令和2年3月29日
昨日、西宮・神呪寺が桜紋であることをご紹介しました。そこで、この寺を開山した如意さまという尼僧についてお話をしたいと思います。
彼女は平安時代の始め、天の橋立にある籠神社(真井神社)の宮司・海部氏のもとに生れ、厳子と名づけられました。籠神社は元伊勢(伊勢神宮のふるさと)とまで呼ばれる由緒ある神社です。また海部氏は今なお直系がつづく日本最古の家系図(国宝)を保有しています。
十歳にして京都・六角堂に入り、如意輪観音を礼拝して真言を唱える日々を送っていました。まだ年端も行きませんでしたが、天性の気品に満ちた美しい女性であったと思われます。そして二十歳のおり、当時の皇太子であった淳和天皇に見初められ、第四妃として宮中に迎えられました。宮中では「真井御前」と呼ばれ、帝の寵愛を一身に集めました。しかし、後宮たちの激しい嫉妬に無常を感じ、二十六歳で二人の侍女と共に宮中を退出したのでした。それは西宮に甲山という仙境があり、寺院を建立するにふさわしい峰であるとの夢告があったからともされています。
天長五年十一月、妃はお大師さまを甲山に招き、如意輪観音の修法を依頼しました。また翌年五月には、役の行者を慕って女人禁制の大峰山にも登っています。いったい、どんな手立てを講じたかはわかりませんが、男まさりの一面もあったのでしょう。また、大峰山の人たちも驚いたに違いありません。
天長七年七月、妃はお大師さまによって傳法灌頂への入壇(阿闍梨になる儀式)が許されました。さらに、桜のご神木をもって如意輪観音像の奉彫も依頼しました。お大師さまは妃や侍女たちが真言を唱える中、妃の身長と尊容に合わせて完成させました。これが神呪寺の本尊・如意輪観音です。
天長八年十月、お大師さまを導師に神呪寺の落慶法要を挙行し、自身の法名を如意としました。また二人の侍女も尼僧となり、その法名は如円・如一と記録されています。昼夜を問わず念誦をくり返していたそうで、これが寺号・神呪寺の由来でありましょう。
承和二年三月二十日、すなわち、お大師さまがが入定されるまさに一日前、如意尼ははるかに高野山を礼拝しつつ、如意輪観音の真言を唱えながら静かに息を引き取りました。時に三十三歳でした。
如意尼こそはお大師さまの人生においてご母堂以外、深い絆で結ばれた唯一の女性です。私はかねてより籠神社と神呪寺に参りたいと念願していますが、未だに果していません。特に神呪寺で等身大のその尊容にお目にかかれることを、今から楽しみにしています。
そして最後に申し上げますが、今日のブログに特に心引かれた方は、お大師さまとも如意尼とも、籠神社とも神呪寺とも、また私とも特にご縁の深い方であると思います。そう、思いますよ。