揮毫の苦心

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書道

令和4年9月1日

 

私は高校生の頃から、よく学園祭や運動会、また選挙事務所などの大字揮毫きごうを依頼されたものでした。

十八歳で上京してからは茶室や画室の板額、店舗の看板、書籍のタイトルなどが多かったように思います。もちろん自分の著作は、必ず自ら表題を揮毫することも心がけて来ました。あさか大師ホームページのトップ画面にスライドされる「遍照殿へんじょうでん」は、いまから五年前に揮毫したものです。

また今年11月には「あさか大師長野別院」が落慶するので、昨日、その院号を弟子僧に渡しました(写真)。若い頃は「どうだ!」と言わんばかりに、迫力や面白さを強調しましたが、今はごく自然に、日常のありのままを筆に託しています。

私は真言宗僧侶として、いずれ自分の大師流書道、つまりお大師さまの書風を世に問うてみたいと考えています。昔の僧侶は師僧の身のまわりのお世話をしながら、時間を作っては書の稽古けいこに励みました。しかし、現在は宗門の大学にも本山の学院にも、宗祖の書を習う授業すらありません。塔婆も位牌もパソコンで仕上げる時代なればこそ、私は僧侶は書の稽古をすべきだと確信しているからです。

たくさんの揮毫を発表し、それぞれに苦心をともないましたが、決して満足することはありませんでした。楷書で書けば活字を並べたようになりますし、奇をてらえばイヤ味ばかりが鼻につきます(失礼ながら、近年のNHK大河ドラマのタイトルがその代表です)。お大師さまのようにはいきませんが、一歩でも近づきたいと、私はいつも念じています。あの世でお大師さまにお会いしたら、何とお話をしましょうか。

山路天酬密教私塾

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