山路天酬法話ブログ
赤ちゃんは「オギャー」と泣くのか
令和4年1月20日
お大師さまの作とされる宗門の歌に、「阿字の子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ち帰る 阿字のふるさと」があります。〈阿字〉とは梵字の〈ア〉を示し、仏さまのふるさと、すなわち仏さまの浄土を示します。私たちは仏さまの浄土から生まれて生涯をおくり、臨終と共にまたその浄土に帰って往くという意味です。真言宗の位牌には、戒名の上に必ず〈ア〉という梵字が書かれるのはこのためなのです。
そこで、この阿字のふるさとについて、おもしろいお話をいたしましょう。それは、赤ちゃんの泣き声について、私が考えたことなのです。皆様は赤ちゃんは「オギャー」と泣くと思っているはずです。しかし私はこのことに、大きな疑問をいだいてきました。なぜなら、赤ちゃんは口を大きく開いて泣くからです。口を開いて「オギャー」の〈オ〉と発声できるでしょうか。ぜひ、試してみてください。大きく口を開いての発声なら、必ず〈ア〉音になるはずです。
つまり、赤ちゃんは「オギャー」ではなく、「アギャー」と泣いているはずなのです。ただ、赤ちゃんは大人のようには、まだ発声がはっきりしません。だから、「オギャー」と聞こえるかも知れませんが、実は「アギャー」と泣いているのです。私はこの考えに、かなりの自信があります。
もっとも、私は今どきの若い夫婦のように、出産の現場に立ち会った経験がありません。また、このことを多くのご婦人に質問もしましたが、大体は「そんなことを出産の最中に聞いている余裕などありませんよ(笑)」という返事でした。でも、私のこの考えは正しいと信じています。
もう、おわかりでしょうか。赤ちゃんが「アギャー」と泣くのは、仏さまの浄土からこの世に生れて来たぞと宣言する声なのです。赤ちゃんはただ泣くことによってしか、自分の意志を伝達する手段を知りません。しかし、出産直後のあの大きな声は、まさに宣言以外の何ものでもありません。あの泣き声こそが、阿字のふるさとから立ち出でた生命の燃焼なのです。
ついでですが、皆様は「ハハハ」と〈ア〉音で笑っていますか。阿字の子なら、阿字のふるさとから生れて来たなら、〈ア〉音で笑ってください。「ヒヒヒ」「フフフ」「ヘヘヘ」「ホホホ」はいけません。怪しげな笑いを続けていると、阿字のふるさとに帰れませんよ。
金運宝珠護摩
令和4年1月17日
本日は第三日曜日で、午前11時半より厄除・災難除に加え、金運宝珠護摩を修しました。新型コロナの感染者がまた増える中、マスク着用のうえ、体温測定や除菌に努めながらお集まりいただきました(写真)。
今年は五黄(!)の年ですので、このような事態は特に予測されます。お大師さまの前に『仁王護国般若経』と『仏母大孔雀明王経』を供え、地球規模での国難に祈りを込めました。終息を願ってやみません。
笑門来福
令和4年1月13日
今年もたくさんの年賀状をありがとうございました。私は年末は多忙なので、「立春大吉」にちなんだ〝春賀状〟なるものを考案し、もう20年近くも続けています。一年の始まりが立春にあることは、暦の上では常識です。だから、春賀状はきわめて理にかない、しかも年末の多忙さまで補助してもらえるのです。
おはずかしながら、実はこの春賀状が好評で、毎年これを心待ちしてくださる方が多いのです。中には、額に入れて拝んでくださる方もいると聞きました。気のせいか、これをマネる僧侶の方も増えて来たように思います。もうしばらくです。来月の2月4日を楽しみにお待ちください。
年賀状の決まり文句は「あけまして云々」のほか、「賀正」や「謹賀新年」がありますが、さすがにありきたり過ぎる気はします。中には「笑門来福」という、うれしい四文字も目につきます。そこで今日は、笑いについてのお話です。
そもそも、人は笑うから福が来るということです。福が来たから笑うのではないのです。その証拠に、よく笑う人は幸せに(もちろん、一般的な意味ですが)暮らしています。その笑いがまた次の福を呼び、また笑うからその次の福を呼ぶのです。だから、笑いの絶えない門(家)には福がやって来る、「笑う門には福来る」なのです。おわかりでしょう。
私はいろいろな方からご相談を受けた時、その方が笑うか否かを重視しています。なぜなら、笑う人に対しては「この人は大丈夫だ」と思えるからです。もちろん、ご祈願もご回向も勧めますが、笑いのオーラ(!)が困難を乗り越えることを知っているからです。
お会いして逆に困るのは、笑わない人です。何とかして明るい笑いのオーラを呼び寄せたいのですが、なかなかうまくいきません。そこで「無理をしてでも、笑うふりをしてごらん」とか、「鏡を見ながら、暗示をかけてでも笑ってごらん」などとお話します。また、いっしょに食事をしながら冗談をいいますと、少しずつ変わって来ます。お顔立ちも変わって来ます。
「百薬の長」は、お酒より笑うことです。お酒は飲み過ぎれば害になり、出費もかかりますが、笑いはいくら笑い過ぎて健康を害することはなく、しかも無料です。ストレスを除き、血流を改善し、免疫力を高め、美容効果ももたらします。まさに「笑門来福」です。
月始めの総回向
令和4年1月9日
昨日と本日は、新春大護摩の合い間に、月始めの総回向を修しました。新型コロナ感染者がまたまた急増したためか、初詣を済ませている方が多いせいか、さびしい集りでしたが、僧侶の方もご信徒の方も元気に読経をしました(写真)。

また、初詣には長年お会いしていたかった方が何人かお見えになり、とてもうれしくなりました。何の連絡もしていなかった方が、私を忘れずにいてくださったことに、感動すら覚えました。
まいた種は、スグに芽が出るわけではありません。一つの縁が永くつながり、その縁が熟さねば結果という芽は出ません。遠い過去に私がまいた種が芽を出し、花を咲かせてくれたのでしょう。さらに実を結ぶまで育つかどうかは、今後の努力しだいです。自分を戒め、肝に銘じることにいたします。
続・新春大護摩
令和4年1月5日
初詣の新春大護摩も5日目となり、会社の方がご祈願に見えています。また、毎年の地元・中学校野球部の方々が、練習始めに当たって必勝祈願にお参りしました(写真)。皆さん礼儀正しく、お大師さまの前で一人ずつ合掌して行きました。

今年は寅年なので、「トラの勢いで練習しましょう」とお話したこととは言うまでもありません。阪神タイガースにも、ぜひ優勝してほしいと思います。
また、聖徳太子の時代、寅年・寅の日・寅の刻に毘沙門天(福徳と必勝の神さま)が、奈良の信貴山に出現しました。寅年は毘沙門天とご縁が深いとされるのはこのためです。しかも、今年は元旦が寅の日でした。また立春の2月も寅の月です。皆様もぜひ、毘沙門天の福徳と必勝のご加護をいただいてください。
新春大護摩
令和4年1月3日
あさか大師初詣の新春大護摩も三日間が過ぎ、大勢の方にお参りいただきました。開山4年目の初詣は、天候にも恵まれ、僧侶の方も元気に読経しました。新春大護摩にあたっては、お参りの方と全員でお大師さまのご宝号「南無大師遍照金剛」をお唱えしています。新しい遍路大師像にも、合掌する方が増えているようです。


写真上は新春大護摩の熱祷、下は受付の様子です。
令和4年初日の出
令和4年1月1日
謹賀新年・恭敬三宝。
令和4年元旦にあたり、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。あさか大師の境内より礼拝した初日の出を配信して、これより新春護摩のご祈祷に入ります。今年もよろしくお願い申し上げます。

令和4年元旦 午前6時50分
年末のカレンダー
令和3年12月27日
年末になると、いろいろな業者の方がカレンダーを持って挨拶に見えます。私はこの習慣は何とかならないものかと、長年にわたって悩んでいます。なぜなら、私はほとんど寺を出ることがありません。したがって予定表を持ちません。予定はすべて、市販のエコカレンダーに記入すれば済むからです。壁にはっておけば、予定表のようにページをめくらずとも一目瞭然。それを見つめれば、仕事の思案にもこと欠きません。したがって、私が愛用するのは写真も絵も柄もないシンプルそのもののカレンダーです。業者のカレンダーを用いることは絶対にありません。
ところが、せっかく挨拶に見えて、持参したカレンダーを渡されれば、「いりません」とは言えないわけです。これを受け取るたびに、自分の顔がどんな表情になっているかを想像するに、この気持ちがわかりますでしょうか。それに、いただいたそのカレンダーの処分がまた大変なのです。特に金具付のそれを分別するには、かなりの手間を要します。これを「人生における非情なまでのムダ」と言わずして何といたしましょうか。
いったい業者の方々は、渡したカレンダーをお客様が使っていると、本当に思っているのでしょうか。昔の日めくりカレンダーにこだわり、それを待っている方もいるでしょう。名山や名庭の写真、美術館の名宝を好む方もいるでしょう。しかし、いただいたすべてのカレンダーを飾ることは、まずありません。スペースを要する特大カレンダーは、今どきの住宅には合いません。いずれにしても、「現代における多大なムダ」であると私は考えています。
ついでながら、皆様は一週間の始まりは日曜日なのか月曜日なのか、どちらだとお思いでしょうか。実は現代のカレンダーや予定表は、「日曜始まり」と「月曜始まり」が混乱しています。日本では長く日曜日を週の始まりとして来ました。日曜はキリストが復活した日なので、これを週の始めとする考え方を明治時代に採用したからです。労働基準法でも、一週間は日曜日に始まり土曜日までと解釈しています。
しかし、現代のカレンダーや予定表は、いわゆる月曜始まりが増えています。これはISО(工業規格を国際的に基準化する機構)の勧告によるものだそうで、日曜始まりに慣れた目には、いささかなじめません。私もうっかり月曜始まりのカレンダーを購入して、苦笑した経験があります。年末多忙の中で、カレンダーに振り回されるのもいかがなものでしょうか。〈断捨離〉の先生は、どう思っているのでしょうか。
男のおしっこ
令和3年12月25日
男も洋便器でおしっこをする場合は、坐って用を足すべきだというのが私の持論です。特に60歳を過ぎたらなおさらです。なぜなら、立ったまま洋便器でおしっこをすると、たいていの方が床こぼすからです。しかも、自分でこれをふき取る人はほとんどいません。家庭では主婦にとって、これがどれほどの負担になっているかがわかるでしょうか。
したがって、洋便器には床のトイレマットは不要です。マットに尿酸がたまるとカビが生え、悪臭を放つからです。マットがなければ、スグに拭きとれますし、便利な消臭除菌の商品も出回っています。もちろん、専用のスリッパは必要ですので、マメに取り換えるようにしましょう。
私もこのことを知ってから、トイレマットを取り去り、坐っておしっこをするようになりました。また、自室の隣りにトイレがありますが、弟子の僧侶が使うとどうしても粗相をします。おしっこの仕方までは伝授していないので(笑)、やむなく私の専用とすることを決意しました。
そもそも男のおしっこは、人類の誕生以来、立ちしょん(失礼!)であったはずです。今は小便器の前に立てば、センサーで水が流れ、離れるとまた水が流れます。あれは水洗という機能のほかに、男の生理的な反応にもかなっているのです。つまり、男は水の流れる「シャー」という音につられて、気持ちよく放尿するするからです。その証拠に、以前のように「使用後は水を流してください」の時代にも、男は使用前から水を流していたはずです。
ところが、今の洋便器ではそうはいきません。そのことを照合しても、男のおしっこは洋便器には合わないということです。コンビニなどでは、店員さんの掃除が大変だと思います。世の男たる者は、洋便器ではぜひ坐っておしっこをしてください。また、公共のトイレで粗相を見つけたら、少しでも掃除をしてください。
トイレは不浄な場所とされるだけに、掃除をすることで大きな功徳になります。なぜなら、トイレの神さまに好かれるからです。実は、トイレ掃除で開運した方がたくさんいるのです。私も何人かの社長さんに、「10分早く出社して、ぜひトイレ掃除をしてください」とお話しました。必ず業績があがります。本当ですよ。
男はなぜ、毎日酒を飲むのか
令和3年12月20日
タイトルは忘れましたが、かなり以前、ある韓国の歴史ドラマを見ました。その中で、新羅のさる城主と臣下の者が、毎日酒を飲む姿をを見て、城主の妻が「世の男という男は、なぜこうも毎日酒を飲むのか」と語るシーンがありました。私はこの言葉が忘れられず、思い出しては彼女の心底を探ろうとして来ました。
たしかに、男という生き物は特に一日の終わりに、酒を飲まねば何か〝ふん切り〟がつかないという感情の生理があるのようです。とにかく、男の人生といえば、酒をぬきにしては考えられません。上は宮中の天皇から長屋の庶民にいたるまで、男が求める者は、まず酒なのです。文学・書画・詩歌・音楽・芸能もまた酒をぬきにして語れません。唐の詩人・李白は泥酔して池に映った月を取ろうとして溺れ、その生涯を閉じました。「李白は一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る(飲中八仙歌)」と歌われるくらいです。そのほか、日本画壇の巨匠・横山大観は毎日二升三合を飲んでいたとされるほどの酒豪です。池波正太郎の人気ドラマ『鬼平犯科帳』でも、主人公の長谷川平蔵が酒を飲まぬ日はありませんし、作者本人もまた、こよなく酒を愛しました。
酒は「百薬の長」などと称しますが、いかがでありましょう。ほどほどに飲めば健康によいかも知れませんが、本当にほどほどに飲めるのでしょうか。一方では「気ちがい水」とも称し、諸悪の根源もまた酒なのです。酒によって人生を狂わした例は、枚挙にいとまがありません。
酒を讃えた文例をあげるなら、まずは貝原益軒(江戸時代の本草学者)の『養生訓』に出て来る「酒は天の美禄なり。少しのめば陽気を助け、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁いを去り、興を発して、はなはだ人に益あり」でありましょう。ただし「少しのめば」、なのです。ここで踏みとどまれるかどうかは、まさに男の人生がかかっているということです。
かといって、まったく飲まないというのも(体質的な理由はともかく)、いささか魅力に欠けるかも知れません。もちろん、例外はありますが、何ごとも〝ほどほど〟が大切なように思います。吉田兼好は『徒然草』で「下戸ならぬこそ、男はよけれ」という名言を残しています。
冒頭の城主の妻は毎日、男たちの酒宴を見ながら、この生理的矛盾に悩んだはずです。男と女は協力することはできても、理解し合うことはできないのかも知れません。

