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白紙の観音さま

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令和2年6月3日

 

その昔、美濃みの(現・岐阜県)と尾張おわり(現・愛知県)の国境くにざかいに、一人のお婆さんが営む茶店がありました。年とともに視力が衰え、ほとんど盲目に近い状態でしたが、どうにか茶店だけは続けていたのでした。

そこにある若者がやって来て、白紙しろがみを一枚渡しました。それは文字も絵もない単なる白紙だったのですが、お婆さんには見えません。しかしその若者は、「お婆さん、この紙にはありがたい観音さまが描かれているんだよ。これを信心するとご利益があって、見えない眼も開くんだそうだ。だから、しっかり拝むといいよ」と言うのです。

お婆さんはさっそくこの白紙を壁にはり、香華こうげを供え、「南無観音なむかんのんさま」と宝号を唱えて拝みました。店に立ち寄る客は、「婆さん、あんた何を拝んでいるんだ。ただの白紙じゃないか。あんたには見えんだろうが、白紙には何にも描かれてなんかいないんだぜ」とバカにしました。お婆さんはこんなことを言われて時には迷いましたが、拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いないという信念を貫き、一心に念じました。

そして、半年ほどが過ぎました。何と、お婆さんの眼がかすかに見えるようになったのです。そして、拝んでいた白紙まで〝真っ白〟に見えてきました。確かに観音さまの絵などありません。しかし、お婆さんは考えました。「半年あまりも拝んできたこの白紙は、私にとってはただの白紙ではないんだ。眼には写らなくとも、きっと観音さまがおこもりになっているに違いない。これからもそのつもりで拝んでいこう」と。

やがてこの「白紙の観音さま」のうわさが広まり、いろいろな方がお参りするようになりました。時には僧侶の方までがわざわざ遠方からやって来て、読経をしていきました。もちろん、そうなれば茶店の方も繁昌し、お婆さんは二重のご利益をいただいたことになったのです。

皆様はこのお話をどのように考えますでしょうか。問題は「拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いない」というお婆さんの信念に尽きましょう。私はこのような霊験は十分にあり得ると思います。それが信仰だからです。世に知られた『観音経』には、「念彼観音力ねんぴかんのんりき」という聖句が何度もくり返されます。一般には「の観音の力を念ずれば」と訳されています。観音さまを念ずればあらゆる災難から逃れられると、多くの描写が列記されています。しかし、どうでしょう。「彼の観音」とあります。ただ漠然ばくぜんと観音さまを念ずるのではなく、どこにいようとも自分が信仰し、香華を供え、宝号を唱え、よくよく拝んでいる〝彼の観音〟でなければならないということです。安易に観音さまを念じても、奇跡は起こりません。

それにしても、お婆さんに白紙を渡した若者とは誰だったのでしょう。私はそれが誰であろうと、彼こそは観音さまのお使いだったと信じます。そして皆様のまわりにも、そういう方が必ずいるのです。意外にも、ごく近くにです。早くそれに気づかねばなりません。これもお大師さまの教えですよ。

胸のすくような快僧

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令和2年6月2日

 

明治時代の始め、曹洞宗そうとうしゅう原坦山はらたんざんというとい禅僧がいました。儒教や医術も学びましたが、やがて出家し、僧侶として初めて東京大学で仏教講義(インド哲学)をしたり、晩年は現・駒澤大学の総監を務めたりもしました。

大変な酒豪で、仏前でも平気で飲んでいました。訪問して来た僧侶にも酒を勧めると、おかたい方はたいてい断ります。すると「酒も飲まんヤツは人間じゃないぞ」とまで言うのです。「人間でなければ何ですか」と聞き返すと、「仏さまじゃ」と放言する始末でした。

この坦山が、まだ若い修行時代のことです。連れの僧侶を伴って大井川を渡ろうとしましたが、昨夜の雨で増水していました。二人は迷いましたが、勇気を出して渡ってみようと決心したのです。二人はすそを巻き上げ、ひもを結び、いよいよ川に入ろうとしました。その時、旅姿の若くて美しい娘が、同じように川を渡りたいおもむきで岸辺に立っているのに気づきました。どうやら急いでいるのに、困惑している様子でした。まさか、娘の身ですそを巻き上げるわけにもいきません。

そこで若い坦山が、「あなたも向こう岸へ渡りたいのかね」と聞くと、そうだと言います。何とかしていただけませんかとでも言いたげでした。しかしこの時代、僧侶が女性の体に触れることなどあり得ないことでした。しかし、坦山は腹をくくって自分の荷物を連れの僧侶にあずけるや、「しっかりつかまっていなさい」と言って、その娘を軽々と抱き上げました。そして、ザブザブと川を渡り始めました。浅瀬を探りながら、注意深く進んで行ったのです。連れの僧侶はにがい顔で後から、坦山について行きました。

そして無事に向こう岸に着くや、娘は「何とお礼を申していいのかわかりません。ご出家しゅっけさまに抱いていただくなんて、身にあまる光栄です。このご恩は決して忘れません。ぜひお名前をうかがいとうございます」と礼を言いつつ願い出ましたが、坦山はにっこり笑うばかりで、振り向きもせずに歩き始めました。

その日の夕方、ある家に一夜の宿をうた二人でしたが、連れの僧侶がどうも不機嫌ふきげんでした。坦山は「おぬし、やけに陰気な顔をしているが、どうしたのだ」と問うと、「どうもこうもあるまい。若い娘を抱き上げるとはどういうことだ。道をみはずすぞ」と言うのです。坦山は答えました。「なんだ、おぬしはそんなことにこだわっていたのか。わしはもう、すっかり忘れていたぞ。おぬしはいつまでもあの娘に思いを寄せて抱いていたのか」と。

このお話はよく語り伝えられています。僧侶は俗にあっても俗に染まってはならないという戒めとして、なかなかに味があります。またこの時代、かくも胸のすくような快僧がいたのです。維新の英雄も政治家も、軍人も学者も、そして若者も、新しい日本を築くために必死でした。それだけ、人としての器も大きかったのです。

合掌でボロが出る俳優・女優

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令和2年6月1日

 

俳優さんや女優さんは、もちろん立派な演技をします。しかし、合掌した時の姿にたいていはボロが出るので、そのことがとても気になっています。私もたまにはテレビを視るのですが、特に刑事ドラマなどで、若い俳優さんや女優さんが死体に向って合掌するシーンは、「まったく!」といっていいほどサマになりません。

こうしたシーンは、たとえば『鬼平犯科帳おにへいはんかちょう』での中村吉右衛門さんなどはさすがだと思いました。一般に大御所おおごしょと呼ばれる俳優さんや女優さんは、堂に入っているように思います。たぶん、それだけの努力を重ねて来たのでしょう。あるいはお寺や仏壇の前で合掌する習慣があるのでしょう。そもそも合掌の姿は、修行をして生活に溶け込まなければ体得できません。念珠の持ち方も、そのり方も同じです。つまり、単なる演技では必ずボロが出るということなのです。

黒澤明監督は数々の美学的映像を仕上げ、多くのファンを魅了しました。どのシーンを瞬間的に止めても、完璧な構図をなしている手腕には脱帽します。ところが『影武者』での上杉謙信が、「信玄死す!」の知らせに合掌する姿ばかりはいけません。春日山城の雪降る景観をリアルに描きながら、「惜しいな」と思ったものでした。

映画といえば、仏教の祖師や僧侶を主人公にした作品にもいくつか接しました。その昔の『釈迦』では本郷功次郎さんがお釈迦さまを演じましたが、残念ながら紙芝居かみしばいほどの記憶しかありません。萬屋錦之助さんの『日蓮』は貫禄かんろくはありましたが、どうしてもサムライという印象から離れません。『子連れ狼』を僧侶にしたような感じでした。

北大路欣也さんの『空海』を、皆様はどのようにご覧になったでしょう。おそらく、お寺である程度の作法は〝勉強〟したはずです。しかし、大変に失礼ではありますが、私は途中で劇場を出ようかとさえ思いました。お大師さまこそは日本史上、最大の巨星です。俳優さんが演じること自体、どだい無理なのです。もし私が監督だったら、お大師さまの映像は〈後ろ姿〉ばかりに留め、低めの声を静かに流すでしょう。合掌の姿も手に持つ念珠も、ボロを出したくはありません。

私がまずまず得心したのは、『天平てんぴょういらか』で鑑真和上がんじんわじょうを演じた田村高廣さんでしょうか。かなりの〝修行〟をしたのだと思います。主演の普照ふしょうを演じた中村嘉葏雄さんも琵琶法師びわほうし以来、僧侶役には適切だと思いました。

最後に『少林寺』における出演者はみな相当な武術家だけに、拳法も合掌の姿もみごとだったと思います。中国でも日本でも少林武術の旋風をまき起こしましたが、あの鍛錬たんれんこそは修行そのものです。ストーリーはともかく、これぞ僧侶なのだという気迫が見られるはずです。また韓国歴史ドラマの中にも、風格のある僧侶役の俳優さんがいたのを覚えています。

もう、字数が尽きました。酷評を並べましたことはお詫びいたします。それだけ俳優さんにも女優さんにも、期待をしているからです。多謝、多謝。

一目ぼれした尼僧

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令和2年5月30日

 

お釈迦さまの十大弟子の一人に、阿難尊者あなんそんじゃ(アーナンダ)という方がおられます。お釈迦さまの侍者として最も身近に使え、従って最も多くその教えも聞いたので「多聞第一たもんだいいち」とまで呼ばれています。また、阿難は大変な美男であったことでも知られ、多くの女性からもあこがれの的であったようです。

ある日、阿難は朝の托鉢たくはつを済ませ、祇園精舎ぎおんしょうじゃへ帰る途中でのどのかわきを覚えました。どこかで水を飲もうと思っていた時、清らかな池のほとりに出ました。そして、そこには近所の摩登伽まとが(マータンガ)という娘がちょうど水を汲みに来ていたのでした。阿難は静かに娘に近づき、ていねいに「水を一杯いただけませんか」と所望しました。摩登伽は「かしこまりました。いま汲んで差し上げましょう」と言って、阿難の食器に水を注ぎました。阿難はうやうやしく押し頂き、静かにその水を飲んだのでした。

ところが、その気高く美しい阿難の姿を見て、摩登伽はすっかり心をうばわれてしまいました。もの静かな気品に打ち震え、胸の高鳴りを押さえることができませんでした。この摩登伽という娘は、もともと多情多感であった旨を表記をした経典もあります。礼を言って立ち去る阿難の姿を追いながら、ものにかれたように、ぼんやりとたたずんでいたのでした。

そして家に帰ると、一目ぼれしたやるせない気持ちを母親に訴えました。「女として生まれて夫を持つなら、あの阿難さまのような方と結ばれたいのです。どうか私の心を察して、阿難さまにお願いしてください」と懇願こんがんしたのです。もちろん阿難は仏弟子(出家者)ですから、結婚などできるはずがありません。母親は「それは無理というものだ。阿難さまはお釈迦さまの大事なお弟子なのだよ。こればかりはあきらめなさい」と言いましたが、娘はなおも「この願いが叶わぬなら死んだほうがましです。生きていく意味がありません」とまで訴え続けました。

母親はやむなく、このことを阿難に告げましたが、阿難もまた解決する手立てもなく悩んでしまいました。こうなると、もうお釈迦さまの指示を仰ぐほかに道はありません。お釈迦さまは慈愛に満ちた表情で摩登伽の訴えを聞き、「そなたの気持はよくわかった。しかし、阿難と結ばれるためには、阿難と同じ境界きょうがいに到達しなければ、夫婦となっても破綻はたんしてしまうのだよ。毎日ここに通って私の説法を聞き、修行をすることができるかな」とさとされました。

摩登伽はもちろん承諾し、尼僧にそうとなって世俗の煩悩ぼんのうを超え、一心に修行の道に励みました。そして、やがて大きな悟りに到達し、阿難とは世俗の夫婦としてではなく、法友として共に歩むことに喜びと生きがいを感じるようになったのです。お釈迦さまも阿難も、そして摩登伽自身も、すべてが丸くおさまったのでした。

なお、日本の僧侶は結婚している方が多いのですが、それはこの国独特の仏教として異質な発展を遂げたからです。「堕落した仏教」などと一概に考えてはなりません。念のためです。

涙も止まらぬ法悦

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令和2年5月27日

 

日清戦争は明治28年に終結しましたが、日本国内は不景気で失業者があふれ出る始末でした。この当時、茨城県のある村(現在の石岡市近く)に、一家五人暮らしの貧しい小作こさく農家がありました。小作だけでは暮らしも立ちません。親夫婦は東京に出て土木作業員となりました。村には長男の元三(十八歳)、長女のサヨ(十六歳)、次男の巳之助(十二歳)の三人が残り、親の仕送りを待ちつつ、元三ばかりは農家の手伝いをしながらやっとの生活をしていました。

しかし運命とは非情なもので、東京に出た両親が流行はややまいの腸チブスにかかり、相次いで亡くなってしまったのです。三人はかゆをすすってどうにかえをしのぎましたが、困窮こんきゅうを絵にかいたような暮らしでした。この頃の運動会はハカマをはいて競技をしましたが、学校に通う次男の巳之助にそんな余裕などありません。「兄ちゃん、明日はみんなハカマをはいて来るんだよ。僕にもハカマを買っておくれよ」とせがまれた元三は弟かわいさに、とうとう「そうか、買ってやるよ」と言ってしまったのでした。

元三はあてもなく夜道を歩きつつ、何とかしようとしましたが、どうにもなるものではありません。とうとう、石岡のある店からハカマ一着を盗み出してしまったのでした。翌日、彼は喜んで運動会に向かう弟を見送ったものの、警官から出頭を求められて尋問じんもんされるまま、素直に自白して監獄かんごく送りとなりました。短い刑期で済んだものの、以来彼は、村にもいられぬ誹謗ひぼうの的となったのです。妹や弟までもいじめに泣かされ、悔恨かいこんの念も逆転して「覚えていろよ!」と、凶賊きょうぞくへと転じました。ついに彼は恨みの農家三軒に放火し、再び入獄して長期の刑を受ける身となったのでした。悪事をなそうと思って生まれて来る人など、いるはずがありません。背負った〈ごう〉が人を動かすのです。運命を動かすのです。元三はその後も転落を重ね、前後六回の監獄入りをしつつ、三十六歳を迎えました。

そして、彼のこの悲運な人生を救ったのが、東京品川のある寺の住職でした。最後の刑期を終えた彼を自坊に引き取り、家族同様の生活をさせました。お茶も食事も、風呂も就寝も、そして日常の生活も、これまでの人生にない暖かい情けとうるおいを与えたのでした。ある時、住職が「死ぬ気になって生まれ変わることができるか」との問いに、彼は「できます」と答えました。そして、合掌して住職が唱える〈三帰依さんきえ〉に、静かに耳を傾けました。「南無帰依仏なむきえぶつ南無帰依法なむきえほう南無帰依僧なむきえほう」と。彼は生まれて初めての、涙も止まらぬ法悦を知りました。

以来、元三はどのような誹謗を受けようとも、「自分は生れ変わったのだ。仏さまの弟子なのだ」という信念を貫き、さる農家での奉公を続けました。そして、しだいに信頼が高まり、家庭を築き、村人の手本とさえなりました。善悪のはざまをくり返した彼の人生は、実は私たちの写しでもあります。〈業〉が動けば、私たちの人生でさえ何がおこるともかぎりません。しかし、その〈業〉によって、また立ちなおれるのも人生です。私たちはそれを背負って生きています。

続・アラヤ識のこと

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令和2年5月11日

 

昨日は「無意識の選択」が、悪い結果として現れる例をお話しました。そして、仏教ではこの無意識を「アラヤ識」と呼ぶこともお話しました。

もちろん、無意識の選択はよい結果を生むこともあります。最近は日本でも、若い娘さんが父親母親を問わず、手をつないだり腕を組んで歩いている姿をよく見かけます。大変に好ましいことで、無意識の選択がうまくいっている証明です。

また私が知っているある女性は、嫁ぎ先の義母ぎぼ、つまりしゅうとめさんととても仲がよかったので、「いつも腕を組んで歩いたものです」と語っていました。嫁ぎ先の義母は、もちろんアカの他人です。それでも、まれには「お義母かあさん大好き!」などと言うお嫁さんがいるものです。しかも、こういう場合の姑さんとお嫁さんは、その顔までも似てくるから不思議なのです。「そんなバカな」と皆様は思うでしょうが、世間にはよくある事実です。二人の顔の印象から、たぶん「親子ですか」などと問われることがあったはずです。

では、こうしたよい結果はどこから生まれるのでしょうか。

答えは決まっています。母親の息子に対する教育がよかったということです。つまり、一方的な甘やかしでもなく、一方的な教育ママでもないバランスがあったからです。やさしい愛情を受け、きびしいしつけも受け、正直で思いやりがあり、努力もおこたらぬ息子として成長したからです。だから、女性に対する見方にも偏見へんけんがありません。女性からも好かれます。アラヤ識がいいお嫁さんを選ぶのも当然なのです。

また父親と娘の関係にも、バランスがとれていたからです。父親は母親のようにいつも家にいることは少なく、また娘の教育に口出しすることも少ないと思います。でも、娘が嫌悪けんおするようなことはしません。帰って来て家族と挨拶もせず、娘と会話をすることもなく、ビールを飲んで無言で夕飯を食べ、大いびきで寝込むようなことはしなかったはずです。そして、休日には娘が喜ぶ何かをしてきたはずです。家族を支え、仕事に励み、趣味も楽しんでいた父親の背中を、娘は頼もしく見ていたのです。アラヤ識がいい夫を選ぶのも当然なのです。

こうして考えると、人生を救うものは〝教養〟だと、私はますます確信します。教養はもちろん、学歴でも知識でもありません。〝智恵〟といってもよいでしょう。つまり、教養に根ざした智恵が大切だということです。その教養がやさしさを生み、きびしさを育てるのです。そして謙虚に生きることを学び、信仰の大切さも知るのです。その教養は親から子へ、子から孫へと遺伝するのです。これがアラヤ識です。

アラヤ識のこと

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令和2年5月11日

 

以前、九星気学では男性にとって母親と妻は同じもの、また女性にとって父親と夫は同じものだとお話をしました。もちろん、普通に考えただけでは納得できません。性格も考え方も、そして生き方も似ているとは思えません。しかし人の心理には、表面を見た程度ではわからない「無意識の選択」がはたらいているのです。

母親と息子の関係を考えてみましょう。息子にとって、母親は人生で最初に出会った女性ですから、影響を受けるのは当然です。たとえば、母親には甘やかすタイプがいます。とにかく息子がわいくてしかたがありません。身のまわりのことは、母親が一切を取り仕切ることになります。学校で問題でもおこせば、それは学校が悪いと一方的に決めつけるでしょう。このような育ち方をした息子は、たいていの女性に興味を示しません。そして母親と同じ愛情を注いでくれる女性を、無意識に求めるのです。

また一方、きびしい教育ママのタイプがいます。息子を一番にするためなら、どんなことでもします。塾に通わせ、ピアノも習わせます。そして、自分の夫に対する不満を、息子への期待で転化させようとします。このような育ち方をした息子は、女性にかなりのレベルで理想を求めます。いずれも極端な例ですが、男性の女性観はこのように母親を通じて形成されるのです。そして、いよいよ妻を選ぶとなると、運命の糸は母親と共通する女性を引き寄せるから不思議です。

では、父親と娘の関係はどうでしょう。当然、娘にとって父親は人生で最初に出会った男性です。私が若い女性に「オトコ運は父親で決まるのですよ」と言うと、父親が大好きな女性は納得しますが、たいていは「イヤだー!」と嫌悪けんおします。これは父親から十分な愛情を注がれなかったという不満が、父親とは反対の男性を求めるからです。ところが、その不満は恋人を探しているつもりでいても、無意識の内に父親のにおいを求めようと転化します。父親の愛情にえた願望が、そのようにはたらくからです。そして、運命の糸は父親と共通する男性を引き寄せるから皮肉なものです。

結婚してもうまくいっていなかったり、離婚した男女のお話を聞くと、いろいろなことがわかってきます。たいていは母親と妻の関係が悪化したり、妻に母親以上の愛情を求めたり、夫の中に嫌悪する父親像を見い出したりするからです。ただ、本人たちは「どうしてなのか」と疑問に思うでしょう。「こんなはずではなかった」と戸惑とまどうことでしょう。その根底には母親と息子、父親と娘の間にこんな隠れた問題がおこっていたのです。これが無意識の選択です。仏教ではこの無意識のことを「アラヤしき」と呼んでいます。

品格について

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令和2年2月7日

 

かつて藤原正彦氏の『国家の品格』、坂東眞理子氏の『女性の品格』を始めとして、〈品格〉という言葉が流行しました。

品格とは何でありましょうか。もちろん、今日・明日から品格を身に着けようとしたところで、叶うことではありません。その人の教養・思考・経験・生活・行動など、そのすべてが融合ゆうごうして自然ににじみ出るのが品格でありましょう。

たとえば、そこに紙くずが落ちていたとして、それを気にもしないか、気にはするけれども何もしないか、すぐに拾ってくずかごに入れるか、そんなところにも現れましょう。仏教では「下座げざ精進しょうじん」といいまして、自分の立場や身分をいかに下げられるかを大事な修行としています。仏門に入る得度式とくどしきは、礼拝らいはいの連続です。仏に向かって両膝りょうひざ両肘りょうひじひたいゆかに着ける〈五体投地ごたいとうち〉をくり返します。つまり、高い品格は、自分を下げることから生じるという教えを実践するのです。下げることから心が清まり、魂が輝き、その品格が高まるのです。この逆説がわかりますでしょうか。

「実るほどこうべを垂れる稲穂いなほかな」というではありませんか。稲は実るほどにその穂を下げるものです。人もまた、その品格が高いほど謙虚にふるまうものです。逆に品格の疑わしい人ほど尊大で、増上慢ぞうじょうまんな態度をふるまうはずです。覚えはございませんか。

成長する会社の経営者は自らトイレ掃除そうじをしたり、社員と同じ立場で対話をするはずです。社員もまたそんな社長を信頼し、仕事に励み、その会社が成長していきます。戦後日本を動かした偉大な経営者の方々を見れば、それは十分に理解できましょう。女性の品格も、国家の品格も、すべては謙虚でなければ高まりません。

墓前での甘酒接待

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令和2年1月31日

 

私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)にはめずらしい風習がありましたが、そのひとつをお話しましょう。

記憶はあいまいですが、あれは冬至の頃であったのか今頃であったのか、とにかく寒い時期に墓前での甘酒接待がありました。墓前といっても今のような霊園ではなく、昔の部落墓地でした。そこで大きな鉄なべで甘酒をつくり、道行く人に声をかけては甘酒をふるまっていました。道行く人も声をかけられると、ことわってはいけない礼儀があったような気がします。当時は自動車で通行する方など、ほとんどありません。徒歩や自転車の通行人が代わる代わる立ち寄り、その甘酒をいただいては去って行きました。

私はその甘酒が楽しみで、自分から進んで手伝いをしました。しかし、その意味を知ることもなく何十年も過ぎ去り、急に思い出したのもまた奇妙です。今は甘酒がブームらしく、スーパーにもたくさん並んでいます。それを見て連鎖反応があったのでしょう。

その由来を考えますと、どなたか、寺の住職でも提案したのかも知れません。要するに先祖に代って布施をなし、功徳を積むということなのです。何しろ寒い毎日で、温かい甘酒はありがたいものでした。昔はこんなことを通じて、仏教が民間に伝えられていたのです。しかも、何の不自然さもなく農村の風習になっていました。このようなお話はたくさんあるのですが、子供のころの記憶をたどると、なるほどと思うことがあって驚きます。民俗学という学問が生じるのも納得できます。

遠い日の記憶を思い出し、何やら楽しく、うれしい一日でした。さらに年齢を重ねれば、どんな記憶としてよみがえるのでしょうか。

屈辱をバネに

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令和2年1月30日

 

一昨日の塙保己一はなわほきのいちのお話には、さらに続きがあります。

ある雪の日、彼は平河天満宮ひらかわてんまんぐう(現・東京都千代田区)へ参詣しました。ところが参詣を終えての帰りぎわ、あいにくの雪のためか下駄げた鼻緒はなおが切れてしまいました。

境内に前川まえかわという版木商はんぎしょう(今の出版業社)があり、人声を感じた保己一は「ヒモをいただけませんか」と頼みました。盲目の彼を見て、からかってやりたかったのでしょう。店の者が無言でヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しあて、鼻緒を仕立てようとしました。もちろん盲目の彼が、うまく仕立てられるはずがありません。店の者たちは手をたたいて笑いました。彼はその屈辱くつじょくに耐えきれず、素足で店を飛び出しました。

ところが後年、幕府の推挙を得て『群書類聚ぐんしょるいじゅう』がいよいよ出版されるに及び、保己一は何とその前川を版元に選びました。何も知らない前川の主人がお礼を述べると、保己一は「私が今日あるは、数年前の雪の日に受けた屈辱のおかげです。むしろ私の方こそお礼を言いたいのです」と語りました。

天才とは、なるべくして天才になるのでしょう。屈辱の恨みを超えて相手を許し、むしろその屈辱を努力のバネにしたのです。誰しも、忘れがたい屈辱はあるものです。しかし、その恨みを報いるのに恨みをもってするなら、その恨みはいつになっても消えません。今度は相手が、さらなる恨みをいだくからです。保己一は仏典の教えを、深く体得たいとくしていたのです。

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