2019/06の記事

境内整備工事

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あさか大師

令和元年6月6日

 

あさか大師ではいま、境内整備工事を行っています。境内駐車場の舗装工事と隣接水路歩道工事を7月初旬までには完了させる予定です(写真)。

毎日お護摩を修したり、ご相談に応じたり、執筆をしたりしていますが、堂内や境内の清掃もせねばなりません。特に隣接の水路は長年放置された状態で、ゴミ捨て場のようになっていました。4月の桜はみごとでしたが、樹下の水路がちょっと残念でした。その時、年内には何としても成し遂げようと決心したのです。

工事費は高額ですが、皆さまより支援のご寄進が集まってまいりました。大変にありがたいことです。完成すれば、さらに気持ちよくご参詣いただけましょう。

そして、開運の強い気は、清らかな環境から生まれることも確かです。お釈迦さまもお大師さまも、瞑想にあたってまず場所を選んだのはそのためです。心が清らかであれば、環境はどうでもよいという意見は詭弁に過ぎません。いい仕事をする人は、仕事場もきれいです。心が環境を左右すれば、環境もまた心を左右するするのです。

まずは工事の完成を待ち、新たな計画を立てるつもりです。がんばりますから。

どうにかなるのです

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人生

令和元年6月5日

 

「人生はどうにかなるのです」が、私の持論です。しんどい時もありましょうが、何とかして生きていくことはできるのです。どうしてそのように思うかというと、そうでなければ、この世に生まれる道理がないからです。この世に生まれる以上は、生きていくだけの何かを授かっているからです。生きていくだけの取りがあるからです。

特別な才能がなくとも、体は丈夫でしょう。丈夫でさえあれば、働くことができるのです。働きさえすれば、相応の生活ができます。病気であっても、誰かが看護をしてくれましょう。そして、励ましを受けながら楽しみの時間を持つことができます。孤独であっても、何かに癒されましょう。絵や音楽があり、ペットや花があります。だから、どん底に落ちるようなことは、まずありません。だから、人生はどうにかなるのです。

私が過去に出会った方々の中で、よくもこんな不幸を背負って生まれたものだと思う方が三人ほどいました。みな他界しましたが、それぞれに何とか天命をまっとうしました。中でも忘れられないその方は、自分は病気で亭主は大酒のみで、二人の子供も行方すらわからない状況でした。生活保護を受けての暮らしでしたが、彼女にはたった一人、頼れる友人がいたのです。お惣菜をいただいたり、古着をいただいたりしながら、どうにか暮らしていました。私もまれには顔を出して励ましたものです。そして、やがて安らかに永眠しました。

彼女の死後、長男が私を訪ねてきました。私は生前のお母さんの果たせなかった気持ちを表すようお話しました。今でも、よく供養をしてくれています。「よかった、よかった」と、今でも思います。人生はどうにかなるのです。必ず。

真の勝利

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社会

令和元年6月4日

 

三度〈事〉をなして、三度とも成功するのは危険です。自信過剰から増上慢ぞうじょうまんになり、怖いもの知らずになり、いずれは暴走して自爆じばくするからです。

この世は競争の社会ともいえましょう。競争に勝ち負けはつきものです。そして、やたらと強運な人がいることも事実です。しかし、強運がいつまでも続くことはありません、反対に衰運がいつまでも続くこともないのです。

かつて、ヤクルト・スワローズの監督として、またプロ野球解説者として活躍した関根潤三さんに『一勝二敗の勝者論』という本があり、私は大変に感銘を受けました。いったい、一勝二敗がどうして勝者になれるのか、皆様はおわかりになりますでしょうか。

当然ながら、一勝二敗では負け越しです。一勝二敗がいつまでも続けば、勝者にはなれません。しかし、関根さんが言うのは、そうではない。その先なのです。

その一勝二敗にくじけず、とにかく一勝する努力を続ければ、いつかは必ず二勝一敗に持ち越せるというのです。もしかしたら、三勝することだってあるかも知れない。そうなれば、態勢が変わり、勝者への道が開かれるのです。大切なことは、くじけずに一勝すること。そして、時に二勝し、まれに三勝して逆転勝利をめざすことだというのです。まさに目からウロコ、私は今でもこの本を大事に保存しています。

たしかに三勝ばかりをめざすと、一敗しただけでも士気が落ち込み、ヤケをおこすのです。勝ちたい気持ちだけでは、長いペナントレースには勝ち残れません。

もう一度お話しますが、三度〈事〉をなして、三度とも成功したなら、「危ない! 危ない!」と思いましょう。ほどほどに勝つこと、負けながら勝つこと、これが真の勝利というものです。ああ、今日もいいお話をしました。

井の中の蛙

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人生

令和元年6月3日

 

「井の中のかわず、大海を知らず」といいます。井戸の中という狭い世界に住む蛙(カエル)は、大きな海の広さを知らない、と。そのことを皮肉に表現しています。このことわざは中国の古典『荘子(秋水篇)』に登場するお話を、日本流にアレンジしたものです。

ところが、このことわざには、「されど空の深さ(青さ)を知る」という続きがあることはあまり知られていません。井戸の中の蛙は、来る日も来る日も天上の空を見つめています。大海は知らずとも、空の深さも青さもよく知っています。井戸という狭い場所にとらわれ、海の話が通じなくても、空のことならよく知っているということでしょう。

つまり、たとえ狭い分野とはいえ、一つのことに徹するならその道の専門家になれるのです。博学多才ではなくとも、こつこつと一道に励めば必ず大成します。もちろん一分野だけの専門家がよいか、博学多才がよいかは一概にはいえません。

何ごとにも良し悪しがあり、二面性があるのです。自分とは性格も気質も違うからといって、安易に他人を批判すべきではないのです。そう考えると、井の中の蛙は大したものです。私が生まれた実家にも井戸があり、夏にはスイカを冷やしたりしたものです。たしかに、中に蛙がいたように思います。そうなると、上からのぞいていた私を、蛙があざ笑っていたかも知れません。「空のことがわかるのか?」とね。汗顔、汗顔!

真剣勝負

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護摩

令和元年6月2日

 

毎日、午前11時半にはお護摩を修しています(写真)。お護摩が終ると、お参りの皆様は持参した昼食をいただきます。これを毎日くり返しています。

 

 

この、毎日のくり返しが重要で、これによって寺のパワーが高まるのです。堂内に霊気が遍満するのです。まれに荒行をしたからといって、まれに大祭をしたからといって、大したパワーにはならないことがわかりますでしょうか。人間の体だって同じです。一度に多くの栄養を摂ったからといって、健康な体にはなれません。毎日のくり返しが重要です。

また、あさか大師では「願いおき護摩木」といって、その日ごとに護摩木をお預かりしています。1ケ月分の棚があり、希望する日に護摩木を入れていきます。病気の手術や受験の日に向けて、連日祈願を修します。だから、毎日お護摩を修さねばなりません。私は30年以上、こんな生活を続けています。

私が真剣でなければ、お参りの皆様が真剣になれるはずがありません。趣味や道楽ではないのです。だから、毎日が真剣勝負です。20代で僧侶になった時、お師匠様から「道心の中に衣食えじきあり」という揮毫きごうをいただきました。真剣に道を求めていれば、衣食はおのずから与えられるというほどの意味です。当時はそれほど感じ入ったわけではありませんが、年齢を重ねるうちに、この言葉の意味がよくわかるようになりました。大切なことは真剣であることなのです。明日もまた心がけますよ。

他生の縁

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仏教

令和元年6月1日

 

今日は月初めの回向法要があり、いつも法話をしています。5月18日に「縁の不思議さ」についてブログを書きましたが、同じようなことをお話をしました。皆様、熱心に聞いていただきまして、初夏の薫風のようにさわやかな一日となりました(写真)。

特に今日は、わざわざ青森より尼僧様がお越しくださいました。そのほか、新しい縁が少しずつ広がっています。私が何を望もうが望むまいが、縁があれば出会い、縁がなければ出会いません。また、今日お越しになるはずの予定が変更になったり、逆に急に時間が取れてお越しになった方もいらっしゃいます。

考えてみれば、お会いしたいと思いながらどうしても叶わず、反対に思ってもみない方とお会いするのも、すべてこれ縁としかいいようがありません。それでも、今日という日のこの時間とこの場所で、地球上の70億の人の中からこのように出会うのはよほどの縁です。まるで奇跡のような確率で、私たちは出会っているのです。

だから、人との出会いはその縁を通じて、必ず意味があるのでしょう。「袖すり合うも他生の縁」なのです。〈多少〉ではなく、〈他生〉と書きます。他生とは今世とは異なる人生、つまり前世のことです。だから、〈他生の縁〉とは前世からの縁という意味です。皆様もどうか、他生の縁を大切にしてください。これも仏教のお話なのですよ。

皆様、だんだんに怪しげな顔になってきました。こんなお話をしてから、冗談に入りました。奥深いお話ばかりでは、息が切れましょう。最後にお茶をいただき、お見送りをしました。もう一度お話しますが、薫風のようにさわやかな気持でお見送りをしました。

山路天酬密教私塾

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