続続・僧侶の人徳

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仏教

令和3年2月4日

 

議論はいろいろな意見を統合し、よりすぐれた、みんなが納得し得る結論を引き出すために行うべきです。人の意見にはそれぞれに一理(もしや三分の理!)があり、一方的に正しいということはほとんどありません。だから、人の意見を聞く時は、常に「なるほど」という気構えで臨むことが大切です。自分の意見はもちろん、正しいと思うから発言します。しかし、よく考えると、自分との反対意見にも必ず理があることを忘れてはなりません。

ところが、人はややもすると、議論を〈論争〉と間違えて、その論争に勝つことを目的にする傾向があるのです。これでは議論が何の意味もなさないばかりか、あと味の悪い陰険な結果を招くことになりましょう。実は、論争に勝ったところで、何の効用もありません。言い負かしたところで、ただ相手の名誉を傷つけるだけで、かえって恨みを買うことになのです。

ところが、律儀りちぎ潔癖けっぺきな方ほど、意外にこの事実に気づかぬ人が多いことを私は知っています。僧侶も例外ではありません。まじめで学識があるだけに、その理論(実は理屈!)があだになるのです。「その考えは宗祖の教えではありません」とか、「そんな教義すら知らないのですか」と相手を責め立て、どこまでも追いつめるようなクセは何とかならないものでしょうか。知才や弁舌に富みながら、人に対する認識が極端に欠落しているとしか思えません。

「女は愛嬌あいきょう、男は度胸どきょう」と言いますが、私は男にこそ愛嬌が必要だと思っています。一歩引いて人を立て、冗談口じょうだんぐちをたたくほどのひょうげたところがなくてはオトコではないのです。時には自分のあやまちを認め、みんなから笑われることも必要なのです。毒を含んだ皮肉な理屈に、福の神は見向きもしないことを知りましょう。

同じことを言っても、そこに温かさと真実が伝わらなければ人は共感してくれません。その共感を呼ぶ力こそ人徳というものです。もちろん、僧侶ばかりではありません。社会の中で生きていく、すべての人に言えることです。

山路天酬密教私塾

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