令和2年5月25日
私は二十代で真言密教の僧侶となり、三十代の10年間は八千枚護摩という難行に明け暮れました。これはお釈迦さまが、この世とあの世を八千回往復して悟りを開いたという説に基づくものです。一週間菜食して不動明王のご真言を十万遍唱え、さらに一昼夜断食して八千本の護摩木を焼き尽くしました。現在はこの八千枚護摩も各地で修されていますが、当時はこんな難行に挑む行者は少なかったように思います。
私はこれを50回も成満しましたが、始めの頃はすべて断食して修したため、意識がもうろうとする中で不思議な現象も体験しました。修法中には「加持物」と言って、白ゴマを炎に投ずる作法があります。その時、限りない無数の光輪につつまれるのです。その色がたとえようもない輝きを放ち、まるで夢のような心地であったことは忘れられません。私たちは普段は感ぜずとも、多くの異次元世界の中で生きていることを実感したものでした。
このような体験を重ねると、感覚が冴えわたることは間違いありません。特に嗅覚が発達するのです。当時の寺は三階建てで、一階が事務所やロビー、二階が本堂、三階が庫裡(居住所)でした。成満してすぐに境内を巡拝するのですが、その時は三階でどんな食事を作っているかさえ感じ取れるほどでした。「いま、味噌汁のダシをとっているな」ということがわかるのです。また自分が知らない土地で車に乗っていても、はるか手前で「この先にラーメン屋さんがありますね」などと言うと、そのとおりラーメン屋さんがありました。独特のにおいをいち早くキャッチしていたからです。歯が悪い人や胃が悪い人の、わずかなにおいもスグにキャッチしたものでした。
もっとも、私は今でも毎日お香を焚きますので、一般の方より嗅覚が発達するのは当りまえです。しかも伽羅や沈香といった高価なお香を焚きますから、なおさらのことです。皆様も毎日このような香りに接していれば、嗅覚の発達はもちろん、顔までがどことなく仏相を帯びてくるはずです。これは本当のことです。
どうしてこんなお話をしたのかと申しますと、香りこそは仏さまに近づく最も身近な手段であるからです。真言密教の僧侶が行法をするにも、最初に修するのはお焼香です。また、皆様が亡くなった方を回向するにも、お線香を供えます。つまり、香りこそはこの世とあの世の媒介なのです。
品格の優劣も香りです。「紳士の香りが漂う」とか「うさんくさい」などと言うでしょう。本物と偽物の違いもまた香りです。「本物の香りを放つ」とか「怪しいにおい」などと言うでしょう。あらゆる理屈を超えて、本質は香りに現れることを知らねばなりません。香りについてのお話はさらに続けましょう。