山路天酬法話ブログ
秋分の日
令和2年9月22日
今日は秋分の日で、恒例の秋彼岸会を挙行しました。
まず、午前11時半より、毎日のお護摩を修し、午後1時より秋彼岸会の法要となりました。コロナ禍の中、少しさびしい集まりのように思われましたが、それでも久しぶりにお見えになった方もおり、いっしょに読経をしました。僧侶の皆様も声明(お経や真言の節)に慣れ、すばらしい法楽を披露してくださいました(写真)。法要後はみんなでオハギをいただき、楽しいひと時を過ごしました。

また、法要の後は水子供養会となり、食事も菓子も飲み物も供えて、あの世の〝子供たち〟を励ましました。水子さんたちは大人のように人生の喜怒哀楽や感情の曲折が少ないためか、素直に供養を受けてくれます。新たな生縁を授かり、私たちの未来を担っていただけることを願っています。

さらにその後は私が先達となり、11名にて滝修行に向いました。初めての方が多かったので、まず作法の説明をしました。そして本尊のお不動さまをお迎えし、結界し、気合を入れて滝の中に身を投じました。このような荒行を続けると、迫力のある声になることはよくわかっています。瞑想のような静かな修行もよいのですが、時には荒行を実践すると声がよく響き、呪力が高まります(写真)。

また、このような荒行によって隠れた意識を共有し、強い団結力が生まれることも確かです。つまり強烈な異次元体験によって、不思議な友情や思いやりが生まれるということです。決して肉体を傷めることを目的とする〝苦行〟ではありません。心が澄んで晴れやかな気持ちになります。参加者の皆様は、また行きたいと思っていることでしょう。
食べるためか、生きるためか
令和2年9月20日
私が高校二年生の時です。そろそろ進路を決めねばならなくなった頃、父から「おまえは何をして食べて行くのだ」と問われました。将来の目標など定まらず、まだ世間を何ひとつ知らず、理屈ばかり多い年代でしたから、「食べるために生きるより、生きるために食べるんのだと思っている」と答えました。その答えが、父にはよほど青臭く感じたのでしょう。「そんなこと言っていたら、今に食べられなくなるぞ」と言い返されました。
さほどに裕福ではありませんでしたが、まずまず食べることに不自由を経験しなかった私は、食べていくという人生の基本的な意味すら理解していなかったのです。また、いくらか本を読んで、人生を考える習慣を覚えた頃でもありました。父は自分の息子が、よもやこんなことを言うとは思いもよらなかったのでしょう。以後、私にこのような問いかけをすることは二度とありませんでした。いうなれば、私と父との唯一の人生問答であったのです。
あれから五十年が過ぎ去りました。今ここで、改めて考えてみようと思います。人は食べるために生きるのでしょうか。それとも生きるために食べるのでしょうか。食べるために生きるとは、もちろん食べるために働くという意味です。それによって自分や家族を養うという意味です。コロナ禍で職を失い、職を求めている方なら、当然この答えを選ぶはずです。
一方、「人はパンのみにて生くるにあらず(聖書)」という言葉があります。これは精神的な修養の大切さを教える聖句と思われがちですが、人は神の言葉によって養われるというのが本来の意味です。たぶん、父と問答した頃、私も生半可な知識を持っていたのでしょう。しかし、一般的な意味として考えてみても、共感する方は多いはずです。ただ、食べるために働くのでは、何とも味気がありません。今の私でも、そう思うのです。
人が生きて生活し、自分や家族を養うためには食べていかねばなりません。食べるためには働かねばなりません。働いても、いつ職を失うとも限りません。まさに〈職〉こそが〈食〉なのです。だから、「衣食足りて礼節を知る」のです。人は食べるために生きねばなりませんが、食べるに足りた時こそ礼節を知ることが必要なはずです。
宗教はややもすると、精神的な教えに片寄る傾向があります。お大師さまはそのことをよくご存知でした。たから物も心も、豊かになることも悟りに達することも一つに考えられたのです。人は食べるために生きねばなりません。しかし、価値あるもののために生きることも同時に必要なのです。それが人生という旅路なのです。
わかっちゃいるけどやめられない
令和2年9月15日
人はよく「悪いことは何もしていません」とか、「他人に迷惑をかけるようなことはしていません」などと言います。もっともな言い分で、たいていは特に考えることもなくこれを聞き流しています。皆様はどうでしょうか。
もちろん、悪いことをしてはいけません。それは当然のことです。もっとも、何が善で何が悪かという奥深い問題がありますが、ここでは一般的な意味でお話をいたします。また、他人に迷惑をかけることもいけないことです。だから、私たちは悪いことをしない、迷惑をかけないという強い意志を持たねばなりません。これは人としての大切な道徳であるからです。
ところが、人というものは悪いことはしない、迷惑はかけないと思いつつ、少しずつ過ちを犯します。誰も見ていなければゴミを捨てるかも知れませんし、飼っている愛犬が他人の家に粗相をするかも知れません。それでいて困っている友人がいれば、何とか手助けをしようとし、無断駐車を見ればこれをののしります。
つまり、人は善いことをしながら悪いことをしているし、悪いことをしながら善いことをしているのです。他人に好かれたいと思いながら、嫌われることをしますし。親を傷つけまいと思いながら、心配ばかりかけています。
さらに極端な例が犯罪者です。彼らや彼女らは始めからそんな人生を望んだわけではありません。何かの拍子に小さな悪事をすると、それを隠そうとしてまた悪事を重ね、さらにそれを隠そうとして犯罪の道に入ってしまうのです。私たちは、もちろん自分が犯罪者になるなどとは思っていません。しかし、その縁が寄れば何がおこるともかぎりません。これが、仏教でいう〈業〉なのです。避けることのできない運命のようなものです。よく「あの人は業が深い」などと言いますが、私たちだって同じです。ただ、業のはたらく縁が寄らねば、まずまず平穏な人生を歩んでいるに過ぎないということなのです。
その昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という唄が流行りました。おもしろい唄でしたが、業の本質をよく表しています。そうではありませんか。お酒もたばこも、パチンコもギャンブルも、何ごとも、わかっちゃいるけどやめられないのです。それが業なのです。だから、人は悪いことをしない、迷惑をかけないという道徳的な意志と、悪いことをせずには生きられない、迷惑をかけずには生きられないという仏教的な自覚が共に必要なのです。
わかっちゃいるけどやめられない皆様、苦しく、切なく、時には愛しい業と、どう向き合いますか。それとも・・・。
お護摩の伝授②
令和2年9月13日
今日は毎日のお護摩と昼休みをはさんで、午前も午後も不動護摩の伝授をしました。
真言密教の加行(入門の行法修行)は、お不動さま(不動明王)を本尊とする「五段護摩」です。つすなわち、第一火天段・第二部主段・第三本尊段・第四諸尊段・第五世天段の五部門に分けて修します。第一火天段はお護摩で最も大切な火天さま(大日如来の智慧の火)を、第二部主段では降三世明王さまを、第三本尊段では本尊のお不動さまを、第四諸尊段ではたくさんの仏菩薩さまを、最後の第五世天段では諸天の神さまを供養して、諸願の成就を祈ります。
もちろん、この五段護摩を習得するのは大変で、お弟子さんたちも真剣でした(写真)。しかも、ハイスピードで伝授をしましたので、かなり疲れたことでしょう。よく復習をしていただきたいと思います。

お護摩は大変にありがたい行法です。なぜなら、炎の勢いがそのまま祈りに感応するからです。この自然界は地・水・火・風・空という五大によって構成されています。それぞれが私たちの心に感応しますが、もっとも強力なのが火の力だからです。心の様相がすぐに感応します。それだけに、修する行者は身を慎まねばなりません。
水害も台風の被害もありますが、日常の生活で最も注意すべきが火なのです。昔は「火の用心」ではなく、「火之要慎」と書きました。〝慎みを要する〟からです。それだけに、私たちは、身近にあっても火を粗末にしてはなりません。仏さまそのもの、神さまそのものだからです。現代人にはその心が薄れています。
私はお弟子さんたちがあさか大師に気軽に集まり、それぞれがお護摩を修して、ご自分はもとより、人々の祈願を成就してくださることを楽しみにしています。そして、その炎の力で社会を浄化してくださることを念じています。
炎天下の布施行②
令和2年9月11日
昨日から僧侶志願ということで、札幌から男性の方がお越しになりました。面会しましたところ、大変に決意が固いので、受け入れようと思っています。札幌から月に一度通って来るとの言葉に、私の方が頭が下がりました。
また、十八道加行(最初の行法修行)を二人のお弟子さんが結願(行法の成満)しました。仕事を持ちながら自宅で励み、今日の結願を迎えました。自宅に帰れば疲れてもおりましょうに、大変なご精進です。
また以前に書きました土木工事にも、三名の方がご奉仕くださいました。炎天下でなかなか進みませんが、ブロック工事も最終段階に入りました(写真)。片づけをして土を入れれば、立派な花壇になります。

いつも思うのですが、修行らしいことも大切ですが、このような布施行こそお大師さまはお喜びになるはずです。法衣を脱いでの作務(寺での作業)も大事な修行だからです。私もこの恩に報いねばなりません。とてもありがたいことです。
また、お弟子さんたちが滝修行を熱望しています。最初は私が先達を勤めることで、計画を進めています。私はお弟子さんたちを励ましますが、私もまたお弟子さんたちに励まされています。「持ちつ持たれつ」ということです。
考えることの大切さ
令和2年9月8日
私の知人では少なくとも三名、自宅にテレビを置かない方がいます。私自身もテレビはほとんど見ません。ニュースや天気予報をチェックしたり、よほど気になる番組を見ることはありますが、あとは稀にスイッチを入れる程度なのです。ただ、気に入ったDVD(映画・テレビドラマ)は何回でも、くり返し見ています。
どうしてテレビを見ないかと言いますと、考える時間を奪われるからです。もちろん、テレビを見ながらでも考える、また考えさせられる番組はあります。しかし、ほとんど思い出すことがありません。どんな本を読んできたかは記憶に残りますが、どんなテレビを見てきたかは、子供の頃の人気番組のほかは記憶に残りません。つまり、テレビ番組はおもしろく笑い、時間を忘れて過ごす手立てにはなりますが、本当に有益であるかどうかはわからないということです。多くは目的がないから、さびしいからテレビをつけているに過ぎません。家族の団らんすら、テレビに支配されています。
人間は独りになって考える時間が必要なことは以前にも書きました。そのための多くの時間が、テレビによって奪われているはずです。それは、電話についても同じことが言えましょう。振り込め詐欺などは論外としても、セールス電話などはまったく一方的な都合で時間を奪われます。スマホやパソコンになると、さらにメールが加わります。もちろん、現代人の生活はインターネットを含めて、スマホやパソコンなくしてはあり得ません。私自身もその恩恵に浴しています。また、スマホやパソコンの能力が、ビジネスの能力であることも確かです。
しかし、受け取ったメールは本当に必要な情報でしょうか。他人の悪口や愚痴を読んでいるだけでも、私たちの神経は激しく乱れ、いつの間にか感化されていきます。返信をすれば、さらにその返信が気になり、本来は備えているはずの待つことや耐えることの能力を失っていきます。問題はほとんどの現代人が、それに気づかないでいることなのです。
また、若い方々は書くという習慣が極端に減りました。ボールペンすら正しく持てません。スマホがメモ帳であり、予定表であり、記録(写真)であるからです。もちろん、こうしたスマホの機能は大いに活用すべきです。ただ、人間は指先で書くことにより脳とのフィードバックがはたらき、思考が深まり、整理されていくのです。私も仕事中や入浴中に浮かんだ〝ひらめき〟は書き残し、さらに〝発酵〟させて熟慮するようにしています。このブログはもちろん、伝道掲示、寺だより、そして著書にいたるすべては、こうした習慣から生まれました。
皆様はいかがでしょう。気まぐれに行動し、後で考えますか。それとも、よく考えて、それから行動しますか。しかし、そんなことを聞いている間にも、便利さとスピードが考える時間を奪っていきます。
月始めの総回向
令和2年9月6日
昨日と今日、月始めの総回向・光明真言土砂加持法要を挙行しました。昨日は炎天下でありましたが、ご参詣の皆様も多く、元気に読経をしました。回向殿が少し手狭に感じるほどです(写真)。今日は台風10号の影響なのか、少ない参詣でしたが昨日と同じ法要をして、両日とも「疫病退散写経」の御礼を兼ねての法話もしました。

また総回向終了後は、四度加行(真言密教入門の行法修行)に励んでいるお弟子さん9名に不動護摩の伝授をしました。先日お伝えしたご寄進護摩壇を用いての、二度目の伝授です。お弟子さんたちはとても熱心で、私も力が入りました。いずれ成満して、立派な真言宗教師となることを楽しみにしています。
なお、沖縄・九州の皆様には台風10号による災害からご加護をいただき、付近の避難所にあってもご無事に過ごされますことを念じてやみません。遠方よりご祈願をいたします。合掌
沈黙は〈金〉か〈銀〉か
令和2年9月3日
たとえば、誰かがある名言を『聖書』の言葉だと力説したとします。それに対して別の人が、「それは間違っている。シェークスピアの言葉だ」と反論したとします。さあ、皆様はこれを聞いて、何を思うでしょうか。
もし、これが二人だけの対話であったなら、もう簡単です。結果ははっきりしているのですから、よく調べて正しい答えを出せばよいでしょう。しかし、これが大勢の前、たとえば結婚披露宴でのスピーチであったなら、どうでしょうか。せっかくお祝いの席に呼ばれながら、宴席の雰囲気をこわすことになってしまいます。反論された本人も、決していい気持ちにはなれません。反論した方も、相手から好意を持たれることはありません
しかし、人はこうした過ちをおこすことが意外に多いのです。いくら正しい見識を持っていても、時と場所簡ぶ必要があるということです。人間関係のバイブルとされるD・カーネギーの『人を動かす』にも、たしか「議論に勝つ唯一の方法は、議論をしないことである」といった意味の言葉があったように思います。議論に勝ったからといって、相手の自尊心を傷つけるばかりで、あと味が悪いことは否めません。
しかし、議論をすることが必要な場合もあります。前にもお話をしましたが、日本人ほど自己主張の下手な国民はいません。微妙で繊細なすぐれた感性を持ちながら、これが裏目に出ると、もう外国人とはつき合えなくなります。曖昧にすることを美徳とするようでは、逆に嫌われてしまいます。特に政治などは雄弁であることが絶対条件で、雄弁の能力がなければ政治家にはなれません。日本の政治家は、どう思われているのでしょうか。
「雄弁は銀、沈黙は金」という格言は、ただ黙っていればよいという意味ではないのです。黙って耐えることが最良の策という場合もありますが、正すべき時に正すことは間違いではないのです。腹を立てて反論するのではなく、意見として主張すべきだということです。いずれが正しいかは、その場の空気から判断すべきことで、一概には決められません。
それに、もう一つ。いったいこの金と銀とは、どちらが上位なのでしょうか。オリンピックのメダルはもちろんのこと、一般には金を上位としますが、長い歴史の間には銀をもって上位とした時代もありました。〈砂金〉という採取法はあっても、〈砂銀〉という方法がないことでもわかりましょう。採取法が限られている以上、銀山には莫大な資金と労働力が必要となります。それだけに、入手が困難であったのです。
そうすると、この格言の本当の意味は逆転するのでしょうか。また、私は派手な金光りより、渋い銀光りの方が沈黙にはふさわしいようにも思っています。どっちがどっちなのか、わからなくなって来ますが、いずれに片寄ってもいけないとするのが仏教の戒めだとしておきましょう。
続・マンダラの料理
令和2年9月1日
昨日、日本のカレーは「インドカレー」ではないと言いました。しかし、日本のカレーにはまた別のよさがあることは、私も十分に承知しています。それというのも、あまりにも気安くインドカレーと名乗る商品が多いので、ちょっとケチをつけたくなったのです。既製のルーやレトルトを試食しても、この考えは変りません。
そこで、日本のカレーです。私は世のお母さん方は、何をおいてもおいしいカレーが作れるよう工夫すべきだと思っています。なぜなら、昭和の時代から現代にいたるまで、日本の子供さんたちが最も好きな料理はカレーだからです。調べてみてください。そして、考えてみてください。お母さんの料理、つまり〝おふくろの味〟を知ってこそ、子供さんは身も心も健康に育つのです。スーパーの揚げ物だけで躾けをしても、お母さんが思うようには育ちません。たとえパートで忙しくても、一品だけは手作りの料理を出してほしいのです。
そして、手作りの料理で最も喜ぶのがカレーなのです。既製のルーであっても、かくし味などネットで調べればいくらでも出ています。各メーカーもスパイスの研究には余念がありません。おいしい商品がたくさん出ています。得意の味を一つでも持っていれば、それだけで子供さんは手をたたいて喜びます。野菜がごろごろ入ったカレーを何杯もお代わりすれば、子供さんの躾けは必ずうまくいきます。だから、お母さん方はぜひ独自のカレーを作り出してほしいのです。
また若い男女も、カレーがあればうまくいくこと、間違いはありません。仕事を終えた頃、「今夜はカレー!」とメールをすれば、足を急かせて帰って来るからです。そして家にたどり着くや、外にまで漂うその匂いにつられて、夢見る思いで玄間のドアを開けるでしょう。
荻窪二丁目裏通り
どこかの窓から幸せそうな
カレーライスの匂いがいつか
僕の心を急かせてる(南こうせつ・「荻窪二丁目」)
このカレーはもちろん、インドカレーではありません。ありふれた日本のカレーです。でも、あたたかく、心がなごみます。そして、日本人の心をとらえて離さないカレーこそは、みんなが喜ぶ「マンダラの料理」です。
マンダラの料理
令和2年8月31日
皆様は信じないと思いますが、実は私はインドカレーの名手(!)で、かなりの研究をして来ました。もし僧侶をやめたら(もちろん、やめませんが)、インドカレーの専門店をやっていく自信さえあるのです。このことは味にうるさい友人やご信徒の皆様が太鼓判を押すところで、決して誇張ではありません。
もちろん、ここでいうインドカレーは、インスタントルーをポチャと落とす日本のカレーではありません。日本のカレーは小麦粉でとろみを出す糊のような舌ざわりで、お世辞にも「インドカレー」とはいえません(失礼!)。インドカレーは野菜やヨーグルトによってとろみを出すので、サラッとしてしかもコクがあり、夢幻ともいえる香りに特徴があるのです。
講釈をしましょう。そもそもインド人は、過酷な熱帯気候に耐えるため、体温を下げる食事が必要でした。そこでスパイスを豊富に使い、発汗させて涼しくなるカレー料理が伝統食となったのです。したがって、インドには〝カレー粉〟という食材はありません。その家のスパイスはその家の好みによって、石臼で砕きながら調合するからです。
十八世紀の昔、インドを植民地支配していたイギリスがこれを本国に持ち帰りました。そしてインド人とはまったく発想を変えて、西洋料理の手法から小麦粉でとろみを出したのです。日本には明治時代にそのイギリスから伝わりましたが、今日のような「カレーライス(あるいはライスカレー)」として普及しはじめたのは大正時代からでした。
本場の国々を除けば、日本人ほどカレーの好きな国民はいません。私も子供の頃から何とかおいしいカレーを作ろうと、とぼしい食材で工夫をしました。しかし、どのような工夫を重ねようと、本場の味を知らなければ作りようがありません。上京しておいしいカレーには出会いましたが、まだインドカレーまではたどり着きませんでした。
ところが十代の終わりにアジアの各地を訪れ、はじめて本場のカレーに出会いました。そして、私のカレーに対する概念が一変しました。カレーとはまさに香りであることを知りました。一にスパイス、二にスパイスで、辛みはどうにでもなるのです。だから、辛みがなくてもカレーの香りがすることも知りました。
やがて私は真言密教の僧侶となりましたが、ますますカレーにはこだわるようになりました。なぜなら、カレーこそはマンダラの教えそのものだからです。酸味・苦味・甘味・辛味・塩味の五味が融合するカレーは、諸仏諸尊が融合するマンダラにも等しいからです。つまり、五味が融合して香りが加わると、カレーという「マンダラの料理」になるということです。香りはすなわち、マンダラへの入壇のようなものでしょう。
もう余白がありません。私が作ったインドカレーをお見せしましょう(写真)。先日、炎天下で土木工事を手伝ってくださったお弟子さんに出したものです。カレーソースだけを盛って、具は好みでトッピングします。サラッとした舌ざわりで、サラッと汗が引きました。食欲をそそるこの香り、伝わりますか?


