私の大切な宝もの

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真言密教

令和2年8月30日

 

今日は、私の大切な宝物をご披露ひろうしましょう。

とはいっても、豪邸や高級車ではなく、宝石や金塊でもありません。そのようなモノにはまるで縁がありませんし、何しろスーツひとつ所有しておりませんので、身を飾ることもありません。まるで隠遁者いんとんしゃそのものの生活なので、お大師さまに祈ることだけが私の財産です。それでも、この世に生きた痕跡こんせきとして、大切にしているモノがあることも事実です。

その一つが若い頃に使った護摩杓ごましゃく(お護摩の作法で油をそそぐ法具)で、三十代の折に明け暮れた八千枚護摩はっせんまいごま残骸ざんがいです(写真)。八千枚護摩とは真言密教の難行なんぎょうで、お不動さまの供養法を修して真言を十万遍お唱えし、その後に断食して八千本の護摩木を焼き尽くすという秘法です。一座に真言五千遍を唱えるだけでも五時間はかかります。護摩を加えて片づけをすると七時間近くかかりますから、一日三座では睡眠の時間もありません。私はこれを一回に七日間、一年に七回~十回を修して、五十回を成満しました。しかも、最初の三回までは七日間をすべて断食しましたから、真夏などは意識がもうろうとして護摩木を投ずることさえ困難でした。不思議な体験もしましたが、それ以上にお護摩に対する信念がつちかわれたことが最大の功徳となりました。

写真の撮り方が悪いのではありません。このとおり杓のが曲がっているのです。これはお護摩の高熱によって反ってしまったからです。私は先に二組の柄を燃やしてしまい、これが三組目で、かろうじて残りました。実はこの柄はかしの木で出来ています。想像はつくと思いますが、樫の木がこのように反るということは、並みの高熱ではあり得ません。いかに無謀むぼうな荒行に投じていたかが、わかりますでしょうか。おそらく真言密教の長い歴史の中でも、こんな痕跡こんせきを残した方はがさほどにいるとは思えません。この二本の杓こそは、私にとっては何よりの宝です。

それゆえ、私がこの世の人生を終えてひつぎに入る折には、この杓も一緒に入れていただこうと私案しています。そして、いざ火葬されるその時こそ、若い時のあの情熱をよみがえらせて、「六大無礙ろくだいむげ炬火こかを燃やして本来不生ほんらいふしょうたいを焼く」と観念をらし、もう一度この杓のお世話になろうと考えています。火葬の炎がお不動さまに変ずるよう、これからも大切に保管して磨きをかけておきましょう。

あれから、三十年近くがたちました。今の私は無謀な荒行より、お大師さまに楽しく接することに生きがいを感じています。何枚も皮がむけて、もともとの自分に帰ったような、そんな気持ちでいるのです。もちろん、人生に無駄なことなどありません。過ごした時間は、過ごしただけの価値があると、そう思っています。人はそのために生きているのです。たとえ、叶わぬことがあったとしてもです。皆様も同じですよ、きっと。

山路天酬密教私塾

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