2020/10の記事

何を捨てて何を拾うか

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人生

令和2年10月7日

 

私はゴルフもマージャンもできません。カラオケもダンスも上手じょうずとはいえません。投資もギャンブルも知りません。

こういうことが得意なら楽しいだろうと思いますが、私の価値観の中ではあまり大きなものではありません。つまり、人生における優先順位が高くはないという意味です。私にとって僧侶の仕事は最優先であり、また生きがいを感じるものでもあります。もちろん仕事に疑問を持ったり、苦しいこともありますが、概してこの仕事を選んでよかったと思っています。たくさんの法友やご信徒に囲まれ、幸せな人生であるとも思っています。

人生は限られた時間と、限られた能力と、限られたうんの中でしか希望を叶えることができません。何もかも叶えることはできないということです。仕事をバリバリにこなし、家族の世話も充分に尽くし、社会にも貢献し、友人とのつき合いもマメで、学歴も教養も申し分がなく、趣味やグルメも楽しみ、世界中を旅行できればけっこうなことですが、そのすべてを叶えることはできません。少なくとも、同時に叶えることはできません。

すべてが叶わないのであれば、何を捨てて何を拾うかを考えねばなりません。人生は常に、何を捨てて何を拾うかの二者択一にしゃたくいつを迫られるからです。〝あれかこれか〟のどちらかを選ばねばならないということです。一日の仕事が始まれば、最初に何から片づけるかを考えねばなりません。そして、選ばねばなりません。一つの仕事を選ぶということは、もう一つを捨てるということです。人事でも結婚でも一人を選ぶということは、もう一人を捨てるということです。私たちは、こういう二者択一をくり返しながら、毎日を生きているのです。

捨てるという選択は、あきらめることでもあります。よく知られるようになりましたが、あきらめるとは〝明らかにみる〟ことです。明らかにみることが、すなわちあきらめることです。明らかにみれば、ものごとの良否がみえ、善悪がみえるからです。あきらめるは漢字で〈あきらめる〉と書きます。諦めるの〈たい〉とは仏教では悟りを意味します。煩悩ぼんのうとしての余分なもの、不要なものを捨てることが諦めること、つまり悟りであるということです。

だから、人生は多くのことを諦め、多くのことを捨てねばなりません。私も多くのことを捨てて諦めました。今の生活がその結果です。毎日、あさか大師にいますので、休むこともできません。行ってみたいところがあっても、それも叶いません。しかし、これによって多くを得て来たことも事実です。体も心も解放され、祈ることの喜びを知りました。これは捨てて諦めなければ、得ることはできません。そして、ついにすべてを捨てたものが、すべてを得るのです。お釈迦さまやお大師さまのようになるのです。いや、そうではないかと、ひそかに思うのです。

月始めの総回向

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あさか大師

令和2年10月4日

 

昨日と今日は月初めの総回向で、光明真言の法要を修しました。コロナの中、ちょっとさびしい集まりでしたが、皆様が意を決してお越しくださいました。また、僧侶の方は行法ぎょうぼうの伝授やお護摩の勉強にお集りいただきました(写真)

毎日、光明真言法こうみょうしんごんぼう土砂加持法どしゃかじほう)を修し、月に二度ほど行事を挙行していますが、いのちの根がご先祖にあることをいつもお話しています。また皆様、読経にとても熱心です。『般若心経』の意味を質問される方もいらっしゃいますが、私は「このお経全体が真言なのです」とお答えしています。つまり、意味を論じるよりも、読経そのものに大きなパワーがあるということです。あさか大師では太鼓も入りますので、さらにパワーが増します。

真言はまた〈振言しんごん〉でもあります。振動であり、波動であり、エネルギーなのです。お大師さまも『般若心経秘鍵ひけん』で、そのようにおっしゃっておられます。読経をすると体温が上昇し、代謝を向上し、ストレスを解消させます。体のためにも、心のためにも、魂のためにもなります。功徳を生み、自分のためにも、ご先祖のためにも、社会のためにもなるのです。こんなにいいことは、世の中にそうそうありません。

だから、お母さんのお腹にいる時から読経を聞いて産まれたお子さんは、素直に育ちます。小さい時からお寺で読経を聞いた子供さんが、非行に走ることはありません。大人が読経をすれば、老いても大きなやすらぎとなります。老いて読経をすれば、あの世(!)へっても役立ちます。もちろん写経も同じで、まったく、いいことづくしです。そして、それを教えてくれるお寺ほどいいところはありません。そう思いませんか、皆様。

中秋名月

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文化

令和2年10月1日

 

今夜は中秋名月で、これほどきれいな満月を観るのも久しぶりです。さっきから何度も庭に出て、満月にむかってグラスをかかげ、乾杯(ただしノンアルコール)をしました。あさか大師の桜並木から写真を撮りましたが、「こんなカメラで申し訳ありません」と謝ったくらいです(写真)。

現代人はもちろん、月にはウサギがいてもちをついているなどと思っている人はいません。ススキや団子だんごを供える方も少なくなったことでしょう。観測データも進んで、一般の方でもかなりの知識を持っています。月面は昼の正午の温度が110度、夜はマイナス170度です。昼にウサギがいても丸焼けになりますし、夜なら凍結とうけつして餅つきどころではありません。

ところが現代の幼稚園や保育園でも、月見の由来を子供さんたちにお話し、月見団子を作ってススキと共にお供えします。家に持ち帰れば、窓際まどぎわやベランダにお供えするかも知れません。日本人はそれほど、月見というものを大事にしているのです。平安時代は秋の収穫を感謝して里芋や豆類をお供えしましたが、それが月の形をした丸い団子になったのです。

いつも思うのですが、今日は旧暦の八月十五日で、つまり〝十五日の夜〟なのです。〈十五夜〉が十五日の夜にならない今の新暦は、どう考えも日本人の風習に合いません。〈新春〉とはいいながら、新暦の元旦では春のきざしもありません。七草だって生えません。三月三日といっても、新暦では桃の花など咲きません。今の桃の花は温室で育てられたものです。七月七日の七夕も、新暦ではまだ梅雨も明けません。だから、天の川など見えません。

日本人は旧暦によって、その文化を維持して来ました。真言密教で日の吉凶を調べる『宿曜経』も、旧暦を用います。旧暦の毎月一日から次の月が始まりますので、これを「月が立つ」という意味で〈月立つきたち〉と呼び、〈ついたち〉へと変じました。同じように終りの三十日を「月隠つきこもり」と呼び、〈つごもり〉へと変じました。美しい日本語です。

そして、明日の十六日の夜が〈十六夜いざよい〉です。今夜の満月に比べると、輪郭りんかくがゆるみ、はにかみ、ためらいがちに現われます。明後日の十七日の夜が〈立待月たちまちづき〉です。月がまるで躊躇ちゅうちょしていたかのように忽然こつぜんと現れる様子を、立ちながら待つのです。たった一つの月を、これほどいとおしむ国はありません。美しい日本語です。

腹七分目の幸せ

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人生

令和2年10月1日

 

「腹八分目」といいますが、なかな出来ることではありません。ご馳走を前にすれば、腹いっぱい食べたくなるのは人の常です。だから、満腹になるまで食べ尽くしてしまうはずです。そして、そのことは物ごとに対しても同じです。

人は望んだことを百パーセント満足させようとします。その傾向は、マジメな人ほど強く出ます。何でも完璧でないと満足せず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込み、その思いが極端に進むとうつ病におちいります。

いったい、この世の中はうまくいくことといかないことと、どちらが多いでしょうか。それはもちろん、うまくいかないことが多いと知らねばなりません。「三度目の正直」といいますが、三度ことをなして、三度目にうまくいけばかなりの成功率です。それは野球で三割バッターともなれば、一流選手であることを見てもわかるはずです。イチロー選手だって四割は打てません。つまり、十回挑戦して、三回成功すれば一流選手だという意味です。

私は若い頃に自己啓発や成功法則の勉強をしましたし、いろいろなセミナーにも参加しました。自律訓練法、プラス思考、マインドコントロールも学びました。それでも百パーセント成功することはありませんでした。今では成功への最善を尽しても、失敗したり最悪の状況に備えておいた方が、うまくいくということを確信しています。

成功をイメージすることは大切です。同時に、失敗を想定することはさらに大切なのです。そうでないと、いざ失敗した時に何の対応も出来ません。そして失敗とは、まさに成功しない方法を学ぶことであると知るべきです。失敗から何も学べないとしたならば、それこそ本当の失敗だと知るべきです。

私もかつては一種の完全主義者でした。望んだことを百パーセント叶えないと満足しませんでした。それによって神経をすり減らし、自分の無力を恥じたものでした。周囲の人に迷惑もかけました。しかし、ある時期から望んだことの七十パーセントが成功すれば上出来じょうできだと考えるようになり、とても楽になりました。これは始めから妥協するという意味ではありません。最善を尽して、その結果が七十パーセントなら、それで充分ということです。三割バッターどころか、七割バッターです。上出来ではありませんか。私はこれを「腹七分目の幸せ」と呼んで、自分への戒めにしています。

成功が続くようなことがあったら、あぶないと思うべきです。必ず慢心まんしんが生じます。慢心こそは自らを滅ぼすやいばなのです。そして「腹七分目の幸せ」を忘れぬことです。ちょうどいい腹かげんです。「満八分目」でもゼイタクですよ。

山路天酬密教私塾

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