深くて、しかも巾広く

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人間

令和3年12月9日

 

物ごとを成し遂げるには、とにかく一生懸命になることが大切です。そのためには、まず、一つのことを貫き通すことです。つまり、これだったら人には負けないぞという特技を身につけることです。

ところが、一生懸命になるのはけっこうなのですが、それだけでは足りません。なぜなら、ある段階になると、必ず専門外の知識や経験が必要になるからです。つまり、一本の樹木のみきにはえだがあるように、枝葉を学ぶことも大切なのです。具体的にいいますと、趣味や娯楽といった、専門外への関心が必要だということです。ただ、始めから枝葉ばかりを増やしてはなりません。これは大切なことです。このバランスこそ、人生の極意だからです。

真言密教の教師を阿闍梨あじゃりといいますが、経典には「阿闍梨の十三徳じゅうさんとく」が説かれ、そのすべてが必要だとされています。「①菩提心をおこし、②明慧みょうえと慈悲があり、③しゅげいべ」と十三項目が続くのですが、私が特に気になるのは③の「衆芸を綜べ」なのです。

また、孔子は「道に志し、徳にり、仁にり、芸に遊ぶ(『論語』述而篇じゅっしへん)」と述べています。ここでも「芸に遊ぶ」という表現が気になります。「綜芸を綜べ」とか「芸に遊ぶ」とはいったい何なのでしょうか。まさか、ゴルフやマージャンに通じなさいという意味とは思えません(いや、それもあるかも知れませんが)。

まず思いつくことは、一生懸命に道を貫くことは大切であるが、時には文学や芸術に接したり、旅行やスポーツを楽しむことで心をリラックスさせなさいということではないかと思います。それによって、本来の一生懸命がさらに生きて来るのではないかと思うのです。つまり深くて、しかもはば広く、教養に余裕を持った人になりなさいという意味ではないでしょうか。

こういう境地に達した人は、決して窮屈きゅうくつさというものがありません。それでいて、品格もやさしさもユーモアも兼ねているはずです。真言密教で同じ10の伝授をしても、100の力を持っている阿闍梨と10のギリギリの力しか持っていない阿闍梨では雲泥うんでいの差です。その内容がまるで違います。それはどこから来るのかと言えば、やはり深さに加えた、巾の広さではないかと私は思うのです。

山路天酬密教私塾

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