オシラさま
令和元年6月30日
青森から遠路を、また尼僧様ご夫婦がお越しになりました。
今日のご相談は、東北地方に信仰されるオシラさまについてでありました。オシラ様については柳田國男博士などの研究がありますが、民間信仰の故かはっきりしていません。大黒天・三宝荒神・歓喜天などと一体であるとされますが、青森では特に養蚕の神さまとして信仰されたようでありました。
歓喜天(聖天さま)には特に歓喜団(アンと生薬を巾着状に包んで、油で揚げた菓子)を供えます。私は鎮宅霊符尊にもお供えしていますので(写真前列の中央)、その仕様などを説明いたしました。
ちょっとお聞きしたいのですが、皆様は神さまと仏さまと、どちらがお偉いと思いますか?
たぶん神棚の方が高いから、神さまだと思っていらっしゃるはずです。残念ながら、実は仏様の方がお偉いのですよ。ただし、ここでいう仏さまは如来・菩薩・明王といった本当の〝仏さま〟でありまして、いわゆるご先祖さまのことではありません。これらの仏さまはお悟りを開いておられるので、特にお好きなお供物などありません。しかし、神さまはまだ執着がありますので、何をお供えするかのルールがあるのです。だから、神さまをお祀りする時は、気まぐれな思いつきであってはなりません。うっかりすると障碍(祟りのこと)を呼びます。だから、「さわらぬ神に祟りなし」というのです。
今日のお話は、神さまとのおつき合いには、それなりの覚悟が必要なのですいうことです。よくよくお伝えしておきますよ。
お香の〈十徳〉
令和元年6月28日
もう、こんな時間になりました。
今日は私の六十七歳の誕生日でした。昨日のブロブにも書きましたが、まさに「転げ落ちる」速さです。まったくの一人暮らしなので、お祝いなどするはずもなく、静かに伽羅のお香を焚いて過ごしました。とても幸せでした。さすがに伽羅は最高のお香です。
お香には〈十徳〉があるとされますので、ご紹介しておきましょう。
①鬼神を感応させる。
②身心を清浄にする。
③穢れを取り除く。
④眠気を覚ます。
⑤さびしい時の友となる。
⑥忙中にに閑(ひま)をもたらす。
⑦少量にて用をなす。
⑧永く保って朽ちない。
⑨常用して害がない。
⑩幅広く好感を与える。
今日は「さびしい時の友となる」ではありましたが、いよいよ鬼神が感応し、穢れを取り除いて、何か異様なヤル気が満々となりました。
体力はともかく、この歳にして気力も知識欲も決して衰えません。あふれる蔵書にも立ち向かいましょう。いい誕生日になりましたよ。
人生の短さについて
令和元年6月27日
古代ローマにセネカという哲学者がおり、『人生の短さについて』(岩波文庫)という本を残しています。彼はこんなことを言っています。
「われわれは短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は充分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことを完成させるほど豊富に与えられている」
なかなかインパクトがありますが、実に耳の痛いお話です。私も皆様も、人生の多くの時間を浪費していることに間違いはありません。まことにもって、そのとおりでありましょう。
時間は年齢と共に短く感じられるようです。子供の頃の一年はとんでもなく長く、それこそクリスマスやお正月が待ち遠しかったはずです。それが青年期・中年期を過ぎれば、一年などアッという間です。そして、還暦でもすぎれば、もう〝転げ落ちる〟ほどの感覚です。
それでも、私はあえて、何もしないムダな時間の大切さを主張したいと思います。何もしないといっても、何かを考え、何かを想像していることに変わりはありません。そのムダともいえる時間を過ごしてこそ、一気に集中して物ごとに取り組めるからです。この集中と休息のバランスこそ、私は大切だと思います。
「時は金なり」といいますが、お金で買えないものも時間なのです。余裕の時間をうまく使ってこそ、「その全体が有効に費やされる」はずです。いかがですか、皆様。
孝女の一灯
令和元年6月26日
平安の昔、和泉(大阪)国の山村にお照という女の子がおりました。
同村の奥山源左衛門とお幸の間には子がなかったのですが、観音さまに子宝の願がけをしていた道中、捨てられていたお照を連れ帰ったのでした。お照は夫婦の慈愛を受け、器量もよく、また評判の孝女として育っていきました。しかしお照が十三歳の折、夫婦が相次いで他界し、幸せな一家は突然の悲劇に陥落しました。お照はしかたなく育て親の位牌と衣類だけを持って女中奉公にあがりました。
お照は育て親の墓参りをすることを唯一の喜びとしつつも、何とかして菩提を弔いたいと思うのでした。そして、高野山奥の院に灯籠を供えることが一番いいということを聞かされ、それを切に願うのでした。しかし、貧しいお照には灯籠代など払えるはずもなく、叶わぬ願いに悩み苦しみました。
お照はついに意を決して、その美しい黒髪を売り、灯籠を寄進したのでした。それは、お照の一生の中で、最も高価な支払いでありました。
その灯籠は奥の院に献じられ、お照は深い喜びにつつまれました。やがて奥の院では万灯会(多くの灯籠を仏に献ずる法要)が行われ、無数の灯籠が輝きました。その時、突然に一陣の風が吹き荒れ、ほとんどの灯籠がたちまちに消し去られました。しかし、お照の灯籠はさらに輝き、何よりも尊い力を秘めていることを人々に知らしめました。
これが高野山に伝わる「孝女の一灯」。何を供えるかより、どんな気持ちで供えるかの大切さを伝えるお話です。グッときます。
仏像に心引かれる理由
令和元年6月25日
数年前、ある弁護士さんの事務所を訪ねましたら、仏像の写真がたくさん飾ってありました。
そこで私が、「仏像がお好きなのですか」と聞きましたところ、「生々しい訴訟問題に関わっているので、仏像を観るとホッとするのです」という答えでした。たしかに、他人のやっかいなお話ばかり聞くのですから、仕事の合い間に仏像のやさしい姿に接したいのだろうと思いました。
いったい、私たちが仏像に心引かれる理由は何なのでしょうか。
心引かれるということは、実は同じものがあるからなのです。つまり、私たちの心に〈仏心〉があり、その仏心が仏像に心引かれるのです。同じものがあるからこそ、同じものどうしが互いに共鳴するのです。類が類呼ぶのです。ほかの理由など、あるはずがありません。
もし、私たちの心に仏心のカケラもないとするなら、仏像などに興味すら持つはずがありません。仏心があるからこそ、仏教の教理など知らずとも、仏像の知識すらなくとも、仏像に心引かれ、深く感動するのです。だからこそ国立博物館の「仏教美術展」に、何時間も並んでまで入場するのです。
仏師が仏像を彫るのも同じことです。木材の中から、どうしてホトケの姿が現れるのかというと、それも仏師の心に仏心があるからです。そうでなければ、ノミを打ってホトケの姿など、彫り出し得るはずがありません。
お寺で仏像に接する時は、ぜひこのことを思い出してください。「私の心に仏心があるから、ここに来たのだと」と、ね。
偉大な救い
令和元年6月24日
忘れることは、偉大な救いです。
まず、高齢になると物忘れがひどくなります。しかし、何十年も駆使した脳が退化するのはあたりまえで、やむを得ぬことです。それでも、私はあえて断言しましょう。高齢になって物忘れがひどくなるのは、あの世へ往く準備をしているのです。あの世へ往っても、この世に残した財産がどうの、やり残した仕事がどうの、憎い嫁さんがどうの(失礼!)では、未練を断ち切れません。だから、いよいよの時が来たら、この世の執着は断ち切ることが大事で、これは偉大な救いなのです。これが、まずひとつ。
次に、高齢にならずとも、私たちは忘れることがなかったら、どうなりますでしょうか。イヤなことの抑圧に、身も心もボロボロになるはずです。イヤなことは時間と共に忘れる、あるいは忘れたようなフリをすることが肝要です。だから、時間こそは、時間が過ぎ去ることは、偉大な救いなのです。まさに、過去とは「過ちが去る」ことなのです。特にストレス社会の今日、居酒屋やカラオケで憂さをはらしても、忘れることが出来なくてはこの身が持ちません。少なくとも、忘れたようなフリをしましょう。
私たちは忘れることで、心のメンテをしています。忘れることは、偉大な救いです。そうでしょう。
擬宝珠(ぎぼうし)
令和元年6月23日
ギボウシをいただいたので、さっそく床の間に挿しました(写真)。漢字では擬宝珠と書きますが、つまって「びぼうし」あるいは、「ぎぼし」と言います。文字どおり「宝珠に似たもの」といった意味の花です。写真ではわかりにくいかも知れませんが、蕾の形がお寺や橋の欄干(先のとがった飾りをつけた手すり)に似ています。つまり、仏教の如意宝珠にも似た花ということです。
東アジアに多く分布し、特に日本には二十種ほどあるそうです。谷沿いの岩場や湿原などに生え、白や薄紫の花を咲かせます。この時期に山に入ると、谷川の傍らでよく見かけることでしょう。ただ、一日花なので、朝に開いて、夕方には閉じてしまいます。
実は、ヨーロッパでも人気があります。それは江戸時代にシーボルトが持ち帰ったため、もともと自生していたかのように普及したからです。ツアーを組んで、わざわざ日本にやって来る人たちがいるほどで、うれしいかぎりです。ナポリ出身の友人女性・ブルーナさんに、「これは仏教の花ですよ」と説明したことがありました。
お大師さま(弘法大師)は如意宝珠を真言密教の象徴とされました。だから、この花をお供えとして挿しています。あさか大師のご宝前にも如意宝珠を安置していますが、それに花が添えられれば、申し分がありません。今日一日がとても豊かになりました。
皆様もこの花を見ましたら、ぜひ今日のブログを思い出してください。そして、仏教の花であることを人にも教えてください。
功徳こそは
令和元年6月20日
二日連続で健康法のお話をしました。今日はちょっと、別な視点からお話をしましょう。
歩くことも、声を出すことも、健康法としてとてもよいことです。私はウォーキングと共に「水平足踏み(両膝を水平まで上げる足踏み)」を実践していますし、声出しならカラオケ・コーラス・詩吟・謡曲から、スポーツや武道の掛け声、野球やサッカーの声援など、いくらでもあります。このような中で、私が特に読経を進める理由は別にあるのです。皆様が信じる信じないはともかく、一応はお話しましょう。
それは何かと申しますと、読経をすることは〝功徳〟になるということなのです。そして功徳こそは、この世の人間が、あの世に持ちこせる唯一の財産であるということです。
私たちは実は、眼にも見えず、耳にも聞こえないいろいろな次元に関わりながら生きています。いつかお話をしましたが、家の中で口論をしたり、ガスや IH の周りを不浄にすると、失物をしたり盗難に遭ったりします。またお稲荷さまの社や家のお墓を荒れ放題ににすると、さまざまな災難に見舞われます(驚かしてスミマセン!)。
読経をすることは、仏さまにも神さまにも大きな功徳が積めるのです。そして、その功徳はあの世に持ち越せる唯一の財産となるのです。お棺に一万札をどれほど入れても、あの世には持ち越せません。ただ、この世でどんな生き方をしたか、何をしたか、つまりどんな功徳を積んだかだけが残り、これをあの世に持ち越すのです。そうでなければ、私たちは生まれた時から、裕福も貧困もありません。堅固も病弱もありません。優等も劣等ありません。これ、信じていただけますか?
窮屈なお話になってしまいました。でも読経をすると、功徳になることは確かなのです。仏さまの教えですよ。どうか、皆さま・・・。
声出し健康法
令和元年6月19日
昨日、健康法のお話をしました。実は私たち僧侶には、特別な運動などしなくても、とっておきの健康法があるのです。
それは何かといいますと、読経によって声を出すこと、つまり〈声出し健康法〉なのです。読経というと皆様は暗いイメージをいだくかも知れませんが、そんなことはありません。特にあさか大師のお護摩では、参詣者も太鼓に合わせて、お腹の中から大きな声を張り上げてお経や真言を唱えます。だから、自然に深い腹式呼吸となり、身心ともに壮快になること、間違いありません。
女性は腹式呼吸が苦手とされますが、あさか大師のお護摩に参拝して読経をすれば、必ずできるようになります。つまり、ほかの参詣者といっしょに読経をすれば、おのずから〈声出し健康法〉が身に着くのです。太鼓のリズムに合わせて読経をすればストレスが解消し、免疫力が増大し、血流が改善されます。髪や爪の伸びも早くなります。
それは、読経の後、汗が出るほど体温が上がっていることでも証明されましょう。現代人は冷たいお茶を飲み、体を冷やす料理を好み、夏はクーラーで体を冷やします。「冷えは万病のもと」といわれますが、標準体温を大きく下回る方があまりにも多過ぎます。だから、体温を上げることは、健康法の要ともいえましょう。
そのためにも読経に親しみ、〈声出し健康法〉を実践したいものです。声こそは健康のバロメーターです。声の大きい人は元気ですし、仕事もできる人です。間違いありませんよ。
ウォーキング
令和元年6月18日
近くの黒目川添いにすてきな遊歩道があり、私のウォーキングコースの一つになりました(写真)。
私も以前はジムに通い、筋トレやランニングをしていました。ところが、ある雨の日に階段から転倒して膝を打ったため、以後は断念しました。今はウォーキングと水平足踏みだけを自分の健康法として実践しています。しかし、考えることの多い私には、この方が合っているようにも思います。
十八世紀のフランスにルソーという思想家がいて、若い時にはずいぶん愛読しました。彼はとても散歩が好きで、その著『告白』の中でこんなことを書いています。
「歩くことは私の思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっとしていると、私はほとんど何も考えられない。私の精神を動かすためには、私の肉体が動いていなければならないのだ」
つまり、歩くことは動く瞑想なのです。お大師さまも青年の頃には大和や紀州、あるいは四国の山中をひたすら歩かれました。また後年には京都と高野山をどれほど往復されたことでしょう。それが今日、四国遍路として継承されました。お遍路さんたちは歩きながらお大師さまの宝号を唱え、ひたすら意識を統一し、願いごとに集中しているのです。
健康法としても、無理な運動より歩くことが一番です。考えごとがあったら、とりあえず歩きましょう。悩みごとがあったら、とりあえず歩きましょう。脳年齢が若返り、痴呆もふせぎます。肥満や腰痛も緩和します。さて、今日もそろそろ出かけますか。