山路天酬法話ブログ
声出し健康法
令和4年10月9日
昨日、初めての方がお参りにお越しになり、健康法についての話題になりました。そして、「和尚さんの健康法は何ですか?」と問われましたので、私はこのような場合(面倒なので一様に)、「お経です」と答えることにしています。つまり、読経で声を出すことが健康法だという意味です。
もちろん、私が心がけている健康法はいくつかありますが、読経がその代表であることは間違いありません。それも祈祷寺院らしく声を高々と張り上げ、太鼓と共に響かせます。同じ年代でも、私ぐらい大きな声の出る方は少ないと思います。若い方と比べても、決して劣るとは思いません。そもそも声の大きい人が元気であることは、確かなようです。
ところで、その方がとてもよいお話を聞かせてくださいました。それは自分の知っているある高齢の女性が肺炎になり、手術もできない状態だったそうです。その女性は余命長くはないと覚悟を決めたのか、せっかくだから人生の最後を楽しく過ごそうと決心して、カラオケに通い出したそうです。ところが、毎日毎日カラオケで好きな曲を歌ったところ、何とその肺炎が消えてしまったというのでした。
これは充分にあり得ることで、まずお腹から声を出すことによって、深い腹式呼吸ができます。それが血流を改善し、体温を上げ、細胞が若返り、免疫力を高め、しかもストレスを発散させます。それが肺臓を平癒させたのです。アンチエイジングの専門医がカラオケを勧めるのも当然でしょう。
実は、健康法について、私はかなり勉強しました。たくさんの本も読み、講演会や講習会にも参加しました。ただ、10人の医師や管理栄養士がいれば、10人の意見があり、まったく反対のことを言う実情を知らねばなりません。肉をたくさん食べなさいと言う方がいれば、野菜を中心にしなさいとも言います。牛乳を飲みなさいと言う方がいれば、あれは子牛の飲みものだからやめなさいとも言います。朝食は絶対に抜いてはいけませんと言う方もいれば、無理に食べる必要はないとも言います。糖質やグルテンフリーに対しても、いろいろな意見があります。こうした意見の違いに対しては、自分の体で確かめる以外に方法はありません。試してみて調子がよければ、それは自分の体に合っているということになるからです。だから、人には人それぞれの健康法があるということなのでしょう。
ところが、歩くことや大きな声を出すことに反対する方はいません。ジョギングは心臓に負担をかける方もいるでしょうが、ウォーキングを悪く言う方はいないはずです。また、大きな声を出すことも同じです。カラオケでもコーラスでも、詩吟でも謡でも、そして読経でも、皆様が興味のある〈声出し健康法〉をぜひ続けてみてください。効果てきめんですよ。
開運の秘訣
令和4年10月5日
私は今年11月末に、『九星気学立命法』という著書を(株)青山社より刊行します。
〈立命〉という用語は、初めて聞くという方が多いかも知れません。宿命や運命に対し、人生を改善するために〝命を立てる〟ことが立命で、陽明学では造命ともいいます。つまり、宿命や運命という人生のシガラミの中で、新しい人生を切り開くための方法といえるのです。立命は江戸時代まではよく知られていましたが、明治以降はしだいに忘れ去られました。しかし近年、安岡正篤先生の著書や講義によって少しずつ復活しています。
ところで、皆様は宿命と運命の違いがわかりますでしょうか。簡単にお話をしますと、宿命とは「宿した命」で、絶対に変えられない人生の定めです。つまり、人間として生まれてきたこと、男女いずれかの性に属したこと、決まった父母や子がいること、そのほか呼吸や食事をしなければ生きてはいけないこと、睡眠をとらねばならないこと、やがては死を迎えねばならないことなどがこの範疇です。
これに対して運命とは「運ぶ命」「運ぶ人生」です。〈運〉が大きく関わります。家庭や結婚がうまくいってるかどうか、仕事は成功しているかどうか、性格はどうであるか、金運や財運はどうであるか、といった宿命よりは少し変えられそうな範疇をいいます。
占いでは名前や方位で運命を変える方法があります。私もよく用いますが、ただ大切なことは、これによって自分が変わらなければ運命も変わらないということです。主体はあくまで、自分であるということを忘れてはなりません。またプラス思考で運命は変わるともいいますが、挫折を味わったり失敗を繰り返した人は、なかなか簡単にはいきません。
では、立命とは何かといいますと、徳を積むことによって人生を変えることです。運がいい人は、必ず徳があることを知りましょう。徳とは人に好かれることです。運がいい人は必ず人に好かれます。その人に対してプラスの想い(好意)を寄せる量が多ければ多いほど、人はその想いを受けて運がよくなります。つまり、プラスの想いが気となり、エネルギーとなり、オーラとなり、運を切り開くのです。
それはこの世の人ばかりではなく、あの世の人、つまりご先祖に対しても同じです。だから、先祖供養をすると開運するのです。そのほか、ペットからも植物からも好かれれば、さらにいうことはありません。植物にも心があることは、鉢植えのそばで悪口をいうと、花の数が減ることでもわかりましょう。とにかく、何にでも好かれるためには、好かれるような徳を積むことです。
これは反対のことを考えれば誰にでもわかります。嫌われる想いのエネルギーにつつまれた人は、開運など望めるはずがありません。運がいい人とは、人そのものがすばらしいからなのです。徳を積むことは開運のための最高の方法です。私はいろいろな占いもプラス思考も学びましたが、結局は徳に行き着くことを確信しています。好かれることは、何より大切な才能であり、開運の秘訣なのです。
そうじの功徳
令和4年10月2日
あさか大師では昨日と今日、月初めの総回向を挙行し(写真上)、その後に大そうじをしました(写真下)。年末は忙しくなりますので、「早いうちに」というのが、その狙いです。昨日は天井と柱の拭きそうじを、今日は壁そうじを、弟子僧が中心になって実行しました。本堂は毎日のお護摩で黒づんだ、一年分のスス汚れを落としたことになります。


ところで、私はものごとに悩んだ時やうまくいかない時は、そうじをするよう勧めています。それは心の苦しみはその心で解決するのではなく、かえって体で解決した方がよいと思っているからです。体を動かしてそうじをしたり、ウォーキングやスポーツをすると、気持ちもリフレッシュして、意外な解決策を見い出します。
それに、ものごとはまず、悪いものや汚いものを取り除き、その後にいいものを取り入れるという絶対ルールがあることを忘れてはなりません。健康食品やサプリメントをいくら取り入れても、腸の中が汚れていては効果は得られないはずです。「出し入れ」や「出入口」という言葉は、先に出すことの重要性を示しています。わかりますよね。
また、みんなで協力してそうじをすると、不思議なほど団結力が増し、交流も深まります。普段はおつき合いのうすい近所どうしでも、〈町内清掃〉をすると、このことが理解できましょう。「断・捨・離」も「片づけの魔法」も流行語になりましたが、これが「そうじの功徳」なのです。
よい家庭もよい職場も、まずはそうじからです。極意とは、きわめてありふれた、平凡な行為にあることも知りましょう。今日のブログは最初、「そうじの効用」としましたが、「そうじの功徳」と改めた意味をどうかわかってください。そうじには仏さまのような功徳があるのです。
最も大切な徳
令和4年9月27日
昨夜は就寝で横になりながら、久しぶりに司馬遼太郎著『関ケ原(上)』の一部を拾い読みしました。そっとお話をしますが、私は寝床で本を読む癖がいっこうに改まらず、いつも枕元に読みたい本、読まねばならない本を積み上げています。寝返りを打つと本が落ち、その音で目が覚めることたびたびで、まったく自慢にもなりません。
私がこの上巻で読みたい箇所は決まっています。石田三成の軍師・島左近が、主人である三成の性格をいさめる場面です。ご存知のように石田三成は大変に聡明でしたが、正義感において融通が利かず、そのため反感をかって多くの敵を作りました。特に徳川家康を「老奸」と呼んでこれを嫌い、やがて〈関ケ原合戦〉にまで進展するのです。そこで、左近が説き伏せようとします。
「古来、英雄とは、智・弁・勇の三徳そなわったるものをいうと申しますが、殿はその意味では当代太閤をのぞけば、家康とならぶ英傑です」
しかし、と左近はいいます。
「智・弁・勇だけでは世を動かせませぬな。時には世間がそっぽをむいてしまう。そっぽをむくだけでなく、激しく攻撃してくるかもしれませぬな。真に大事をなすには、もう一徳が必要です」
「つまり?」と、三成。
「幼児にさえ好き慕われる、という徳でござるな」
私はこの一説を、どれほど読んだかわかりません。能力とは奇妙なものです。知能にたければ人は一目をおきましょう。弁が立てば説得にたけましょう。勇敢なれば人望が集まりましょう。三徳とも人の能力として多いに賞賛されるものです。しかし、なおそれだけでは、と左近はいうのです。
『論語』の中で、私が最も好きな一説にも似たようなことが書かれています。孔子が弟子に対して、「お前たちはいったいどんな人間になりたいのだ」と問いました。弟子たちはそれぞれ理屈っぽい答えを返すのですが、「では、先生はどうなのですか」という問いに、孔子は「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれる、そんな人間になれたら本望だな」と答えました。
二つとも、人間として最も大切な徳とは何かを考える、いいお話です。何よりも自然で無理がありません。私までも気持ちがやすらぎ、間もなく深い眠りに誘われたのでした。
結縁の不動明王
令和4年9月25日
あさか大師の本堂に、大きな不動明王(お不動さま)の尊像が運ばれました。高さ1・5メートルの木彫り立ち姿で、すでに長年の祈りが込められた尊像です(写真)。

この不動明王は今年7月24日に他界した、私の友人が護持していたものです。私はかつて、毎月28日をこの尊像の例祭日と決め、友人の自宅(大田区南馬込)まで出仕してお導師を勤めていた時期があります。それだけに、私にとってはご縁の深い尊像ということになります。
この友人は若い頃に曹洞宗にて得度をして雲水(禅宗の修行僧)も経験したほどで、毎日の読経も欠かしませんでした。また八丈太鼓(八丈島の郷土芸能)のすぐれた指導者であり、その四十九日法要については、このブログの9月10日に書いておきました(「四十九日の回し打ち」)。
友人からは、他界する3ヶ月前に電話がありました。そして自分の葬儀導師と、この尊像をあさか大師に安置してほしいという二つの依頼を受けました。この時、友人は主治医より余命二カ月という宣告を受けていましたが、私はさっそく霊符で延命祈願に入りました。二カ月を経た頃、私の方から電話をしましたら、「まだ元気です」と言いましたので、私も喜んだものでした。そして、その一か月後に友人は他界しました。私にとっては思い出の多い、かけがいのない友人の一人でした。
お寺に仏像を安置することは、単に買い求めればよいというわけにはいきません。それなりの由来やご縁が必要です。私は友人より依頼を受けた時、迷うことなく快諾したのは、すでに私の読経や祈りが込められた〈結縁の不動明王〉であったからです。今後はあさか大師でも、明王の威力が躍動すること念じています。また、新しい歴史が始まりました。
秋彼岸とおはぎ
令和4年9月23日
本日は秋彼岸の中日で、あさか大師でも午後1時から秋彼岸会法要を修しました。回向殿にはたくさんのお塔婆が立てられ、光明真言によって多くの精霊に供養を捧げました(写真上)。
法要は僧侶によって声明や『理趣経』が唱えられ、続いてご信徒の方々と共に勤行をしました。実は、秋の彼岸は私の母の命日でもあります。毎年、私は母が好きだったおはぎを供え、お集りの皆様に布施をすることを、もう何十年も続けて来ました(写真下)。母が喜んでいるように、自分でも感じます。

蛇足ながら、春の彼岸には牡丹が咲くので「ぼたもち」といい、秋の彼岸は萩が咲くので「おはぎ」といい、どちらも同じものです。ところが、地方によってはこれを「半殺し」と呼ぶのには驚きました。もち米を餅になるまでつくのではなく、半分までつぶすので半殺し(!)と呼ぶそうです。
このお話は落語で聞きました。遠来のお客さんを客間に通した後、「せっかくのお客だから、半殺しにしよう」などど夫婦で口にしてはなりません(笑)。そのお客さんはあわてて逃げ出すことでしょう。それに、お彼岸に半殺しとはおだやかではありません。彼岸はご先祖に供養を捧げる日です。供養を捧げて、その後にお召し上がりを。
天上の花
令和4年9月21日
あさか大師桜並木の傾斜に彼岸花が咲きました。昨年はまだまだ乏しい数でしたが、今年はかなり増えています。台風で全滅するかと心配しましたが、ほんの一部を除いて何とか立ち姿を維持してくれました(写真)。

別名を「曼珠沙華」といいますが、これは『法華経』法師功徳本に記載される「天上の花」という意味の仏教用語です。おめでたいことがある時、天から赤い花が降臨して来るとされ、本来は大変に縁起のよい花なのです。
ところが、日本ではよくお墓に植えられたため、かつては「死人花」や「幽霊花」などと呼ばれて嫌われました。私の郷里ではごく近年まで土葬(火葬をしない柩のままの埋葬法)の習慣が残り、土盛りした上によくこの花の球根を植えました。これはもちろん、土盛りが崩れないためと、モグラや野ネズミに荒らされないためです。同じ理由から田んぼの畔などにも植えられました。今でも、子供の頃の記憶から、この花を「気味が悪い」と思う方がいるかも知れません。
しかし、近年は妖艶なこの彼岸花を好む方が増え、「元気が出る」「とても癒される」といいます。そして、各地の群生地には人が集まり、カメラマンの姿が絶えません。特に本県日高市の〈巾着田〉は全国的な名所となりました。ネットで調べてみてください。願わくはあさか大師も、その群生地になってほしいと念じています。
実は、彼岸花の球根にはアルカロイドの毒性がありますが、昔はすりおろして水にさらし、さらに煮沸して粉末になし、これを飢饉の折の救荒食にしました。また、すりおろしたままを「石蒜」といい、シップすると腹膜炎・浮腫・むくみなどに薬効があり、民間療法として永く活用されました。
私の思い出の中では、奈良県明日香村の景観が忘れられません。橘寺の境内も石舞台の土手も古代ロマンが真っ赤に染まり、仏教伝来の詩情に酔いしれました。このブログを書きながらも脳裏には、秋の明日香村への想いを馳せてやみません。さながら、「天上の花」です。
金運宝珠護摩
令和4年9月18日
本日は第三日曜日で、午前11時半より金運宝珠護摩を奉修しましたが、あいにくの台風で、皆様のお足が遠のきました。残念でしたが、お集りの方々と、力強いお護摩に浴しました(写真)。郵便、FAX、メールでもたくさんの護摩木(お護摩で祈願するお札)が寄せられましたが、それぞれのご自宅でご祈願していただいたものと拝察しています。

真言密教の僧侶がお大師さまにご祈願をする場合、高野山では弥勒菩薩の行法を修します。お大師さまは奥の院にご入定されつつも、常には〝あの世〟の弥勒浄土にいらっしゃると考えられているからです。つまり、弥勒浄土にいらっしゃりながら、そのご宝号をお唱えすれば、すぐ〝この世〟にも出現されるという意味なのです。
では高野山以外の寺院ではどうするかというと、如意宝珠の行法を修します。お大師さまは真言密教の象徴である如意宝珠そのものであるからです。実は、私は毎日、この如意宝珠のお護摩を修してお大師さまにご祈願を続けています。そして、第三日曜日を特に金運宝珠護摩の日と定めたのは、如意宝珠のいろいろな功徳の中で、特に金運を高めたいためでした。
現代の生活において、お金はとても大切なものであることは申すまでもありません。金運を高めることは、生活そのもの、人生そのものを守ることなのです。多くの方がこの金運宝珠護摩に参拝していただくことを念じてやみません。どなたでも参加できますので、このブログを読んだ方は、ぜひお越しいただきたいと思っています。
ちなみに、あさか大師の護摩木は一本が200円で、子供さんや学生さんでも申し込めます。お会い出来ます日を楽しみにしていますよ。
努力は報われないのか
令和4年9月16日
8月14日のブログ(「ひらめき」がおこる時)で私は、「努力は必ず報われます。報われないのは努力が足らないというほかに何の理由もありません」と書きました。しかし、皆様の中には、「努力をしても報われないのではないのか」とか、「結局は才能と運の差ではないのか」と思っていらっしゃる方もいるはずです。今日はこのことについて、私の考えをお話いたしましょう。
実は私は「努力」という言葉が、特に好きだというわけではありません。奴隷の〈奴〉に〈力〉が加わって、何とも悲痛な感じがします。歯を食いしばってガンバルのではなく、むしろ「楽しい努力」こそ心得るべきだとさえ思っています。「これがうまくいったら、自分に何の褒美をあげようか」などと考えながら、楽しい努力をしたいと望んでいるからです。
そもそも、努力に対して、人には間違った偏見があると私は考えています。その一つは、努力をしていると思っているのに、実は大した努力をしているわけではない場合です。別の言い方をすれば、努力することと〝苦労〟することを勘違いしている、あるいは努力をしていると思い込んでいるという意味です。
たとえば、多くの人がダイエットを望んでいながら、またダイエットに関する本や方法があふれていながら、太った人がいっこうに減らないのは、この落し穴があるからです。どんなに糖質制限や脂肪制限をしても、甘いドリンクやスイーツを口にしていては本末転倒です。これでは苦労ばかり記憶に残りながら、いっこうに成果はあがりません。
もう一つは、努力の方法が間違っているのに、自分は一生懸命に努力をしていると思い込んでいる場合です。代表的な例として、受験勉強があります。皆様もご存知と思いますが、受験生の中には授業を聞いているだけで高得点が取れるという人もいれば、徹夜でガリ勉をしながら、いっこうに成績が上がらないという人もいます。この違いが何なのか、わかりますでしょうか。
私が思うには、一流大学に合格できる理由は、記憶のコツがわかっているからなのです。日本の受験制度は、ほとんどが記憶力で決まります。学習したことがどんな形式で問題に出るのか、その出題パターンをのみ込む要領がいいのです。つまり、何を覚えたらいいのかの目標を明確にして戦略を立て、それを短時間で実行しているからなのです。もともと受験向きの脳を持っている、ということなのでしょう。
努力をしても、ガムシャラに努力することがすなわち成果ではありません。また、自分を苦しめたり、いじめぬくことがすなわち成果でもありません。このような努力を、ある種の快感として酔い知れてもなりません。努力が報われるためには。〝努力以前〟が問題なのです。この努力以前がわかれば、努力は必ず報われます。そうではありませんか、皆様。
道徳的センスと宗教的センス
令和4年9月14日
私たちは子供の頃から、家庭でも学校でも、「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて来ました。そして、自分でも人に迷惑をかけてはいけない、迷惑をかけることは悪いことだと思って生きて来ました。これは大切なことで、社会ルールとして身につけねばなりません。特に子供たちには道徳教育として、しっかりと植えつけねばなりません。大人もまたこのことを自覚し、社会人として守らねばなりません。交差点の近くに車を駐車したり、電車の中で携帯電話の会話をしてはなりません。当然のことです。
もちろん、「私は誰にも迷惑なんてかけません」「いつも正しいことをしています」と言い張る人もいます。自分は迷惑をかけることなど何もしていないと言いたいのでしょう。これは日常の会話としては、何ら不自然さはありませんし、よく耳にすることです。
しかし、よくよく考えてみてください。私たちは本当に迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか。皆様はどのように思われますでしょうか。
実は私たちは、人に迷惑をかけずには絶対に生きられないのです。まず、子供の頃にダダをこねたり、言いつけに背いて親に迷惑をかけています。衣類を汚したり、部屋を散らかしては迷惑をかけています。これは、大人になっても同じです。忘れ物をしませんか。約束の時間を守っていますか。イライラしてまわりの人を困らせていませんか。ささいな一言で相手を傷つけていませんか。
私などは、迷惑をかけずに一日として生きていくことはできません。食べるのが早いので急かされると言われては、迷惑をかけています。忘れ物はいつものことで、迷惑をかけています。蔵書を事務所に積み上げては迷惑をかけています。パソコンやスマホが苦手で、迷惑をかけています。
そして、最も重要なことは、自分では気づかないうちに、たくさんの迷惑をかけているという事実なのです。この事実は誰でも共通のことでありながら、その認識にはかなりの隔たりがあります。つまり、そのことを認識しているかどうかは、人としての大きな分かれ道になるのです。
私たちは迷惑をかけてはいけないという道徳的センスと、迷惑をかけずには生きられないという宗教的センスが共に必要です。道徳はしっかりと守らねばなりません。しかし、守れない自分がいるという矛盾にも気づかねばなりません。そして、すべての宗教はここから始まることも知らねばなりません。皆様は宗教的センスをお持ちでしょうか?

