月初めの総回向
令和4年9月5日
一昨日と昨日、あさか大師では月初めの総回向法要を挙行しました。先ず午前中は弟子僧の勉強会で阿字観(梵字の阿字を観じる瞑想)を伝授し、続いて毎日のお護摩、昼休みの後に総回向法要となりました(写真)。
また法要後は、9月23日(秋分の日)の秋彼岸会法要についてお話をしました。日本は春彼岸に木蓮、お盆に蓮、秋彼岸に曼珠沙華(彼岸花)が咲きます。それぞれに仏さまの花が咲く、仏さまの国なのです。彼岸やお盆にはご先祖や祖父母・両親の供養につとめましょう。
阿字観の伝授でもお話をしましたが、私たちが生まれて学校を卒業し、社会に出て独り立ちをするまで、親はいったいどのくらいの費用がかかったのかの統計があります。家の事情にもよりましょうが、何とその費用は2000万円~3000万円とされています。生活費のすべて、学費、娯楽費、諸経費、小遣いなどを総計すると、このくらいになるというのです。いったい親は、どのようにしてこの費用を工面していたのでしょう。つまり、これほどの費用と苦労をかけながら、私たちは親に育ててもらった(もちろん、育てていただいたというべきですが)ということなのです。
実は、親からこれほどの世話になりながら、私たちが世話をしたものはほとんどありません。逆に迷惑をかけたものばかりが残ります。そして、親孝行をの一つもしたいと思った時は、すでに親はこの世にはいません。せめてお盆やお彼岸の時は、供養の気持を捧げていただきたいと思います。皆様、いかが?
揮毫の苦心
令和4年9月1日
私は高校生の頃から、よく学園祭や運動会、また選挙事務所などの大字揮毫を依頼されたものでした。
十八歳で上京してからは茶室や画室の板額、店舗の看板、書籍のタイトルなどが多かったように思います。もちろん自分の著作は、必ず自ら表題を揮毫することも心がけて来ました。あさか大師ホームページのトップ画面にスライドされる「遍照殿」は、いまから五年前に揮毫したものです。
また今年11月には「あさか大師長野別院」が落慶するので、昨日、その院号を弟子僧に渡しました(写真)。若い頃は「どうだ!」と言わんばかりに、迫力や面白さを強調しましたが、今はごく自然に、日常のありのままを筆に託しています。
私は真言宗僧侶として、いずれ自分の大師流書道、つまりお大師さまの書風を世に問うてみたいと考えています。昔の僧侶は師僧の身のまわりのお世話をしながら、時間を作っては書の稽古に励みました。しかし、現在は宗門の大学にも本山の学院にも、宗祖の書を習う授業すらありません。塔婆も位牌もパソコンで仕上げる時代なればこそ、私は僧侶は書の稽古をすべきだと確信しているからです。
たくさんの揮毫を発表し、それぞれに苦心をともないましたが、決して満足することはありませんでした。楷書で書けば活字を並べたようになりますし、奇をてらえばイヤ味ばかりが鼻につきます(失礼ながら、近年のNHK大河ドラマのタイトルがその代表です)。お大師さまのようにはいきませんが、一歩でも近づきたいと、私はいつも念じています。あの世でお大師さまにお会いしたら、何とお話をしましょうか。