涙も止まらぬ法悦
令和2年5月27日
日清戦争は明治28年に終結しましたが、日本国内は不景気で失業者があふれ出る始末でした。この当時、茨城県のある村(現在の石岡市近く)に、一家五人暮らしの貧しい小作農家がありました。小作だけでは暮らしも立ちません。親夫婦は東京に出て土木作業員となりました。村には長男の元三(十八歳)、長女のサヨ(十六歳)、次男の巳之助(十二歳)の三人が残り、親の仕送りを待ちつつ、元三ばかりは農家の手伝いをしながらやっとの生活をしていました。
しかし運命とは非情なもので、東京に出た両親が流行り病の腸チブスにかかり、相次いで亡くなってしまったのです。三人は粥をすすってどうにか飢えをしのぎましたが、困窮を絵にかいたような暮らしでした。この頃の運動会はハカマをはいて競技をしましたが、学校に通う次男の巳之助にそんな余裕などありません。「兄ちゃん、明日はみんなハカマをはいて来るんだよ。僕にもハカマを買っておくれよ」とせがまれた元三は弟かわいさに、とうとう「そうか、買ってやるよ」と言ってしまったのでした。
元三はあてもなく夜道を歩きつつ、何とかしようとしましたが、どうにもなるものではありません。とうとう、石岡のある店からハカマ一着を盗み出してしまったのでした。翌日、彼は喜んで運動会に向かう弟を見送ったものの、警官から出頭を求められて尋問されるまま、素直に自白して監獄送りとなりました。短い刑期で済んだものの、以来彼は、村にもいられぬ誹謗の的となったのです。妹や弟までもいじめに泣かされ、悔恨の念も逆転して「覚えていろよ!」と、凶賊の徒へと転じました。ついに彼は恨みの農家三軒に放火し、再び入獄して長期の刑を受ける身となったのでした。悪事をなそうと思って生まれて来る人など、いるはずがありません。背負った〈業〉が人を動かすのです。運命を動かすのです。元三はその後も転落を重ね、前後六回の監獄入りをしつつ、三十六歳を迎えました。
そして、彼のこの悲運な人生を救ったのが、東京品川のある寺の住職でした。最後の刑期を終えた彼を自坊に引き取り、家族同様の生活をさせました。お茶も食事も、風呂も就寝も、そして日常の生活も、これまでの人生にない暖かい情けと潤いを与えたのでした。ある時、住職が「死ぬ気になって生まれ変わることができるか」との問いに、彼は「できます」と答えました。そして、合掌して住職が唱える〈三帰依〉に、静かに耳を傾けました。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と。彼は生まれて初めての、涙も止まらぬ法悦を知りました。
以来、元三はどのような誹謗を受けようとも、「自分は生れ変わったのだ。仏さまの弟子なのだ」という信念を貫き、さる農家での奉公を続けました。そして、しだいに信頼が高まり、家庭を築き、村人の手本とさえなりました。善悪のはざまをくり返した彼の人生は、実は私たちの写しでもあります。〈業〉が動けば、私たちの人生でさえ何がおこるともかぎりません。しかし、その〈業〉によって、また立ちなおれるのも人生です。私たちはそれを背負って生きています。
続・アラヤ識のこと
令和2年5月11日
昨日は「無意識の選択」が、悪い結果として現れる例をお話しました。そして、仏教ではこの無意識を「アラヤ識」と呼ぶこともお話しました。
もちろん、無意識の選択はよい結果を生むこともあります。最近は日本でも、若い娘さんが父親母親を問わず、手をつないだり腕を組んで歩いている姿をよく見かけます。大変に好ましいことで、無意識の選択がうまくいっている証明です。
また私が知っているある女性は、嫁ぎ先の義母、つまり姑さんととても仲がよかったので、「いつも腕を組んで歩いたものです」と語っていました。嫁ぎ先の義母は、もちろんアカの他人です。それでも、まれには「お義母さん大好き!」などと言うお嫁さんがいるものです。しかも、こういう場合の姑さんとお嫁さんは、その顔までも似てくるから不思議なのです。「そんなバカな」と皆様は思うでしょうが、世間にはよくある事実です。二人の顔の印象から、たぶん「親子ですか」などと問われることがあったはずです。
では、こうしたよい結果はどこから生まれるのでしょうか。
答えは決まっています。母親の息子に対する教育がよかったということです。つまり、一方的な甘やかしでもなく、一方的な教育ママでもないバランスがあったからです。やさしい愛情を受け、きびしい躾も受け、正直で思いやりがあり、努力も怠らぬ息子として成長したからです。だから、女性に対する見方にも偏見がありません。女性からも好かれます。アラヤ識がいいお嫁さんを選ぶのも当然なのです。
また父親と娘の関係にも、バランスがとれていたからです。父親は母親のようにいつも家にいることは少なく、また娘の教育に口出しすることも少ないと思います。でも、娘が嫌悪するようなことはしません。帰って来て家族と挨拶もせず、娘と会話をすることもなく、ビールを飲んで無言で夕飯を食べ、大いびきで寝込むようなことはしなかったはずです。そして、休日には娘が喜ぶ何かをしてきたはずです。家族を支え、仕事に励み、趣味も楽しんでいた父親の背中を、娘は頼もしく見ていたのです。アラヤ識がいい夫を選ぶのも当然なのです。
こうして考えると、人生を救うものは〝教養〟だと、私はますます確信します。教養はもちろん、学歴でも知識でもありません。〝智恵〟といってもよいでしょう。つまり、教養に根ざした智恵が大切だということです。その教養がやさしさを生み、きびしさを育てるのです。そして謙虚に生きることを学び、信仰の大切さも知るのです。その教養は親から子へ、子から孫へと遺伝するのです。これがアラヤ識です。
アラヤ識のこと
令和2年5月11日
以前、九星気学では男性にとって母親と妻は同じもの、また女性にとって父親と夫は同じものだとお話をしました。もちろん、普通に考えただけでは納得できません。性格も考え方も、そして生き方も似ているとは思えません。しかし人の心理には、表面を見た程度ではわからない「無意識の選択」がはたらいているのです。
母親と息子の関係を考えてみましょう。息子にとって、母親は人生で最初に出会った女性ですから、影響を受けるのは当然です。たとえば、母親には甘やかすタイプがいます。とにかく息子が可愛くてしかたがありません。身のまわりのことは、母親が一切を取り仕切ることになります。学校で問題でもおこせば、それは学校が悪いと一方的に決めつけるでしょう。このような育ち方をした息子は、たいていの女性に興味を示しません。そして母親と同じ愛情を注いでくれる女性を、無意識に求めるのです。
また一方、きびしい教育ママのタイプがいます。息子を一番にするためなら、どんなことでもします。塾に通わせ、ピアノも習わせます。そして、自分の夫に対する不満を、息子への期待で転化させようとします。このような育ち方をした息子は、女性にかなりのレベルで理想を求めます。いずれも極端な例ですが、男性の女性観はこのように母親を通じて形成されるのです。そして、いよいよ妻を選ぶとなると、運命の糸は母親と共通する女性を引き寄せるから不思議です。
では、父親と娘の関係はどうでしょう。当然、娘にとって父親は人生で最初に出会った男性です。私が若い女性に「オトコ運は父親で決まるのですよ」と言うと、父親が大好きな女性は納得しますが、たいていは「イヤだー!」と嫌悪します。これは父親から十分な愛情を注がれなかったという不満が、父親とは反対の男性を求めるからです。ところが、その不満は恋人を探しているつもりでいても、無意識の内に父親の匂いを求めようと転化します。父親の愛情に飢えた願望が、そのようにはたらくからです。そして、運命の糸は父親と共通する男性を引き寄せるから皮肉なものです。
結婚してもうまくいっていなかったり、離婚した男女のお話を聞くと、いろいろなことがわかってきます。たいていは母親と妻の関係が悪化したり、妻に母親以上の愛情を求めたり、夫の中に嫌悪する父親像を見い出したりするからです。ただ、本人たちは「どうしてなのか」と疑問に思うでしょう。「こんなはずではなかった」と戸惑うことでしょう。その根底には母親と息子、父親と娘の間にこんな隠れた問題がおこっていたのです。これが無意識の選択です。仏教ではこの無意識のことを「アラヤ識」と呼んでいます。
品格について
令和2年2月7日
かつて藤原正彦氏の『国家の品格』、坂東眞理子氏の『女性の品格』を始めとして、〈品格〉という言葉が流行しました。
品格とは何でありましょうか。もちろん、今日・明日から品格を身に着けようとしたところで、叶うことではありません。その人の教養・思考・経験・生活・行動など、そのすべてが融合して自然ににじみ出るのが品格でありましょう。
たとえば、そこに紙くずが落ちていたとして、それを気にもしないか、気にはするけれども何もしないか、すぐに拾ってくず籠に入れるか、そんなところにも現れましょう。仏教では「下座の精進」といいまして、自分の立場や身分をいかに下げられるかを大事な修行としています。仏門に入る得度式は、礼拝の連続です。仏に向かって両膝・両肘・額を床に着ける〈五体投地〉をくり返します。つまり、高い品格は、自分を下げることから生じるという教えを実践するのです。下げることから心が清まり、魂が輝き、その品格が高まるのです。この逆説がわかりますでしょうか。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というではありませんか。稲は実るほどにその穂を下げるものです。人もまた、その品格が高いほど謙虚にふるまうものです。逆に品格の疑わしい人ほど尊大で、増上慢な態度をふるまうはずです。覚えはございませんか。
成長する会社の経営者は自らトイレ掃除をしたり、社員と同じ立場で対話をするはずです。社員もまたそんな社長を信頼し、仕事に励み、その会社が成長していきます。戦後日本を動かした偉大な経営者の方々を見れば、それは十分に理解できましょう。女性の品格も、国家の品格も、すべては謙虚でなければ高まりません。
墓前での甘酒接待
令和2年1月31日
私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)にはめずらしい風習がありましたが、そのひとつをお話しましょう。
記憶はあいまいですが、あれは冬至の頃であったのか今頃であったのか、とにかく寒い時期に墓前での甘酒接待がありました。墓前といっても今のような霊園ではなく、昔の部落墓地でした。そこで大きな鉄なべで甘酒をつくり、道行く人に声をかけては甘酒をふるまっていました。道行く人も声をかけられると、ことわってはいけない礼儀があったような気がします。当時は自動車で通行する方など、ほとんどありません。徒歩や自転車の通行人が代わる代わる立ち寄り、その甘酒をいただいては去って行きました。
私はその甘酒が楽しみで、自分から進んで手伝いをしました。しかし、その意味を知ることもなく何十年も過ぎ去り、急に思い出したのもまた奇妙です。今は甘酒がブームらしく、スーパーにもたくさん並んでいます。それを見て連鎖反応があったのでしょう。
その由来を考えますと、どなたか、寺の住職でも提案したのかも知れません。要するに先祖に代って布施をなし、功徳を積むということなのです。何しろ寒い毎日で、温かい甘酒はありがたいものでした。昔はこんなことを通じて、仏教が民間に伝えられていたのです。しかも、何の不自然さもなく農村の風習になっていました。このようなお話はたくさんあるのですが、子供のころの記憶をたどると、なるほどと思うことがあって驚きます。民俗学という学問が生じるのも納得できます。
遠い日の記憶を思い出し、何やら楽しく、うれしい一日でした。さらに年齢を重ねれば、どんな記憶として甦るのでしょうか。
屈辱をバネに
令和2年1月30日
一昨日の塙保己一のお話には、さらに続きがあります。
ある雪の日、彼は平河天満宮(現・東京都千代田区)へ参詣しました。ところが参詣を終えての帰りぎわ、あいにくの雪のためか下駄の鼻緒が切れてしまいました。
境内に前川という版木商(今の出版業社)があり、人声を感じた保己一は「ヒモをいただけませんか」と頼みました。盲目の彼を見て、からかってやりたかったのでしょう。店の者が無言でヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しあて、鼻緒を仕立てようとしました。もちろん盲目の彼が、うまく仕立てられるはずがありません。店の者たちは手をたたいて笑いました。彼はその屈辱に耐えきれず、素足で店を飛び出しました。
ところが後年、幕府の推挙を得て『群書類聚』がいよいよ出版されるに及び、保己一は何とその前川を版元に選びました。何も知らない前川の主人がお礼を述べると、保己一は「私が今日あるは、数年前の雪の日に受けた屈辱のおかげです。むしろ私の方こそお礼を言いたいのです」と語りました。
天才とは、なるべくして天才になるのでしょう。屈辱の恨みを超えて相手を許し、むしろその屈辱を努力のバネにしたのです。誰しも、忘れがたい屈辱はあるものです。しかし、その恨みを報いるのに恨みをもってするなら、その恨みはいつになっても消えません。今度は相手が、さらなる恨みをいだくからです。保己一は仏典の教えを、深く体得していたのです。
『のどごし〈生〉』を生かす
令和2年1月29日
昨日、親しい不動産業の方が亡くなり、私が葬儀の導師を勤めました。八十三歳の天寿をまっとうしましたので、年齢に悔いはなかったと思いますが、人の一生には何かと未練や執着が残るものです。
私がちょっと驚いたのは、担当葬儀社の配慮でありました。いよいよ出棺の折、その葬儀社はあらかじめ葬主と話し合い、故人が生前に最も好きだった音楽CDを斎場に流しておりました。昨日、故人のそれはフジコ・ヘミングのピアノ演奏で、その美しい曲に一同が癒されておりました。これは現代葬儀においては、格別に異例なことではありません。このようなセレモニーは、他社においても流用していると思います。
私が驚いたのは、司会者の次の放送でした。「これから個人が生前に最も好きだったお酒を、ご遺族の方に綿棒でもってお口に含ませていただきます」と言うのです。故人はどんなお酒よりもキリンビールの『のどごし〈生〉』が好きだったらしく、ご遺族が代わる代わるその綿棒をお口に含ませました。こんな経験は初めてのことで、私は驚きつつも、何やら喜ばしい気持ちになったのも意外でありました。
しかし、どうでありましょうか。仏教の本義からいえば、葬儀とお酒は互いに相容れません。「不飲酒」は大切な訓戒であります。しかし、以前にもこの法話ブログに書きましたが、そこが神社や儒教、民間信仰と習合した独特の「日本教」なのです。神前にお酒や供物を献じてお祭りをなし、そのおさがりを仲よくいただくことが〝まつりごと〟なのです。つまり、飲食を共にすることで、人の気持ちが通じる〝政治〟となるのです。そして、その風習が仏教の中にも共存しているのです。
故人は生前に最も好きだった音楽を聴きつつ、最も好きだった『のどごし〈生〉』を奥様や子供たちからいただきました。もはや、この世の未練や執着から脱することは容易であったはずです。仏教の本義を離れて、立派な方便が生かされているようにも思えるのです。未練や執着を脱する方便として、『のどごし〈生〉』を生かしたのです。
五戒か十善戒か
令和2年1月22日
『あさか大師勤行式』の「回向勤行」には十善戒が記載され、法要のたびに皆様とお唱えしています。
十善戒とは不殺生(生きものを殺さず)・不偸盗(ものを盗まず)・不邪淫(性生活を乱さず)・不妄語(うそを言わず)・不綺語(たわごとを言わず)・不悪口(悪口を言わず)・不両舌(二枚舌を使わず)・不慳貪(貪りをせず)・不瞋恚(怒らず)・不邪見(間違った考えに走らず)のことです。始めの三つが行いの戒め、次の四つが言葉の戒め、最後の三つが心の戒めです。したがって、人は言葉に対する心がけがいかに大切であるかという教えでもありましょう。
これに対して五戒という教えもあり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒を指します。葬儀において戒名を読み上げる前に、このいずれかを授けるわけですが、どちらがよいのか私はかなり悩みました。
問題なのは五戒の不飲酒なのです。なぜかと申しますと、葬儀で五戒を唱えても、その後のお斎には「おきよめ」と称してビールやお酒が出されます。故人ばかりに不飲酒を戒めておきながらお斎をするのも、いかがでありましょう。またお斎の折には、故人の位牌や遺影の前にビールやお酒をお供えする方さえいます。これは日本の仏教が堕落したという意味ではなく、神前にお酒を供えて、そのお酒で仲よく直会(会食)を開く風習がこの国の宗教を支えて来たからです。つまり、仏教とはいっても、神社やいろいろな民間信仰が習合して、独特の「日本教」となったからです。仏式葬儀に不飲酒が生かされないのは、このような理由からなのです。
『あさか大師勤行式』に十善戒を選んだ理由はここにあります。お酒は人類の歴史と共にありますが、「百薬の長」ともいい、また「気ちがい水」や「百毒の長」ともいいます。願わくは「百薬の長」として、心身の健康に役立ってほしいものです。
お葬式はなぜ必要か
令和2年1月8日
新年早々、お葬式が入りました。私は初詣のため、日中は寺を空けられません。そこで昨夜の通夜のみお導師を勤め、本日はお手替の僧侶にお願いをしました。
現在、この国にはお葬式をしない方が急増しています。病院から霊柩車で火葬場に直行し、お骨のみ受け取る「直葬」という方式です。中には、お骨はいらないから〝処分〟して欲しいなどと申し出る人もいます。極端には新幹線の車内に、故意に置いていく人すらいます。
かつての日本人は、親の臨終にすら立ち会えないことを生涯の恥としました。また、たとえ借金をしてでも、親のお葬式ばかりはしました。どうしてこんなことになったのかといいますと、お金がかかるという理由からです。お葬式というと、高額なお布施がかかるし、葬儀社への費用も大変だということなのでしょう。
しかし、お金のことは、工夫をすれば低額で済ませる方法はいろいろあります。ネット派遣で僧侶を依頼すれば、お布施も安くなりますし、葬儀社の費用もさまざまです。事前によく調べてみることです。
そもそも、人生にはいくつかの節目があります。学校に入学するには入学式があり、卒業するには卒業式があります。また、成人すれば成人式があり、入社をするには入社式があります。それぞれの儀式があるから、それぞれの自覚が生まれるのです。そして、何より結婚をするには結婚式があります。今どきは教会式が多いことでしょう。神父さんが新郎新婦の手をとって、「お二人が夫婦であることを宣言します」と奏上するから、夫婦としての自覚が生まれるのです。
この世に別れを告げるにも、子や孫から何の挨拶もなく、お葬式らしい読経もなく、ただ火葬だけをされれる寂しさからは何の自覚も生まれません。そして、どこに往っていいのかもわかりません。
怖いお話をして恐縮ですが、お寺におりますといろいろ〝霊的〟な現象を体験します。真夜中で誰もいないのにインターホンが鳴ったり、読経中に玄間に人影を感じることがあります。中までは入って来ません。いや、入れないのです。そんな時私は、「お葬式をしてもらえなかった人だな」とスグにわかります。
皆様、何があっても親のお葬式ばかりはなさってください。あの世に旅立った親が、どこに往っていいのかわからないようなことにはなさらないでください。
スジャーターの乳粥
令和元年12月11日
お釈迦さまは悟りを開く前、六年間の苦行をしました。断食のため死の直前ともいえるほどに衰弱し、体は骨と皮ばかりになるほどでした。
その時、村の娘・スジャーターが通りがかり、持っていた乳粥の供養を受けました。そして、体力を回復したお釈迦さまはネーランジャラー川で身を清め、瞑想に入って、ついに悟りを開きました。これは仏教のことを少しでも学んだ方なら、どなたでも知っているお話です。ただ、問題なのはその「乳粥」とは何であるかです。
学者の中には「乳粥」を「ヨーグルト」と訳す方もおりますが、それは違っています。実はインドのお粥を「キール」と呼び、甘い味がするお祝いの料理なのです。甘いお粥というと、皆様は驚くでしょうか。しかし、お祝いに甘いものを出す習慣はよくあることで、日本でも東北や北海道の赤飯は甘く味付けします。また、甘い饅頭やぼた餅(おはぎ)などもその例でしょう。
ただ、その「キール」が、日本のインド料理店のメニューにはありません。私は僧侶の方にこのお話をする必要があった時、かなりの店に問い合わせました。しかし、東京銀座の「ナタラジ」という店でデザートとして出している以外、まったく皆無でした(だいぶ前のことで、最近はもう少し増えているかも知れません)。
「キール」は牛乳で煮つめたお粥に砂糖を加えます(さらにお好みでナッツ類を加えます)。牛乳を煮つめた状態を「蘇」といい、これも仏教では大切なものです。ついでですが、私は三十代にかなりの荒行をしましたのでわかるのですが、断食して極端に衰弱した時、ヨーグルトではさほどに体力はつきません。ところが、たとえ一杯でもお粥を食すれば、たちまちに回復します。
それだけに、スジャーターのお粥は甘く、また栄養価も高かったはずです。そして何より、彼女は一生を費やしても及ばぬほどの、大きな功徳を積んだのでした。