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最後に生き残る人

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令和6年9月18日

 

昨夜は床に入りながら、村上和雄著の『人生の暗号』(サンマーク文庫・写真)を再読しました。

その最終章に「最後に生き残る人~」という見出しがあり、私は「なるほど」と思いながら眠りについてしまいました。同著によると、最新のコンピュータに「どんな人間が最後に生き残るか」を推測させたというのです。

普通に考えれば、「力の強い人、自分のことを優先させて考える人、競争に勝ち抜いていく人」といった答えが予測されましょう。ところが出て来た答えは、何と「譲る心を持った人」でした。

つまり、人の心は「他人のため」に献身的な努力をしているときに理想的な状態ではたらき、よい遺伝子がONになるというのです。著者は遺伝子学の権威として活躍しましたが、残念ながら2021年に他界しました。

しかし、「他人のために何かをすることほど、自分のために役立つことはありません」といった宗教的な提言は、多くの人々の共感を呼びました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

5月の伝道法語

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令和6年5月9日

 

5月の伝道法語です。

よく、才能があるとかないとかいいます。

しかし才能などとされるものが、そうそう目につくわけでも、簡単に見つかるものとも思えません。また、生まれながらに才能があったとしても、ただ眠らせているだけでは、何の役にも立ちません。才能とはその人の奥深くに、静かに眠っているからではないでしょうか。

才能は一つのことをコツコツと、長く長く続けられる努力によってこそ目覚めるからです。名選手は誰よりも長く、誰よりも多く、懸命に練習をします。仕事の業績も同じです。コツコツと、長く長く続けられれば、結果は必ず現れます。

毎日のわずかな時間を生かしましょう。才能は一日にしては成りません。一生の栄養も、毎日の食事からです。漢字ばかりの、むずかしいお経も、毎日続ければ覚えられます。お寺の生活は、同じことを繰り返すことの大切さを教えているのです。

「天地人」で一番大切なもの

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令和6年1月12日

 

私は毎月、あさか大師月報『香林』に「伝道法語」を発表し、同時に境内での「掲示伝道」としています。今後はこのブログでも紹介しましょう。1月は「天の時より地の利です。地の利より人の和です」と発表しました(写真)。

これは『孟子』の「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」から採用したものです。つまり、いつ始めるかの天の時を得ていても、地の利が悪くてはどうにもならず、地の利を得ていても、人の和が悪くてはどうにもならないというほどの意味です。

たしかに、私たちが失敗をする多くの原因は、パートナーや仲間どおしとの対立にあることはいなめません。歴史をみても、滅亡の真因は(敵の攻撃以上に)自家の分裂にあったと納得されましょう。こうした事実は、私たちにも覚えがあることです。

八部どおり、九部どおりうまくいっていたのに、最後の最後に仲間割れをして失敗することもありましょう。チームワークの大切さは、何よりも重んじねばなりません。

人は臨終で何を思い出すのか

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令和5年3月2日

 

人はターミナルステージ(末期)を迎えた時、子や孫の名をさかんに呼ぶことがあります。これはこの世で過ごした家族への想いがこみ上げて来るからでしょう。また、現実には誰もいないのに、子や孫がそこにいるといった幻覚を伴うことも特徴のひとつです。私も思い当たる例を、何人か知っています。

また、例外なく「水が飲みたい」と訴えます。すでに体は衰弱し、呼吸や発声もむずかしく、水を飲み込むのも困難なはずなのに、もうろうとした意識の中で水を欲するのはなぜなのでしょうか。特に私の祖父がそうであったことをの当たりにして以来、私は長い間このことが気になっていました。

私論をお話するなら、これは母親の胎内で羊水ようすいに浸っていた記憶がよみがえっているからではないでしょうか(写真提供・竹内正人医師)。血液の主成分は水です。その血液の流れる肉体が終ろうとする時、この世に誕生する前の、胎内での〝ふわふわした思い出〟が浮上するのだと推察されるのです。それだけに、水と生命が密接に関わっていることは言うまでもありません。水こそは生命が欲する最初の、そして最後の物質なのです。

また、さらにお話をするなら、いわゆる〈末期まつごの水〉もまた、この羊水への回帰を意味するのではないかと私は思っています。意識が肉体を離れるその時、末期の水は最高の贈り物です。そして、人の想いを伝える最高の媒体ばいたいも水です。真言密教では修法の始めに、水を用いた〈洒浄しゃじょう〉という作法で道場を清めます。仏壇にも必ず水を供えます。お墓参りにも、まずは水桶が必要です。人は水がなければ、この世もあの世も生きられません。

単に、乾いた唇を湿らすだけではないのです。あの世に旅立つ大切な儀式です。末期の水を差し上げるだけでも、旅立つ人はその人に感謝を捧げるはずです。決して、おろそかにはなさいませぬよう。

最も大切な徳

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令和4年9月27日

 

昨夜は就寝で横になりながら、久しぶりに司馬遼太郎著『関ケ原(上)』の一部を拾い読みしました。そっとお話をしますが、私は寝床で本を読むくせがいっこうに改まらず、いつも枕元に読みたい本、読まねばならない本を積み上げています。寝返りを打つと本が落ち、その音で目が覚めることたびたびで、まったく自慢にもなりません。

私がこの上巻で読みたい箇所は決まっています。石田三成いしだみつなりの軍師・島左近しまさこんが、主人である三成の性格をいさめる場面です。ご存知のように石田三成は大変に聡明でしたが、正義感において融通がかず、そのため反感をかって多くの敵を作りました。特に徳川家康を「老奸ろうかん」と呼んでこれを嫌い、やがて〈関ケ原合戦〉にまで進展するのです。そこで、左近が説き伏せようとします。

「古来、英雄とは、智・弁・勇の三徳そなわったるものをいうと申しますが、殿はその意味では当代太閤たいこうをのぞけば、家康とならぶ英傑えいけつです」

しかし、と左近はいいます。

「智・弁・勇だけでは世を動かせませぬな。時には世間がそっぽをむいてしまう。そっぽをむくだけでなく、激しく攻撃してくるかもしれませぬな。真に大事をなすには、もう一徳が必要です」

「つまり?」と、三成。

「幼児にさえ好き慕われる、という徳でござるな」

私はこの一説を、どれほど読んだかわかりません。能力とは奇妙なものです。知能にたければ人は一目をおきましょう。弁が立てば説得にたけましょう。勇敢ゆうかんなれば人望が集まりましょう。三徳とも人の能力として多いに賞賛されるものです。しかし、なおそれだけでは、と左近はいうのです。

『論語』の中で、私が最も好きな一説にも似たようなことが書かれています。孔子が弟子に対して、「お前たちはいったいどんな人間になりたいのだ」と問いました。弟子たちはそれぞれ理屈っぽい答えを返すのですが、「では、先生はどうなのですか」という問いに、孔子は「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれる、そんな人間になれたら本望だな」と答えました。

二つとも、人間として最も大切な徳とは何かを考える、いいお話です。何よりも自然で無理がありません。私までも気持ちがやすらぎ、間もなく深い眠りに誘われたのでした。

「北風と太陽」への疑問

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令和4年4月27日

 

昨夜はとんでもない突風となり、境内に置いた一輪車さえ遠くへ吹き飛ばされていました。この頃は天気が不安定で、真夏のような暑さと、逆に寒さを感じるほどの日が交互にやって来ます。よく「体がついていけない」とか、「何を着ていいのかわからない」などと言いますが、まさにこの頃の天気を指しているのでしょう。

ところで、突風といえば、『イソップ物語』に「北風と太陽」のお話があります。北風と太陽が、道を歩く人のマントをどちらが脱がせることができるか勝負をしたあのお話です。北風は力づくで、太陽はやさしい日差しからじわじわと照らし続けた結果、太陽の勝ちとなりました。つまり、人を動かすのは強引な力づくより、やさしさが大切だという教訓です。

このお話は、たとえばセールスのノウハウとしても、よく引き合いに出されます。どんなによい商品をお客様に売ろうとしても、強引な押し売りでは買っていただけません。かえって警戒されるからです。むしろ、この物語の太陽のようにやさしく、快感や喜びを与えることが大切です。相手の立場になって考え、困っていることや悩んでいることがあったら、相談にのってあげるようにすれば、商品は頼まずとも売れるというわけです。

そして、この教訓はすべての対人関係にも当てはまります。社長と従業員、先生と生徒、医者と患者など、人と人が交流する以上は大いに学ぶべきでありましょう。ヘタな人生論より、こういうお話の方が真に迫るものがあります。

しかし、私はこの頃、「まてよ・・・」とさえ思うことがあります。物ごとは何でも二面性があるはずです。たしかにこの太陽のように、〝やさしさ〟は大切です。しかし、時には北風のように強引な〝きびしさ〟をもって、一気に突き進むことも大切ではないでしょうか。世の中はやさしさだけでは通らないこともあるからです。それに、太陽のようなアプローチが、いつも成功するとはかぎりません。やさしく接することが裏目に出れば、時には甘く見られることもありましょう。なめられることもありましょう。

人はもちろん、やさしさも大切ですが、きびしさを欠いてはなりません。いや、むしろ本当のやさしさとは、きびしさに裏づけされてこそ湧き出るものではないでしょうか。きびしく教えてくれる人、きびしく叱ってくれる人こそ、本当にやさしい人なのです。これを欠いた上司や先輩では、自分もまた成長はできません。つまり、こうした上司や先輩は、決してやさしい人ではないのです。親と子の関係も、まったく同じです。そうではありませんか。

深くて、しかも巾広く

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令和3年12月9日

 

物ごとを成し遂げるには、とにかく一生懸命になることが大切です。そのためには、まず、一つのことを貫き通すことです。つまり、これだったら人には負けないぞという特技を身につけることです。

ところが、一生懸命になるのはけっこうなのですが、それだけでは足りません。なぜなら、ある段階になると、必ず専門外の知識や経験が必要になるからです。つまり、一本の樹木のみきにはえだがあるように、枝葉を学ぶことも大切なのです。具体的にいいますと、趣味や娯楽といった、専門外への関心が必要だということです。ただ、始めから枝葉ばかりを増やしてはなりません。これは大切なことです。このバランスこそ、人生の極意だからです。

真言密教の教師を阿闍梨あじゃりといいますが、経典には「阿闍梨の十三徳じゅうさんとく」が説かれ、そのすべてが必要だとされています。「①菩提心をおこし、②明慧みょうえと慈悲があり、③しゅげいべ」と十三項目が続くのですが、私が特に気になるのは③の「衆芸を綜べ」なのです。

また、孔子は「道に志し、徳にり、仁にり、芸に遊ぶ(『論語』述而篇じゅっしへん)」と述べています。ここでも「芸に遊ぶ」という表現が気になります。「綜芸を綜べ」とか「芸に遊ぶ」とはいったい何なのでしょうか。まさか、ゴルフやマージャンに通じなさいという意味とは思えません(いや、それもあるかも知れませんが)。

まず思いつくことは、一生懸命に道を貫くことは大切であるが、時には文学や芸術に接したり、旅行やスポーツを楽しむことで心をリラックスさせなさいということではないかと思います。それによって、本来の一生懸命がさらに生きて来るのではないかと思うのです。つまり深くて、しかもはば広く、教養に余裕を持った人になりなさいという意味ではないでしょうか。

こういう境地に達した人は、決して窮屈きゅうくつさというものがありません。それでいて、品格もやさしさもユーモアも兼ねているはずです。真言密教で同じ10の伝授をしても、100の力を持っている阿闍梨と10のギリギリの力しか持っていない阿闍梨では雲泥うんでいの差です。その内容がまるで違います。それはどこから来るのかと言えば、やはり深さに加えた、巾の広さではないかと私は思うのです。

三年目の浮気

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令和3年11月10日

 

昭和の終わりごろに、『三年目の浮気』というおもしろいデュエット曲が流行はやりました。まず、男側がこういう歌詞で歌い出します。

「馬鹿いってんじゃないよ お前と俺は

ケンカもしたけどひとつ屋根の下 暮らして来たんだぜ

馬鹿いってんじゃないよ お前のことだけは

一日たりとも忘れたことなど なかったぜ」

だから、この男にしてみれば、「三年目の浮気ぐらい 大目に見ろよ」と言いたいのでしょう。熱愛した二人も、三年もたつと冷めて来るのでしょうか。

しかし、この〝三年目〟という言葉には、きわめて重要な人生のキーワードがあるように私は思います。なぜなら、何をしても三年もたつと、気ごころが変わるのは人の常であるからです。

たとえば、お花やお茶を習っていても、三年近くになると、このまま続けるかどうか迷う人が多いことをご存知でしょうか。それは月謝への負担や、先生への不満といった理由があるかも知れませんが、たいていは対人関係の悩みです。続けたい気持ちはあっても、あの人に気遣きづかうのはイヤだといった感情が先行するからです。

ここが一つの山なのです。ここをガマンして続けると、また一つ大きな成長があるからです。「石の上にも三年」「いばらの道も三年」と言うではありませんか。また、僧侶の修行にも、千日回峰せんにちかいほう千座法せんざほうなどいった言葉があります。千日はつまり〔1000÷365=2.73・・・〕で、ほぼ三年です。

何をするにも、三年目の変化に気をつけましょう。そして、やめたいと思った時にそれを乗り越えて五年もすれば、必ず成果が生まれます。さらに、六年・七年でまた壁に突き当たります。また迷いながらも進めば乗り越えますが、また壁に突き当たります。この繰り返しを十年も続ければ、〝先生〟として教えることができます。そして、ついに、これを三十年も続けられるなら、その道の極意に達することも夢ではありません。

まずは三年目の山を乗り越えましょう。修行も仕事も、学問も芸事も、そして男女の仲も同じです。人間がすることに、さほどの違いはありません。みんな、同じです。「三年目の〇〇」ですよ、皆様。

性格判断

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令和3年9月25日

 

人にはさまざまな性格があります。私はたいてい、九星気学でこれを判断していますが、そのほか特に重視しているのがクレッチマーの性格類型です。クレッチマーは二十世紀におけるドイツの精神科医ですが、彼は人の性格を五つのタイプに分類しています。私なりの分類用語で、ちょっとのぞいていみましょう。

①自己顕示型

社交的で派手好き、自己主張が強く負けず嫌いな人です。他人が自分より上にいることが許せず、嫉妬心しっとしんも人一倍強いので、対人関係のトラブルが絶えません。嫌いな相手やライバルには徹底的に攻撃こうげきしますが、うまくいかないとヒステリー症状におちいります。しかし、上を目ざしてはい上がるパワーは強く、水商売や芸能人タイプと言えましょう。

②几帳面型

いわゆる几帳面きちょうめんでねばり強く、きわめてまじめな人です。だらしのない生活を極端に嫌い、ルールやセオリーをきちんと守らなければ気がすみません。持久戦に強い反面、こらえきれなくなると、癇癪かんしゃくをおこして年に一度二度と、これを爆発させます。不器用なほどのマイペースですが、一人でコツコツと成果を積み重ねる研究者タイプと言えましょう。

③柔軟性型

五つの分類では最も柔軟性じゅうなんせいに富み、まずまず無難な人です。つまり、ものごとを素直に受け入れる能力に富み、しかも七転び八起きのしぶとさにも欠きません。いささか八方美人ではありますが、人づきあいがうまく、好んで他人の面倒もみます。たくましさを持つこのタイプは政治家に多く、最後に天下人となった徳川家康がその代表的タイプと言えましょう。

④理想空想型

きわめて非社交的であり、ああくまで自分のカラに閉じこもる人です。偏屈へんくつな変わり者と見られますが、特異な才能を発揮して、世間を驚かせることもあります。繊細せんさいで空想や理想に走り、まわりの評価など気にもせず、世渡りのヘタなのが特徴です。一部の人からは熱狂的に愛されますが、一方では誤解されることも多い芸術家タイプと言えましょう。

⑤完全主義型

感受性が強く、過敏で、小さなことにこだわる神経質な人です。何ごとも完璧にやりげねば気がすまず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込むと、ノイローゼにもなりかねません。完全主義が強い反面、身辺のささいな一言が気になると、強いコンプレックスをいだきます。寒がり屋なのに暑がり屋の、いわゆる汗かきタイプと言えましょう。

もちろん、人はこの五つのタイプを複数に持ち合わせ、時に応じてどれかが強く現れるのです。私などは、この五つのすべてをそなえているようにさえ思えます。さて、皆様はいかがでしょうか。もしかして・・・。

人類はみな兄弟なのか

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令和3年2月20日

 

若い頃、十代も先祖をたどったらどのくらいの数字になるかと、マジメに計算したことがありました。

どんな人にも父母の2人がいます。その父母には4人の父母がいます。その父母にはまた8人の父母で、三代ですでに14人です。こうして続けると、五代で62人、六代で126人、七代で254人(七世の父母!)、十代では何と2,046人となりました。これは実に驚くべき数字です。

十代前となると、いつ頃なのでしょうか。現代は子供が授かる親の年齢が高くなりました。2010年、第一子を出産した女性の平均年齢がはじめて30才を超え、現在は31才ほどとされています。もちろん、昔はもっと若い時に出産しましたから、夫の年齢も含めて、親子の平均年齢差を仮に26才としましょう。十代で260年前となり、ほぼ江戸時代中期ぐらいです。つまり、江戸時代中期までに、どんな人にも2,046人の先祖がいるということです。

さらに続けましょう。二十代で2097150人、三十代では何と何と、2147483646人で21億を超えるのです。今度は親子の平均年齢差を仮に24才とすると720年前となり、たぶん鎌倉時代末期ぐらいでしょう。つまり、鎌倉時代までの先祖をたどった時、どんな人にも必ず21億を超える先祖がいて、その誰ひとりが欠けても、今日の私たちはこの世に生まれることはなかったということです。

それと、もう一つ。現代の日本人の人口は、たかが1億2千万人程度です。比べものになりません。そうすると、私たちはみな兄弟だともいえるのです。かつて、笹川良一氏が「人類はみな兄弟」とテレビCMで語っていましたが、国民はいささか冷ややかな目で見ていたはずです。しかし、こうした数字に驚くと、まんざらでもないということがわかります。

いや、それどころか、このことはお大師さまが『綜芸種智院しゅげいしゅちいんの式』(日本初の庶民学校の設立申請書)ですでに主張されていることなのです。すなわち「この世の人々がすべてわが子であるとは釈尊しゃくそんの言葉であり、世界中がみな兄弟であるとは孔子こうしの言葉である」と述べていらっしゃいます。なるほど、人類はみな兄弟と思わねばなりません。お大師さまの教えですよ。私も心がけましょう。

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