ける必要があります。友人との会話、テレビ番組、雑誌の記事、電車の広告、ヒントやアイデアは意外なところにあるからです。これは、どんな願いでも同じです。
あるいは、自分でひらめくこともあります。私の場合は考えに考えぬいた後、思ってもみない時に、ふと浮かぶことが多いようです。お風呂の中でもよく浮かびます。特に出版社の方とは、よく街の温泉に行きます。湯船の中で話し合っていると、不思議に頭脳が冴え、ひらめきが浮かぶのです。まさに、お風呂は〝浮かぶ〟ところです。
こういう仕組みを知らずに、今日叶うか、明日叶うかと望んだところで、成就は得られません。仏さまも神さまも、いつも試していらっしゃるからです。上手におつき合いをしましょう。
法衣を着たホスト
令和2年11月27日
私は半ば冗談に、しかし真剣に、自分の職業を「法衣を着たホストです」とお話をしています。
どうしてかと言いますと、私を信頼し、私を慕ってくださる方、つまり私を〝指名〟してくださる方がいなくなれば、私はご信徒(お客)を失うからです。ご信徒を失うということは、私の価値は消え失せ、お寺を経営していくことなどできなくなるからです。もちろん、生活していくこともできません。私はいつも、そんな気持ちで毎日を過ごしています。
これは、私が「職業とはすべてサービス業である」と思っているからでもあります。人はみな何かを提供しながら、つまり何かを与えながら生きています。労働力であれ、商品であれ、技術であれ、情報であれ、アイデアであれ、何かを与えることにより、収入を得て生活をしています。しかし、与えるということはまた〝売る〟という意味でもあるのです。売れなければ与えることはできません。
では、どうしたら売れるのでしょうか。そのためには人が望むもの、求めるもの、満足するものを与えねばなりません。しかし、それだけでは売れません。人が喜ぶプラスの何かを与えねばなりません。プラスの何かとは笑顔であり、親切であり、思いやりであり、つまりサービスなのです。サービスが悪くては、何も売れません。だから、職業とはすべてサービス業なのです。私はそう思っています。
人は望むものが得られるとしても、気に入らない人には近づきません。雰囲気の悪いお店には行きません。少しぐらい遠くても、気に入った人に、気に入ったお店を求めるからです。この世で最も役立つ才能は、人に好かれることです。そして、最後まで残るのは人柄です。皆さん、そう思いませんか。
私は毎日、このような気持ちで法衣を着てお護摩やご回向を修し、ホストを務めています。もちろん、クラブのホストばかりではなく、「主人」という意味も含めてのお話ですよ。
プロの条件
令和2年11月23日
あさか大師の本堂に入れば、誰でも心洗われるような気持になるという自信が、私にはあります。たとえば、皆さんが斎場や火葬場などに出向くと、その重い気を受けて体調を壊すことよくがあります。そのような場合でも、あさか大師にお越しいただくと、体がとても軽くなり、気持ちも晴れるとおっしゃってくださるからです。
その理由は簡単で、私が毎日お護摩を修し、お大師さまにお仕えしているからです。ただひたすら、毎日同じことをくり返しているからです。だから、私がいろいろなお寺に出向いた場合、ご本尊さまがどのくらい拝まれているか、住職がどのくらいお勤めをしているかが、すぐにわかります。これは真言密教のプロとして、当然のことです。そして、プロはどの分野でも、そのような能力や感性を身に着けています。
たとえば、プロのスポーツ選手も同じです。プロ野球の一流の右投手は、自分の左耳が見えるほどに視野が広いと言われます。本塁の打者を見ると同時に、一塁走者動きも同時に見えなくればならないからです。また、キャッチャーにいたっては、グランド上の味方の全選手の動きと、塁上の敵のランナーの動きを一瞬にして見渡すことができます。
一流のサッカー選手は、ボールを蹴りながら一瞬にグランド内を見渡し、敵味方の選手の動きを的確に把握し、パスをしたり、敵の背後に走り込んで、味方のパスを受けたりします。
一流の卓球選手は、相手のラケットの動き、腕の動き、肩の動き、目の動きなど、すべての動きを一瞬に見極めねばなりません。そうでないと、相手のフェイントを見破れず、あっさりと逆コースを抜かれることになるからです。
こうした能力や感性は、各選手が生まれながらに持っていたものではありません。一日も怠らぬ練習と長い実践経験から養われることです。だから、そのきびしい練習や実践に耐えられない選手はプロにはなれません。プロのスポーツ選手が一日も練習を怠らぬのなら、真言密教の僧侶が何を怠ってはならないのか、これは誰にでもわかることです。
侘びの極み
令和2年11月19日
紅葉の季節になると、いつも思い出す印象的なお話があります。それは茶道の宗匠・千利休がまだ若い頃、師匠の武野紹鴎のもとで修行をしていた頃のことです。
ある日、紹鴎が茶会の客を招くため、念入りな準備をしていました。茶席の道具を取りそろえ、内外を掃き清め、水を打ち、充分な掃除も済ませました。そこで紹鴎は一計を案じ、利休を試そうとしました。掃除はすべて済んでいたにもかかわらず、「露地の様子を点検しておきなさい」と命じました。
庭も露地も万全を尽くしたのですから、塵ひとつ落ちているはずがありません。しかし、そこが利休の非凡なところです。ある紅葉の下に行くと、その樹を何気なくゆすり動かしました。すると、色づいた紅葉がパラパラと露地に落ちました。美しい模様が点々と露地に描かれたのでした。利休は「お師匠さま、路地を点検しました。ご覧になってください」と言うや、紹鴎はその侘びの風情に驚きました。完璧に掃き清めた露地はもちろん美しいのですが、自然な落ち葉はさらにその風情を深めるからです。「この子はただ者ではない」と思ったのも、無理はありません。
利休は侘びの極みを心得ていたのです。つまり、最高の侘びとは美を極めて、さらにひとつ脱落したところにあるからです。つまり「不完全の美」にこそ、その境地があるということです。だからといって、作為的に手を加えても、侘びの極みにはなりません。そこを間違えてはなりません。
利休は後に、最高の宗匠となって、侘び茶を大成しました。さすがに紹鴎が見込んだだけの人物だったということです。ただ、私たちが同じことをしても〝不行き届き〟になるばかりです。マネをしてはいけませんよ。
先立ちの大掃除
令和2年11月16日
今年も残すところ、1ヶ月10日余りとなりました。昨日は午前11時半に金運護摩(写真)を、午後1時より回向法要を挙行しましたた。コロナ禍にあっても、皆さんがお時間を取ってご参拝くださいました。
また法要終了後は、年末に先立って大掃除をしました。お護摩を焚く本堂の悩みは何といってもススで汚れることです。お護摩は毎日修していますので、これはやむを得ません。お大師さまのまわり、本堂の柱や壁、回向殿の中(写真)も、僧侶の方々によってきれいにしていただきました。
いつも思うのですが、職場の基本は挨拶をすることと掃除をすることです。これがなされていないと、清らかな〈気〉が充満しません。浄らかでなければ開運のパワーも充満しません。いくら商売繁昌を願っても、叶いません。反対のことを考えればスグにわかります。互いに悪口を言ったり、ゴミが散乱している職場には、決して開運のパワーが充満しないからです。
お寺は毎日、同じことをくり返しますが、その基本は挨拶(勤行や修法)と掃除です。この繰り返しが、大きなパワーを呼ぶのです。大事な祈願が入ったからといって、急に頑張ってみても、それでは充分なパワーが躍動しません。私もこのことを自戒し、お弟子さんたちにもお話しています。
祈願が成就するためには
令和2年11月14日
昨日、長い間の祈願をしていた、ある事業許可が成就しました。お知らせを受けてホッとすると同時に、願主と共に喜びを分かち合いました。こういう時こそ、真言行者はその冥利に尽きるというものです。
祈願が成就するためには、いくつかの条件が必要です。そこで、私が普段から考えていることをお話しましょう。
①祈願は本尊(お大師さま)と行者(導師)と願主(信徒)が一体にならねば、成就しません。これを〈三力〉と言います。つまり、本尊さまと行者が融合しても、願主が熱心に努力し、信仰に励まねば成就しないということです。願主をはじめ、多くの信徒が結集する祈りを〈法界力〉と言い、本堂の中に遍満する力を指します。
②祈願と共に、先祖への供養も怠らぬことが大切です。せっかく祈願をしても、先祖への供養が充分でないと、その福徳が充分に届きません。祈願と供養は一対の車輪と心がけることです。
③今までと同じ生活をしていても、人生は変わりません。人に喜ばれ、感謝をされる行いをすることです。一日一つでもよいのです。やさしい言葉をかけ、笑顔で接し、親切を施すことです。人に喜ばれることは、仏さまにも喜ばれることを忘れてはなりません。その功徳が祈願を成就する力となるのです。
先に述べた願主は、このいずれにも熱心でした。そして、真剣でした。このような方は、たとえ時間はかかっても、ついには勝利を得ることを私は知っています。正しく祈願をすれば、必ず成就します。皆さんも肝に銘じましょう。
月始めの総回向法要
令和2年11月9日
昨日と一昨日は、月初めの総回向法要を挙行しました。そして法要の後、来年の暦のお話をしました。皆さん、ご自分の運勢や厄よけ・災難よけのことが気になりますので、真剣でした(写真)
お寺は檀家さんに、本山発行の暦を配っています。しかし、ご住職は意外に暦の勉強をしていません。特に若いご住職は苦手な傾向があります。むしろ、ご年配の檀家さんの方がよく知っています。だから表鬼門や裏鬼門、五黄殺や暗剣殺などと言われても、何のことだかわからないことが多いのです。
私はこのことを痛感し、僧侶の方にはよく暦のお話をしています。特に九星気学は重要なので、新たな著作にも取りかかりました。基本的な知識だけでも、ぜひ学んでいただきたいと考えています。
あさか大師にお参りする方は、私から何度も暦のお話を聞いていらっしゃいますので、よく勉強しています。「素人占い師」ぐらいにはなれるかも知れません。子供さんたちも増えて来ましたので、私はこの先々を楽しみにしています。
六地蔵の並べ方
令和2年11月6日
先日、六地蔵のお話をしました。
あさか大師でその六地蔵をお祀りすることとなったわけですが、気になるのはその並べ方です。近辺のお寺や墓地を調べましたが、まったく統一されてはいません。ちょうど法友の一人が、自坊の六地蔵を並べ変えるにあたって、その詳細を調べたそうなのです。その資料も送っていただきました。
しかし、確たる結論には至らなかったらしく、あちこちにありながら、まったく奇妙としか言いようがありません。もちろん、いろいろな経典にそれぞれの名称や持ち物が説かれています。たとえば『覚禅鈔』という経典を開きますと、「大定智悲地蔵・大徳清浄地蔵・大光明地蔵・清浄無垢地蔵・大清浄地蔵・大堅固地蔵」という立派な名前がついています。ところが、その持ち物の記載が、一般に普及している六地蔵のそれには一致しません。たとえば、両手で合掌していたり念珠を持っているお姿がありますが、経典にそのような記載がないのです。
私はさらに探求し、民俗学や歴史学の視点からも調べてみましたが、結果は同じでした。六地蔵のことを論じた書籍がないかを古書店にも問い合わせましたが、ないことが不思議であるかのような返答でした。つまり、あまりにも身近な民間信仰であるためか、真剣に研究した方が少なかったということなのでしょう。
すでにお祀りする場所も定め、年内にも安置したいと思いつつ、法友と同じ疑問に悩む結果となりました。それでも、可能な限りは調べましたので、それにしたがって並べるつもりです。完成しましたら、写真も含めてこの「法話ブログ」に公開いたします。もうしばらくお待ちを。
仏さまの三身
令和2年11月2日
「仏さまはどこにいらっしゃるのですか」という、素朴な質問を受けることがあります。そこで、仏さまの〈三身〉についてお話をいたしましょう。
まず、仏さまは私たちの心の中にいらっしゃると考え、これを「法身の仏さま」と呼びます。この法身の仏さまがいらっしゃらなければ、私たちはお参りをしたり、読経をしたりすることはありません。修行を志すこともありません。
そして、お寺にお参りをしたり、読経をしたりする以上、本堂には仏像や仏画が祀られていますので、これを「応身の仏さま」と呼びます。つまり、仏師によって彫られた仏像や、絵師によって描かれた仏画を入魂開眼すれば、これももちろん立派な仏さまなのです。決して、単なる美術品などと思ってはなりません。
皆様は奈良や京都に行って、〝仏さま〟を拝観したいと思うはずです。国立博物館で「〇〇寺名宝展」や「〇〇仏教美術展」が催されれば、何時間も並んで入場するはずです。そして、その高貴なお姿にうっとりとするはずです。仏像や仏画の絵葉書まで買うはずです。どうしてなのか、わかりますでしょうか。
これは皆様の心の中にいらっしゃる仏さまが、同じ仏さまを求めるからなのです。つまり、類が類を呼ぶのです。そうでなければ、わざわざ交通費を払って出かけるはずがありませんし、出かけるための時間を作るはずもありません。仏さまは私たちの心の中に、間違いなくいらっしゃるのです。また、心の中に仏さまがいらっしゃらなければ、仏師や絵師が仏さまをこの世に彫り出すことも、描き出すこともできません。
そして、この仏像や仏画を入魂開眼するためには、法界(曼荼羅世界)から「報身の仏さま」をお呼びする必要があります。法界の曼荼羅世界とは、この自然界、あるいは宇宙のことです。この法身・応身・報身を仏さまの三身と呼びます。真言密教の行者が修法をする時は、心の中の本尊と、本堂の本尊と、法界の本尊の三身を冥合させ、この世に仏さまを顕現させるのです。このお話、とても大事ですよ。