トイレの神さま
令和元年6月17日
トイレそうじをすると、「シモの病気にならない」とか「安産ができる」などといわれています。
これは当然のことで、要はトイレが排泄やお産に関わる〝シモ〟の場所であるからです。そして人間の生活に必要な場所である以上、必ず神さまがいらっしゃるからです。不浄とされるトイレそうじをすることは、それだけ功徳を積むことになるのです。だからトイレの神さまに好かれ、シモの病気を避け、安産ができるのです。
また、昔の和式トイレはしゃがんで用を足し、雑巾がけをしましたから、おのずから足腰が鍛えられます。現代は妊婦の方がプールの中を歩いたりしますが、これをトイレそうじでしていたわけです。やはり、昔の人は自然の理に長けていたのでしょう。
トイレの神さまを「烏蒭沙摩明王」といい、通称「烏蒭沙摩さま」といいます。不浄除の御札には、必ず烏蒭沙摩さまの御影(お姿)が描かれたり、真言(マントラ)が書かれています。除臭剤や芳香剤もけっこうですが、本来はお香を供えるべきなのです(写真)。私は毎朝、お大師さまの本堂、回向殿、水子堂の後、トイレにもお香を供えてから修法(おつとめ)に入ります。奈良や京都では、今でもトイレにお香を供えている旅館が多いのはさすがですね。一度、試してみてください。いいことがありますよ。
金運宝珠護摩
令和元年6月16日
毎月第三日曜日は、午前11時半より金運宝珠護摩を修しています(写真)。毎日のお大師さまご本尊の場合も如意宝珠のお護摩でありますが、今日は特に金運を念じて修しました。現代は特に、金運なくして生きていくことはできません。だから、大勢の方々が集まるのです。
そして、人はつまるところ衣食が足りてこそ、礼節を知るのです。生活もままならずして、仏教の話など聞く道理がありません。皆様は仏教というと、心の教えとばかり思われましょう。しかし、衣食を求める者には衣食を、悟りを求める者には悟りを与えるのがお大師さまの密教であります。
お大師さまは社会の平和のためには鎮護国家のご祈祷を、陛下の健康のためには玉体安穏のご祈祷を、寺の発展のためには寺門興隆のご祈祷を、庶民の衣食のためには諸人豊楽のご祈祷を修されました。そして、弟子の修行成就のためには、俗界を絶った高野山を開かれたのであります。人が求め、人が生きる以上、いずれも必要なことばかりです。
皆様が何の関心も持たないような難しいお話をしたところで、お寺に足を向けるはずがありません。このことを肝に銘じ、日々の心がけにしています。生活に直結してご相談に乗れるよう、今後も努力を重ねます。どうぞ、いつでもお越しください。
砥石のおかげ
令和元年6月15日
台所の隅に電動の包丁研ぎ機をおいて、マメに包丁を研いでいます。包丁の切れ味が悪いと、料理の意欲も薄れるからです。板前さんなら、なおさらのこと。毎日、砥石で包丁を研いで手入れをしているはずですし、昔は床屋さんもそうでした。農家の方なら毎日、鎌を研ぎました。
だから、刃物が切れるのは砥石のおかげだということを忘れるべきではありません。砥石はもちろん、まったくの下役、縁の下の役で、表に出ることはありません。日本刀の美しさや包丁の切れ味が称賛されても、砥石が讃えられることはありません。しかし、日本刀も包丁も砥石がなければどうすることもできません。砥石は誰にも注目されず、その産地すら知られていません。これはいったい、どうしたことでしょうか。
実は京都の亀岡に〈匠ビレッジ天然砥石館〉があり、丹波青砥等の名品が展示されています。京都は木造建築や和食文化が永く継承され、それらの道具を研ぐために、すぐれた砥石が集められたのです。観光名所もけっこうですが、こういうところが京都ならではなのです。
私たちの社会は、多くの裏方によって支えられています。自分が裏方になったり、逆に裏方に助けられて仕事をしています。いずれも必要なものです。刃物を扱う方々は、無事に仕事ができるのは、すべてこれ砥石のおかげだということを肝に銘じましょう。
散歩の楽しみ
令和元年6月14日
時間が取れれば、なるべく散歩をしています。
先日、紫陽花のことを書きましたが、散歩中によいところを見つけました。桜の下に紫陽花を植えており、共に花を楽しめます(写真)。
紫陽花は半日影が好ましいので、ちょうどよいと思いました。あさか大師の隣も桜並木なので、これを見本に紫陽花を植えてみたいと考えています。いま、樹下の水路を歩道にする工事ををしていますので、完了したら取りかかりましょう。参詣の方々が楽しめるはずです。
各地に〈あじさい寺〉がありますが、私が最も感動したのは、京都大原の三千院でした。ちょうど今頃の梅雨の日、往生極楽院との景観には涙が出るほどの思い出となりました。格別に紫陽花を強調しているわけではありませんでしたが、何とふさわしい花だろうと心がときめきました。文字どおり、極楽の片鱗をかいま見た気分でした。
身近なところで、このような喜びに出会えることは人生の妙味です。私は法務のために旅行も出来ませんが、身辺にこのような所を見つけ出していきたいものです。皆様の近辺にもきっとありますよ。ぜひ、探してしてみてください。生きていく時間は、アッという間です。今のままでは後悔しますよ。きっとそうですよ。
サルまねの効用
令和元年6月13日
学ぶことは〈マネぶ〉こと、といわれています。つまり、どんなことでもそれを学ぶことは、先輩や先生のマネをすることなのです。よく〝個性〟などといいますが、始めから個性など求めてはなりません。徹底してマネること、マネをしている内に自ずから表れるのが個性でしょう。
また、創造することもマネなのです。何もないところから、新しいものなど生まれる道理がありません。何かをヒントに、何かを参考に、それを模倣してこそ、新しい創造が生まれるのです。「無から有をなす」ことなど、あり得ません。すでに出来あがったものの中から、さらに別のものを作り出すことが「有をなす」ことなのです。
これはニューサイエンスという科学でも、立証されています。やさしい人になりたかったら、やさしい人のマネをしましょう。そのうち、必ずやさしい人になれるのです。幸せになりたかったら、鏡を見て幸せそうな顔をマネましょう。必ず幸せな気分になってきます。
まわりを見てください。若々しい人とは、若々しいマネをしているのです。若々しい言葉を使い、若々しい服装をして、若々しい考え方のマネをしているのです。そして、常に前向きにものを考え、何をしようかとワクワクしているのです。細胞も内臓も体も、心が反映するからです。
マネをすることは、偉大な科学で、偉大な学習法で、偉大な健康法なのです。皆様、大いにマネをしましょう。そして、身も心も若々しくなりましょう。
法楽太鼓
令和元年6月12日
密教私塾の塾生の希望によりまして、法楽太鼓の稽古をしました(写真)。
特にお護摩のご祈祷において、太鼓の響きは欠かせません。ただ、これまでの稽古は「体で覚えなさい」の一辺倒で、初心者がわかりやすく練習するカリキュラムやテキストがありませんでした。そこで私は、平成16年にテキスト付の『法楽太鼓の打ち方』(青山社刊)というDVDを発表し、初心の僧侶でもわかりやすく太鼓の稽古ができるよう配慮しました。
私はもちろん俳優ではありませんので、いざ大きな撮影カメラを向けられると、緊張の連続で普段のようにはいきませんでした。まわりの人たちはクスクス笑っていたものです。それでも、録画をつなぎ合わせれば、何とかなったのでしょう。このDVDは宗派を問わず、大変に普及しました。
特に法楽太鼓における二つのパターンと、五つの基本打法を分析し得たことは、大きな収穫でした。二つのパターンの内、はじめの〈第一番〉なら、数時間の稽古をすれば必ず打てるようになります。カリキュラムもテキストもなく、またそれを教える師匠もないでは、法楽太鼓が普及する道理がありません。僧侶は魂をゆさぶる太鼓の習得を、ぜひ志していただきたいと思います。私も時間が許すかぎり、いつでもおつき合いしますから。
九星気学
令和元年6月11日
九星気学の勉強のため、鹿児島よりご住職がお越しくださいました。
私はお寺のご住職にこそ、九星気学を勉強していただきたいと思っています。なぜなら、檀家様に暦を配っていながら、ほとんどその知識にとぼしいからです。現代は一般の方々にさえ、九星気学はかなり普及しています。
たとえば、「北に入っているから、今年は厄年です」とか、「八方ふさがりなので、家の建て替えは見合わせました」などと檀家様がお話するはずです。また歳徳神(あきの方)や大将軍(三年ふさがり)、鬼門(表・裏)などについて、ご年配の方ならよく知っています。にもかかわらず、それを聞いているご住職や奥様が何を言っているのかわからないという事実がかなりあります。かといって、そんなことを今さら聞き返すわけにもいかず、勉強しようにもどうすればいいのかもわかりません。また、易占学校に通う時間もありません。これは、まったく奇妙なお話です。
ご住職が占い師になるには及びませんが、ある程度の専門知識は必要でしょう。私が『九星気学と加持祈祷』を刊行した理由はこのためです。いま、その続編を執筆中ですが、密教私塾でその門を開きたいと考えています。ぜひ、多くのご住職に学んでいただきたいものです。
ちなみに申しますが、今年は八白土星の年で、変動の象意があります。これまでになかった新しい発想で、新しい製品が活発に伸びるでしょう。また、オリンピックに向けての建設業界やホテル業界が活発になるのは当然jです。これまでの概念が、大きく変わる年といえましょう。
九星気学を勉強すると、世の中に対する見方が変わります。このブログを見たご住職は、ぜひお越しください。一般の方々も歓迎です。
紫陽花
令和元年6月9日
今日も梅雨らしい一日でした。そして梅雨の花といえば紫陽花でしょう。〈あじさい〉や〈アジサイ〉より、私はこの漢字表記が好きなのです。紫陽花の〈陽〉とは光のことです。そして、おりおりの光によって色が変ずる花という意味です。
梅雨の詩情として、これほど似合う花はありません。今朝も散歩中に薄紫の紫陽花が目につき、その家のご主人より一枝をいただいて本堂に挿しました(写真)。技術などどうでもよいのですから、皆様も庭の一枝をガラス瓶にでも挿してみてください。家の中がパァーと明るくなりますよ。
万葉の時代は「集真藍」といったそうで、藍色の小花が集まった花とのお話を聞いたことがあります。今どきは藍色のほか、青・紫・紅・白などの色が多彩に競います。また、各地に〈あじさい寺〉が増えて、うれしいかぎりです。
また紫陽花について、忘れられないのは三好達治の詩「乳母車」です。
母よー
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花色のもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
私がはじめて魅せられた「声に出して読みたい日本語(斎藤孝氏の造語)」でした。
解釈など、無用なことです。ただ紫陽花が淡く、悲しく〝ふる〟のです。時が過ぎるのです。何と美しい詩でしょう。久しぶりに、青春を堪能しました。
嫉妬を転じる
令和元年6月8日
高齢になれば体力が衰えます。これはやむを得ないことです。では煩悩も衰えるかというと、これがまったく逆なのです。年齢と共に、ますます制しがたいのが煩悩でありましょう。しだいに時代から取り残され、若い人のすることがいちいち気に入らないからかも知れません。
中でも、最も制しがたい煩悩は〈嫉妬〉であるといわれています。自分の成功を喜ぶのは当然ですが、他人の成功を素直に喜べないところが嫉妬なのです。嫉妬の文字は、二つながらにオンナヘンが付きます。なるほど女性は、他人の仲のよさをねたんだり、ヤキモチをやくことが多いのでしょう。
しかしながら、実は男の嫉妬はより陰険で、底知れぬ不気味さがあることをご存知でしょうか。それは男には闘争本能があり、常に競争にさらされて来たからなのです。自分の身辺によりすぐれた人物がいる時、その人物が大きな成功や栄誉に輝いた時、これをねたまぬ男はいません。口では褒めたたえても、どこかで嫉妬の感情をも燃やしているのです。ヘタをすると、その嫉妬が憎しみへと転じ、あらぬ事件に進まぬともかぎりません。一国の主なら、国を滅ぼすとさえいわれるほどです。
しかしながら、嫉妬をしていたたまれないような感情を燃やさねば、人間は何も変わりません。いたたまれないようなその気持ちをヤル気に変えれば、新たな生きがいとなるのです。大事なことは、それを上手に使うこと、上手に転ずることでしょう。嫉妬の感情に燃えた時こそは、チャンスなのだと思いなおし、いっそう励むことができるのです。
いうまでもなく、嫉妬は煩悩です。振り回されればそのまま煩悩ですが、上手に使ってこれを転じれば菩提となるのです。嫉妬を転じれば煩悩を転じ、煩悩を転じれば菩提に転じます。退屈なお話でしたか? でも、大事なことです。
コンプレックス
令和元年6月7日
コンプレックスは大切な才能です。なぜなら、人はコンプレックスがあるから、何とか克服しようとして努力するからです。コンプレックスがなければ悩むことがなく、悩むことがなければ何の努力もしません。
私は栃木県の農村に生まれ、「あいうえお」の五十音表記も、『むすんでひらいて』の歌も知らずに小学校に入りました。いくら農村の子供でも、それくらいは覚えて入学して来ます。そのコンプレックスに悩み、校舎の片隅で泣いていたことさえありました。それでも、「よほど勉強しなければついて行けない」と、子供心に思ったのかも知れません。特に習字の稽古は、よく励みました。後年、僧侶になってからも、毛筆で苦労したことがありません。
また、宇都宮の高校に通い始めた頃、同じようなことを経験しました。街の生徒たちは、やれシェークスピアだのトルストイだのと、よく知っていました。私はほとんど読書というものに興味ありませんでしたので、ここでもまた強烈なコンプレックスに悩みました。以来、私は本の虫となり、未だに読書欲は衰えることがありません。そして、多くの著作を成し得たのも、この時のコンプレックスがあったからなのです。私が都会に生まれて英才教育でも受けていたのなら、今頃はとんだ道楽者になっていたことでしょう(笑)。
何が幸いとなり、何が災いとなるかわからないところが、人生のおもしろさです。皆様、大いにコンプレックスを持ち、大いに悩みましょう。これによって人生の目標を立て、目標に向かって努力をしましょう。努力がイヤなら、努力のマネだけでもしましょう。そのうちに、努力が楽しめるようになります。これ、本当ですよ。どうぞ、お試しあそばせ。