山路天酬法話ブログ

コロナ禍での祈り

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あさか大師

令和3年4月18日

 

長いコロナ禍の中で、失業した方や倒産した会社が後を絶ちません。仕事をして生活していくことは、人が生きることそのものでもあります。仕事を続け、収入が維持できるよう願うのは、誰しものことでありましょう。

本日の第三日曜日は、午前11時半より金運増大を願う宝珠護摩を修しました(写真)。雨上がりのさわやかな薫風の中、新しい僧侶の方も加わり、ご信徒の方も力強く読経をしました。皆様の成就を念じてやみません。

また、午後1時からは光明真言法要でご先祖の回向を修しました。祈祷と回向は、いわば車の両輪、鳥の両翼です。どちらが欠けてもいけません。このブログをご覧になって関心をお持ちになった方は、ぜひお越しになっていただきたいと思います。葬儀や法事の読経とは異なる、力強い響きを味わえるはずです。

終活としての遺影

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仏教

令和3年4月16日

 

最近は〈終活〉が盛んです。身辺を整理したり、エイディングノートを記入したりする方が増えました。さらには死のシュミュレーションとして納棺のうかん体験(ひつぎに入る)をしてお経を聞いたり、ご自分への弔辞を読んだりできるサロンもあります。もちろんご自分の葬儀に用いる遺影の準備も勧めていて、タレント並みに修正撮影をして、若い姿で額に入れてくれます。

人生を考えることは、同時に死を考えることです。つまり、どのように生きるかは、どのような死を迎えるかということです。まさに「生をあからしめ、死を明からしめるは仏家一大事ぶっけいちだいじの因縁なり(道元どうげん禅師)」と言えましょう。したがって、一般の方々も死に関心をいだき、死に対して明るく前向きな発想を持つことは、とてもよいことだと私は思います。しかし、納棺体験や遺影の準備までする人は、まだまだまれであることは否定できません。

特に現代はスマホのスナップはたくさんあっても、いざ遺影に使える写真を用意している人はなかなかいません。いかに合成技術が進んでも、30年前の写真では遺影としていかがなものかと思うのです。終活を意識している方は、ぜひご自分で気に入った遺影を残してください。その遺影ひとつで、葬儀の雰囲気がかなり立派になることを保証します。遺影が決まれば、式場に飾ってほしいものを考えることなど楽しくなるはずです。

実は、この問題は僧侶の方々にも言えそうです。洋服を着用した家族とのスナップはあっても、威儀いぎを正して一人で撮影した遺影を準備している方はめったにいません。真言宗の僧侶(特に名誉住職)はいよいよの年齢を迎えた時、写真館に出向いて(あるいは出張を願って)、衲衣のうえ(密教の法衣)着用の遺影を残しておくべきだと私は思います。洋服姿の写真では、僧侶の葬儀にはなりません。また葬主に対しても、迷惑をかけることになりましょう。このお話、大切なことですよ。

孔雀明王経

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令和3年4月10日

 

㈱青山社より『仏母大孔雀明王経』が刊行され、私のもとにも送られてまいりました(写真)。依頼により、私が表題を揮毫きごうしたからです。かなりの緊張をして書かせていただいたことを忘れ得ません。

本経の〈明王〉とは陀羅尼だらにの〈王〉という意味で、古くは役行者えんのぎょうじゃ(神変大菩薩)がよく用いたとされています。それだけに、全篇はみな息災を始めとする現世利益に終始し、特に長寿を願う祈りに効験があるとされています。コロナ禍に対する厄災を乗り越え、人生をまっとうしたいという願いには、まさに時を得たものといえましょう。一般の皆様には『般若心経』等の写経に精進いただき、真言密教の僧侶の方には、ぜひ読誦いただきたいと願っています。

孔雀の「クォー」という鳴き声は、いかにも異次元に通じ、それだけに神秘的な響きを感じます。また陀羅尼に付した祈願文も、別冊の解説でご理解いただけましょう。密教僧の方々には、広く座右に置かれんことを願っています。一読したい方は、あさか大師のご宝前に供えておりますので、ぜひご覧ください。

総回向と桜まつり

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未分類

令和3年4月5日

 

昨日は月始めの〈総回向〉と〈桜まつり〉を挙行しました。総回向には遠くは青森からもお越しになり、篤信の方が参集しました。読経の響きが堂内に満ちて、この世とあの世の一体感につつまれました。ありがたい法悦です。

また〈桜まつり〉では、私の友人が八丈島の郷土芸能「八丈太鼓」を披露し、隣接の〈花水木の里〉からも大勢の方が加わりました。今年の桜は例年より早く、いささか残念でしたが、花見の余韻を味わいました。

イングランドポニーの「はなちゃん」にも人気が集まり、子供さんたちがいっしょに記念撮影をしました。このような楽しい催しは、お寺にはとてもよいようです。来年はどのようにするか、今から考えていきましょう。

住職の葬儀

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仕事

令和3年4月1日

 

なかなかブログが書けません。私は現在、真言宗の住職が遷化せんげ(他界)した折の、葬儀次第を執筆しているからです。

皆様の家で葬儀をする場合、今はほとんどセレモニーホールや斎場を選ぶでしょう。しかも、一人の僧侶によって執行されましょう。ところが、各本山から出版されている葬儀次第は、何人もの伴僧ばんそう(読経する僧侶)がいなければ修せません。そこで私はかつて、『独行葬儀次第』という一人の僧侶でも修せるよう工夫した著書を刊行しました。この著書は多くの真言宗僧侶の方に使用していただいており、私は光栄に思っています。

同じように、住職が遷化した場合の葬儀はどうなのでしょう。実は、こちらも明確な葬儀次第がないのです。また、僧侶は師僧(住職)に対する報恩供養も必要です。いずれにも対応できるよう、もっか悪戦苦闘しています。四月半ばの脱稿を目ざしていますので、いましばらくの猶予ゆうよをください。

本日満開、今宵満月

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未分類

令和3年3月29日

 

あさか大師の桜は、本日が満開です。近在の方々がたくさんお越しになりました。

菅原道真みちざね公は梅の花に対して「東風こち吹かば」の名歌を残しましたが、桜に対しても、「桜花さくらばな あるじを忘れぬものならば きこん風に 言伝ことつてはせよ」と詠んでいます。昨日は雨と風で散りましたが、私がいなくなった後も、この桜がことを伝えてほしいものです(写真)。

また、本日は満月(写真)。独り占めの境内のまん中で、少しばかりビールを飲みました。これから執筆を続けます。

紅桜

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挿花

令和3年3月24日

 

あさか大師の桜はいま、二分咲きほどでしょうか。もう少しでまた、今年の様子をご披露いたします。

そんな中で、今日は朝一番に近所から紅桜が届きました。一瞬、桃の花かと思ったほどでした。すぐさま玄関わきの大壺に挿しました。境内も堂内も桜一色です。コロナで日本中の人々が疲れ切っていますが、しばらくは元気をいただきましょう。執筆がありますので、まずはこのへんで。

正御影供と春彼岸会

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あさか大師

令和3年3月21日

 

お大師さまは承和2年3月21日寅の刻(午前4時頃)にご入定されました。したがって真言宗の寺院は本日、お大師さまのお姿(御影みえ)を供養する〈正御しょうみ影供えく〉を修します。あさか大師では第三日曜日でもありますので、金運宝珠護摩を兼ね、お大師さまへの報恩謝徳ほうおんしゃとくを献じました。朝から雨と強風が吹き荒れましたが、多くのご信徒の皆様が参詣されました。

お大師さまのご宝前には、御影に描かれている水瓶(水をいれる仏具)・木履ぼくり(木製のクツ)・琥珀こはく念珠を飾り、また仙菓仙薬せんかせんやく(ご入定の前に召し上がっていたもの)を供えました。先の三点は私が自書『弘法大師御影の秘密』で考証し、発願ほつがんして作成したものです。まさに本邦唯一の備品で、あさか大師の寺宝ともいっても過言ではありません(写真)。

お大師さまのお護摩は〈如意宝珠護摩〉にて修します。これはお大師さまが如意宝珠を真言密教の象徴として論じ、生涯の信仰を寄せておられたからです。大きな福徳が授かるるよう、午前11時半より私も丹誠を込めて修しました(写真)。

午後1時よりは春彼岸会を修しました。すばらしい声明や読経につつまれ、多くの精霊にご回向をいたしました(写真)。また本日は一年間にわたって光明真言をお唱えした〈お土砂〉を授与する日です。白いお砂が如意宝珠となる〈土砂加持〉の秘法が修されています。ご参詣の皆様には、大切にお持ち帰りいただきました(写真)。

施餓鬼法の伝授

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仏教

令和3年3月16日

 

一昨日、私は数名の僧侶(弟子)の方に〈施餓鬼法せがきほう〉を伝授しました。そして、皆様とても熱心に受法していただきました。私は僧侶にとって、施餓鬼はきわめて大切であると思っています。だから、施餓鬼に関心をよせ、私に伝授を求めていただいたことは、大変にうれしいことでした。

では、僧侶にとってなぜ施餓鬼が大切であると思っているのか、その理由をお話いたしましょう。

そもそも人間というものは、他人のことはまずまず見えていても、自分のことはなかなか見えません。自分が正しいと思えば、相手は間違っていると思うものです。また大きな組織の中にでもいれば、自分までが特別な人間だと思いがちです。その傾向は、組織が大きければ大きいほど強くなりましょう。さらに職業によっても、ことさらこの傾向は強まります。政治家・裁判官・弁護士・医師、そして僧侶などは、世間から特別な目で見られるはずです。つまり、あがめられるということです。こういった職業の人は、特に自戒をせねばなりません。

僧侶はもちろん法務(回向や祈祷)を勤めて、お布施を受けます。そうすると、お布施を受けるのが当たりまえ、このくらいを受け取るのは当りまえに思うものです。世の僧侶の中にはお布施の額が足らないと言って催促さいそくをしたり、腹を立てたり、短い読経でさっさと立ち去る方がいるのです。このような僧侶は間違いなく〝餓鬼道〟にちます。少なくとも私は、そう確信しています。僧侶といえども餓鬼道に堕ちることを、いや、僧侶なればこそ餓鬼道に堕ちることを知らねばなりません。

新義真言宗の開祖・興教大師こうぎょうだいし覚鑁かくばん上人)は有名な『密厳院発露懺悔文みつごんいんほつろさんげもん』の中で、「形を沙門しゃもん(僧侶)にして信施(お布施)を受く」と述べています。つまり、修行とは形ばかりで、お布施ばかりを受け取っているという意味です。鎌倉時代からです。今も昔も、僧侶は受け取るばかりで、自らはほとんど布施をしません。

もう、おわかりでしょう。僧侶は施餓鬼ばかりは必ず修することです。私は略作法ではありますが、毎日これを自らに課しています。また、多くの方に食事をほどこすことも心がけています。「師僧が弟子のために食事を作るのですか」と奇妙に思う方もいますが、私には何の違和感もありません。むしろ布施ができることを、ありがたいとさえ思っています。このブログを読んでいただいた僧侶の方は、ぜひ施餓鬼を修していただきたいと思います。

執筆中

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思考

令和3年3月13日

 

私は今、ある次第書を執筆中で、大変に苦慮しています。出版社には三月中に原稿を渡す約束ですので、あまり時間もありません。加えて三月はお弟子さんへの伝授も多く、多忙の日が続いています。そのため、なかなかブログまで手が回りません。楽しみにしてくださっている皆様には、申し訳なく思っています。悪しからずご了承ください。

そもそも文章を書くという作業は、なかなかに困難です。私を評して「泉のように湧くのですね」とか、「スラスラ書けるのですね」などとおっしゃる方がいますが、そんなことは絶対にあり得ません。もちろん、意外に進むこともありますが、何も書けず、まったく進まないこともあります。そこで本堂の中ををグルグルと回ってみたり、気晴らしにビデオを見たり、時にはお酒を飲んだりして来ました。これは〝作家〟と呼ばれる方々でも同じだと思います。

十九世紀に活躍したアメリカの作家ヘンリー・ミラーは、「今、あなたが思っていることがあるでしょう。その思っていることから書き出しなさい」と言いました。私は「なるほど」とは思いましたが、だからといって、そうヤスヤスとは行きません。「思っていることは何だろう」と、また思ってしまうのが人の常だからです。皆様はどう〝思い〟ますか。

では、時間も惜しいので、まずは失礼いたします。

山路天酬密教私塾

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