一生では足りない

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人生

令和元年7月8日

 

詩人・北原白秋は晩年に「白秋詩抄」を出版するにあたって、こんなこと書いています。

「ひそかにじる故は、わが詩業しぎょう通貫つうかんするひとつの脊梁せきりょうが、わずかにこれだけの高さのものかということである」

偉大な詩人にしてこんなことを語るものかと、若い頃には思いましたが、今ではその気持ちがわかるような気がします。人の一生は尊いものでありますが、その理想が高くれば高いほど、その一生に慙愧ざんきの念を覚えるに違いありません。立派な仕事をなし、また立派な業績を残しながら、私たちの力の及ぶところは、こんなところなのでありましょう。私などにはとてもこのような心境には至りませんが、さて、いよいよの時には同じような気持ちをいだくのかも知れません。

しかし、物ごとの完成はかぎりなく遠く、一生の内に成し得ることではないような気がします。能楽の大成者・世阿弥ぜあみは、真の芸術を完成させるには、親と子と孫との三代はかかるといった意味のことを述べています。そして、「芸術は長く、人生は短し」とも申します。「一生では足りない」というほどの気持ちは、私ほどの者でも少しは思うことがあるのです。

お恥ずかしいかぎりではありますが、私もまた生まれ変われるものなら、再び僧侶となってやり残した仕事を成し遂げたいと思っています。先日、六十七歳となりましたが、残る人生をあと二十年と設定しています。それ以上を生きたとしても、大したことはできません。これは私の正直な本音です。

すみません、何やら遺言のようなブログになりました。明日はもっと楽しいお話を書きますから、ね。

山路天酬密教私塾

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