令和元年8月30日
皆様は「袖すり合うも多少の縁」と、思ってはいませんか?
もちろん、「袖すり合うも他生の縁」が正しい表記です。〈他生〉とはこの世ではない他の生、つまり〈前世〉や〈来世〉という意味です。わずかに袖がすり合う瞬時のことでも、前世から来世への深い縁があると言うのです。ずいぶん大げさなお話ですが、言わんとしていることはわかります。
〈多少〉を通訳する時、日本語と外国語では意味が微妙に異なりますので、気をつけねばなりません。国を代表する大臣どうしの会談では、特に注意を要する用語です。日本語では〈少〉のニュアンスが強く、「少しは」ほどの意味でしょう。
だから「多少の縁」の方が、感覚的には日常的でわかりやすいように思います。わずかに袖がすり合うだけでも、少しは縁があるということです。しかし、本来はあくまで「他生の縁」で、まるでおとぎ話のような次元へと変貌します。そして、「他生の縁」はまた「多生の縁」とも考えられます。何度も何度も生まれ変ったその結果が「多生の縁」です。
このように思いをめぐらせば、人がこの世に生れ、育ち、生きていくということは、限りなく深い意味を持つことがわかりますでしょうか。うかうかと袖もすり合えません。たとえ満員電車のもみ合いですら、70億とも80億ともされる地球人口を考えれば、その日、その時、その場所での出会いはよほどの縁なのです。
「袖すり合うも他生の縁」のさらに重要なことは、だからこそ、この世で最も縁の深い親子や兄弟の縁は、半端ではないということです。夫婦や友人の縁を変えることはできても、この縁ばかりは変えることができません。運命を超えた、いわば〈宿命〉の領域なのです。最近は墓石にさえ「絆」と彫る方が増えましたが、もっともなお話です。親子や兄弟は同じ絆で結ばれていることを、改めて考えてみることです。