選ぶこと、選ばされること
令和元年11月30日
私たちの人生は、常に「あれかこれか」のいずれかを選ばねばなりません。つまり、二者択一に迫られながら生きているということです。
いずれかを選ぶというということは、いずれかを捨てるということです。いずれかを捨てて、いずれかを選ぶということです。そして、いずれを選ぶかによって人生は大きく変わります。いずれをも得ることはできません。しかし、私たちは何かを捨てることによって、自分が望むものを手に入れることができるのです。
ところが、人生には自分が選ぶと同時に、大きな力によって選ばされることもあるのです。
私は仕事上、奈良や京都にはたびたび出向きましたが、ほかの観光地も外国もほとんど知りません。三年前に退職した折には隠遁生活にあこがれ、残りの人生を〝遊んで〟暮らしたいと思ったものです。退職金と年金と印税で、何とかなるだろうと思ったからです。そして、たまには知らない所へ旅行することを夢みたものでした。これは本当のことです。
しかし、結局は叶わぬ夢となりました。その夢を捨てて、私は新しい寺を建立することを決心したからです。寺など建てなければずっと楽でしたが、私の人生には許されませんでした。二者択一は、時に〝運命〟に選ばされることもあるのです。私は自分の意志で決心をしましたが、同時に、その運命によって選ばされたのです。
私たちは自分の意志で生きていることは事実です。しかし同時に、何か大きな力によって動かされていることも事実ではないでしょうか。過去の経験を回想すれば、自分が選んだというより、その大きな力によって選ばされていた事実に思い当たるはずです。自分の意志で選ぶことと、大きな力に選ばされるという同時進行が、いま皆様の身にもおこっています。
断・捨・離
令和元年11月24日
今日はあさか大師堂内の大掃除をしました。12月に入るとまた忙しくなるので、「今のうちに」ということで9人の方が集まってくださいました(写真)。
昨年の暮から毎日、お護摩を修して一年近くがたちました。私の最初の予想では、一年で柱も壁も真っ黒になると思っていましたが、意外にそれほどでもありません。お護摩の折に、玄間や出入り口を開けっぱなしにしていたためでしょう。
それでも、目には見えずとも、かなりのススが溜まっていました。バケツの水を何度も取り換えながらていねいに拭き清め、堂内が一新した気分です。これで心おきなく、新年を迎えられます。
ところで、皆様は年末の大掃除は、家をホコリをはらって新年を迎えるためだと思っているはずです。もちろん、それもありますが、本来は来年から不要なものを処分するという意味なのです。一年の間には、必要なものも手に入れたでしょうが、逆に不要なものも増えたはずです。つまり、家の中を〝断・捨・離〟して身も心も清め、その上で新年を迎えるということがもともとの目的だったのです。
そして、不要なものや悪いものを取り除いて、そのうえで必要なものやいいものを取り入れるというこの手順こそは、何ごとにおいても大切なことです。政治や経済の向上においても、仕事や趣味の上達においても、この手順を間違えるとうまくいきません。
私の身辺にも不要なものが集まりました。思い切って断・捨・離するつもりです。人生は過去を捨てなければ、未来は生かせないということです。
もう一つの真理
令和元年10月30日
何年前でしたか、渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という本がベストセラーになりました。表題に引かれた私もさっそく購入して一読し、シスターらしいその敬虔な文章に感動しました。さらに、職場の対人関係で悩んでいる何人かの方にも、この本をプレゼントしました。
シスターの文章は、「人はどんな場所でも幸せを見つけることができる」という書き出しで始まっています。そして、最初の職場となった岡山・ノートルダム清心女子大学での体験として、「あいさつしてくれない」「ねぎらってくれない」「わかってくれない」の〝くれない族〟から、いかにして決別し得たかの体験が書かれていました。「置かれた場所」には、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的など、およそ人が同じ職場で働く以上、必ず生じるはずの苦悩がつづられていました。
さらに、その心構えとして、「不平をいう前に自分から動く」、「苦しいからこそ、自分から動く」、「迷うことができるのも、一つの恵み」といった宝石のような教訓にふれ、多くの読者を魅了しました。特にクリスチャンの方には『聖書』の現代版として、大きな希望を施したことと思います。
ところが最近、脳科学者の中野信子さんが『引き寄せる脳 遠ざける脳』(セブンプラス新書)の中で、シスターの考えに対してまったく対立する異論を発表しました。すなわち、「わたしたちは植物ではありません。置かれた場所でないところで咲いたっていいのではないでしょうか。わたしたちは自分の足でどこへでも歩いていけるのですから」と力説しています。つまり、逃げることもまた勇気であり、違うかたちの戦いだというのです。さすが、頭脳派らしい意見だと思いました。
今日のブログは、どちらが正しいというお話ではありません。人生にも、そして物ごとにも、必ず二面性があるということなのです。この道理をわきまえているか否かは、生きていくうえでの大きな課題です。正しいとか、正しくないとかの間に、もう一つの真理があることを知らねばなりません。
三年・十年・三十年
令和元年10月27日
何ごとでも三年は続けないと、モノになりません。「石の上にも三年」「茨の道も三年」というと、どうも求道的でしんどい気がしますが、それでも三年という意味の大切さをよく伝えています。それから、千日行とか千日回峰といった修行がありますが、これも三年に近い日数です。
要するに、三年という日数には人間心理の根底をついた何かがあるのでしょう。お稽古ごとをして、お免状をいただけるのも三年くらいです。一方で、「そろそろやめようかな」と思うのも三年です。偉そうに見えても、ボロが出るのも三年です。男女の出会いも、三年が山です。
逆に、この三年を乗り越えれば、次の段階ということになります。たとえば、お稽古ごとのお免状を三年でいただいて、さらに十年続ければ、まずは〝先生〟として教えることができましょう。だから、三年たってやめたいと思った時が勝負です。人生の財産にしたいと思うなら、そこを頑張ることです。十年続ければ、やめなくてよかったと思うはずです。
そして最後に、これを人生の宝物にしたいと思うなら、さらに三十年続けることです。三十年続けられれば、まず相当な域に達するはずです。私は仕事でも趣味でも、三十年続けた人のお話なら、真剣に聞きます。教科書やマニュアルでは学べない、極意のようなものを感じさせるからです。
現代はあまりにも情報過多で、次々に気移りをするものです。その情報の渦で、必要なものと不必要なものを選択するだけでも大変です。本当に必要なもの、自分にふさわしいものを、じっくりと考えねばなりません。
そして、努力をするにも、〝楽しい努力〟を目ざすことです。人生、楽しくなければ続きません。「重荷を負うて遠き道を行く」だけでは、身が持ちません。馬でも荷車でも、乗用車でも新幹線でも上手に使うことです。
天からのメッセージ
令和元年10月2日
私たちの人生には、天からのメッセージが込められています。人生のすべて、喜怒哀楽のすべてにです。もちろん、そのメッセージは眼には見えません。耳にも聞こえません。しかし、望む望まぬにかかわらず、私たちは常にそのメッセージを受け取っているのです。
たとえば、物ごとがうまくいって成功したり、勝利を得た時は、「大いに喜びなさい。でも、さらに謙虚な努力を続けなさい」というメッセージです。また失敗をしたり、敗北をした時は、「くじけてはなりません。そして、何が足りないかを学びなさい」というメッセ―ジです。
大喜びに浮かれている時、失望で落ち込んでいる時、心配ごとがある時、私は天を仰いでこのことを念じます。そして、「さらに必要なことを教えてください。そして必要なものを与えてください」と祈ります。すると、必ずまたメッセージが届きます。つまり、誰かの言葉を通じて、本の中の文章を通じて、テレビやラジオの番組を通じて、街の看板や電車内の広告を通じて届くのです。
成功にも失敗にも、勝利にも敗北にも、必ずメッセージが込められています。特に失敗や敗北には、強いメッセージが込められています。失敗も敗北もないのです。ただ、成功や勝利への過程だけがあるのです。だから、失敗や敗北から何も学ぶことなく終ったなら、それが本当の失敗です。本当の敗北です。
老いて学べば死して朽ちず
令和元年9月12日
私の好きな言葉のひとつに、佐藤一斎の著作『言志四録』の中にある、「少くして学べば壮にして成すあり。壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず」があります。意味はそのまま、若いうちに学べば中年になって必ず役立ち、中年のうちに学べば老いても衰えることがない。そして、さらに老いて学べば死んた後にもすたれることがないということでしょう。
佐藤一斎は江戸時代の儒学者ですが、この『言志四録』こそは名著中の名著です。幕末の吉田松陰・勝海舟・西郷隆盛らも多大な影響を受けました。特に西郷隆盛は生涯の指針としてこの著作を愛読しました。今は解説本もかなり出ていますので、ぜひお読みになってみてください。おそらく、これほどの名著が日本にもあったのかと驚くことでしょう。『論語』と比較しても、けっして劣るとは思いません。
さて、若いうちに学ぶことの大切さは言うまでもありませんが、問題は中年になって学ぶ意欲があるかどうかでしょう。学ぶとはもちろん、読書に限ったことではありません。本を読んでも人生がわかるとは言い切れないからです。しかし、本を読まねばわからないことがたくさんあることも事実です。そして何ごとにも、熱心な人は世の中からも本の中からも、謙虚に学んでいます。
不思議に思うのですが、大学や大学院を卒業していながら、ほとんどの人が蔵書を持ちません。かといって、常に図書館を利用しているとも思えません。きびしい受験競争を経験して卒業すると、もう本を読むことも少なくなるのでしょうか。
私はこの『言志四録』のおかげなのか、読書欲ばかりはいっこうに衰えず、若さの秘訣だとさえ思っています。事実、年のわりには若く見られます。脳トレもけっこうですが、文字を追って考える習慣はもっと大切です。しかも、「老いて学べば死して朽ちず」とあります。あの世へ往っても生きがいが続くのです。いいことずくめです。皆様も今日のこの言葉を記憶に留めてください。
成すは易く、守るは難し
令和元年9月3日
昨日は「組織の膨張は衰退をもたらす」という、パーキンソンの法則をお話しました。企業が売り上げを伸ばして本社ビルが建つや、安堵感から慢心をおこし、加えて新築による経費の増大から、経営が悪化する例が多いということでした。今日はその延長として、個人の業績についてお話をいたしましょう。
たとえば、芥川賞や直木賞に輝いた新人作家の、はたして何人が存続しているでしょうか。デビュー当時の作品は、たとえどこかに未熟さはあっても、勢いがあるものです。しかし、その勢いを保ち、かつ新鮮な作品を発表し続けるということは容易ではありません。たいていは作品のネタすらも尽きます。私は今どきの文壇に詳しいわけではありませんが、この傾向は多分にあるはずです。
このことは、芸術や芸能、またスポーツにおいても同じでしょう。デビュー当時の作品や記録はすばらしくとも、それを存続させることが大変なのです。私の知っているある歌手などは、始めにヒットを飛ばしましたが、続きませんでした。だから、死して今なお人気のある、美空ひばりや石原裕次郎などは、本当にすごい人なのです。スポーツではよく「追われる立場」と言いますが、オリンピックの金メダリストなどは当然、世界中から徹底的に研究されます。そんな中で絶対王者を守ることは、至難としか言いようがありません。
私たちが関わるどのような職業や趣味においても、このことは大きな教訓でもありましょう。物ごとを始めて、それを大成させることも大変ですが、存続させることはさらに大変です。まさに、「成すは易く、守るは難し」なのです。才能があってそれを発揮しても、その業績を守れるのは、必死の努力に加えた何かが必要なのです。
悔しさをバネに
令和元年8月29日
宮本武蔵の人生指針である『独行道』の中に、「我、事において後悔をせず」という言葉があります。
二十代の頃、この言葉が気に入り、自分への訓戒として胸に秘めていました。つまり、何をするにもベストを尽くして悔いを残さない、後悔をしないことが大切だと思ったのです。ベストを尽くせば、自分にも納得ができます。「事において後悔をせず」とは、なるほど武蔵らしいとも思いました。
しかし、この言葉は年齢を重ねるにしたがい、しだいに脳裏から離れていったように思います。多少なりとも人生の辛苦をなめるにいたって、考え方も変わっていったのでしょう。
いったい、後悔のない人生など、本当にあるでしょうか。思い起こせば、私などは後悔することばかりです。あの時、どうしてもうひと押しできなかったのか。あの時、どうして会いに行かなかったのか等々、悔いが残ることにはキリがありません。でも、その悔いが残るからこそ、新たな励みになることも事実なのです。
〈悔い〉はまた〈悔しさ〉とも読みます。人は悔しさがあるからこそ、努力を続けられるのではないでしょうか。オリンピックのメダリストなどは、前回に敗れた悔しさをバネにしてこそ、地獄のような猛練習に耐えられるのです。私も悔しさをバネにできなくなったら、もう〝若さ〟はないのだと覚悟を決めています。
それにしても「我、事において後悔をせず」は、なつかしい言葉です。久しぶりに、二十代の自分をかいま見たような気分になりました。
お中元
令和元年7月25日
お中元の時節とあって、私にもたくさん届きました。
三年前に独り暮らしを始めた時、「お中元・お歳暮はかたくご辞退いたします」というハガキを出したのですが、それでも頂いている方かも知れません。素麺やカルピスといった定番のものから、各地の名産(最近は冷凍ものが増えました)まで、種々さまざまです。冷凍ものが増えると、冷凍庫を別に求める方も多いことでしょう。私も昨年の暮れに寺が完成した折、家庭用としては一番大きい冷蔵庫を買いました。冷凍庫が二ヶ所にあるので、何とかなっています。
ところで、お中元を頂いた折、ていねいにハガキを出したり電話をして御礼を欠かさぬ人もいれば、まったくナシのつぶてという人もいます。これは、私も贈り物をして経験したことですが、やはり何の音沙汰もないというのは、気持のいいものではありません。せめて電話の一本も欲しいというのが、贈った方の本音でしょう。
では、悪気があって音沙汰がないのかというと、そんなことはありません。感謝の気持ちはあっても、めんどうなだけなのです。会った時にでも御礼を言おうと、その程度に思っているのです。しかし、このことが、当人の一生にどれほどの損失をもたらしているかがわかっていません。たかがハガキ一枚、たかが電話一本のささいなことをおろそかにする人は、結局は信用を失い、どかかで陰口を言われるようになるのです。お中元の習慣が、いい悪いの問題ではないのです。不用なものまで贈って来るという問題ではないのです。人は感情で行動しても、あとから自分の正当さを主張するからです。
ちなみに私ですが、宅急便のラベルをはがしたらスグ(!)に、御礼のハガキを出すか電話をします。その場でスグにすることが大切で、これはかなりの努力をした末に習慣となりました。習慣の心がけこそは、人生の秘訣と思っているからです。
小事をおろそかにしての大事はありません。小事の積み重ねが、やがて人生の大事となるのです。肝に銘じましょう。
一生では足りない
令和元年7月8日
詩人・北原白秋は晩年に「白秋詩抄」を出版するにあたって、こんなこと書いています。
「ひそかに愧じる故は、わが詩業を通貫するひとつの脊梁が、わずかにこれだけの高さのものかということである」
偉大な詩人にしてこんなことを語るものかと、若い頃には思いましたが、今ではその気持ちがわかるような気がします。人の一生は尊いものでありますが、その理想が高くれば高いほど、その一生に慙愧の念を覚えるに違いありません。立派な仕事をなし、また立派な業績を残しながら、私たちの力の及ぶところは、こんなところなのでありましょう。私などにはとてもこのような心境には至りませんが、さて、いよいよの時には同じような気持ちをいだくのかも知れません。
しかし、物ごとの完成はかぎりなく遠く、一生の内に成し得ることではないような気がします。能楽の大成者・世阿弥は、真の芸術を完成させるには、親と子と孫との三代はかかるといった意味のことを述べています。そして、「芸術は長く、人生は短し」とも申します。「一生では足りない」というほどの気持ちは、私ほどの者でも少しは思うことがあるのです。
お恥ずかしいかぎりではありますが、私もまた生まれ変われるものなら、再び僧侶となってやり残した仕事を成し遂げたいと思っています。先日、六十七歳となりましたが、残る人生をあと二十年と設定しています。それ以上を生きたとしても、大したことはできません。これは私の正直な本音です。
すみません、何やら遺言のようなブログになりました。明日はもっと楽しいお話を書きますから、ね。