年末のカレンダー
令和3年12月27日
年末になると、いろいろな業者の方がカレンダーを持って挨拶に見えます。私はこの習慣は何とかならないものかと、長年にわたって悩んでいます。なぜなら、私はほとんど寺を出ることがありません。したがって予定表を持ちません。予定はすべて、市販のエコカレンダーに記入すれば済むからです。壁にはっておけば、予定表のようにページをめくらずとも一目瞭然。それを見つめれば、仕事の思案にもこと欠きません。したがって、私が愛用するのは写真も絵も柄もないシンプルそのもののカレンダーです。業者のカレンダーを用いることは絶対にありません。
ところが、せっかく挨拶に見えて、持参したカレンダーを渡されれば、「いりません」とは言えないわけです。これを受け取るたびに、自分の顔がどんな表情になっているかを想像するに、この気持ちがわかりますでしょうか。それに、いただいたそのカレンダーの処分がまた大変なのです。特に金具付のそれを分別するには、かなりの手間を要します。これを「人生における非情なまでのムダ」と言わずして何といたしましょうか。
いったい業者の方々は、渡したカレンダーをお客様が使っていると、本当に思っているのでしょうか。昔の日めくりカレンダーにこだわり、それを待っている方もいるでしょう。名山や名庭の写真、美術館の名宝を好む方もいるでしょう。しかし、いただいたすべてのカレンダーを飾ることは、まずありません。スペースを要する特大カレンダーは、今どきの住宅には合いません。いずれにしても、「現代における多大なムダ」であると私は考えています。
ついでながら、皆様は一週間の始まりは日曜日なのか月曜日なのか、どちらだとお思いでしょうか。実は現代のカレンダーや予定表は、「日曜始まり」と「月曜始まり」が混乱しています。日本では長く日曜日を週の始まりとして来ました。日曜はキリストが復活した日なので、これを週の始めとする考え方を明治時代に採用したからです。労働基準法でも、一週間は日曜日に始まり土曜日までと解釈しています。
しかし、現代のカレンダーや予定表は、いわゆる月曜始まりが増えています。これはISО(工業規格を国際的に基準化する機構)の勧告によるものだそうで、日曜始まりに慣れた目には、いささかなじめません。私もうっかり月曜始まりのカレンダーを購入して、苦笑した経験があります。年末多忙の中で、カレンダーに振り回されるのもいかがなものでしょうか。〈断捨離〉の先生は、どう思っているのでしょうか。
男のおしっこ
令和3年12月25日
男も洋便器でおしっこをする場合は、坐って用を足すべきだというのが私の持論です。特に60歳を過ぎたらなおさらです。なぜなら、立ったまま洋便器でおしっこをすると、たいていの方が床こぼすからです。しかも、自分でこれをふき取る人はほとんどいません。家庭では主婦にとって、これがどれほどの負担になっているかがわかるでしょうか。
したがって、洋便器には床のトイレマットは不要です。マットに尿酸がたまるとカビが生え、悪臭を放つからです。マットがなければ、スグに拭きとれますし、便利な消臭除菌の商品も出回っています。もちろん、専用のスリッパは必要ですので、マメに取り換えるようにしましょう。
私もこのことを知ってから、トイレマットを取り去り、坐っておしっこをするようになりました。また、自室の隣りにトイレがありますが、弟子の僧侶が使うとどうしても粗相をします。おしっこの仕方までは伝授していないので(笑)、やむなく私の専用とすることを決意しました。
そもそも男のおしっこは、人類の誕生以来、立ちしょん(失礼!)であったはずです。今は小便器の前に立てば、センサーで水が流れ、離れるとまた水が流れます。あれは水洗という機能のほかに、男の生理的な反応にもかなっているのです。つまり、男は水の流れる「シャー」という音につられて、気持ちよく放尿するするからです。その証拠に、以前のように「使用後は水を流してください」の時代にも、男は使用前から水を流していたはずです。
ところが、今の洋便器ではそうはいきません。そのことを照合しても、男のおしっこは洋便器には合わないということです。コンビニなどでは、店員さんの掃除が大変だと思います。世の男たる者は、洋便器ではぜひ坐っておしっこをしてください。また、公共のトイレで粗相を見つけたら、少しでも掃除をしてください。
トイレは不浄な場所とされるだけに、掃除をすることで大きな功徳になります。なぜなら、トイレの神さまに好かれるからです。実は、トイレ掃除で開運した方がたくさんいるのです。私も何人かの社長さんに、「10分早く出社して、ぜひトイレ掃除をしてください」とお話しました。必ず業績があがります。本当ですよ。
男はなぜ、毎日酒を飲むのか
令和3年12月20日
タイトルは忘れましたが、かなり以前、ある韓国の歴史ドラマを見ました。その中で、新羅のさる城主と臣下の者が、毎日酒を飲む姿をを見て、城主の妻が「世の男という男は、なぜこうも毎日酒を飲むのか」と語るシーンがありました。私はこの言葉が忘れられず、思い出しては彼女の心底を探ろうとして来ました。
たしかに、男という生き物は特に一日の終わりに、酒を飲まねば何か〝ふん切り〟がつかないという感情の生理があるのようです。とにかく、男の人生といえば、酒をぬきにしては考えられません。上は宮中の天皇から長屋の庶民にいたるまで、男が求める者は、まず酒なのです。文学・書画・詩歌・音楽・芸能もまた酒をぬきにして語れません。唐の詩人・李白は泥酔して池に映った月を取ろうとして溺れ、その生涯を閉じました。「李白は一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る(飲中八仙歌)」と歌われるくらいです。そのほか、日本画壇の巨匠・横山大観は毎日二升三合を飲んでいたとされるほどの酒豪です。池波正太郎の人気ドラマ『鬼平犯科帳』でも、主人公の長谷川平蔵が酒を飲まぬ日はありませんし、作者本人もまた、こよなく酒を愛しました。
酒は「百薬の長」などと称しますが、いかがでありましょう。ほどほどに飲めば健康によいかも知れませんが、本当にほどほどに飲めるのでしょうか。一方では「気ちがい水」とも称し、諸悪の根源もまた酒なのです。酒によって人生を狂わした例は、枚挙にいとまがありません。
酒を讃えた文例をあげるなら、まずは貝原益軒(江戸時代の本草学者)の『養生訓』に出て来る「酒は天の美禄なり。少しのめば陽気を助け、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁いを去り、興を発して、はなはだ人に益あり」でありましょう。ただし「少しのめば」、なのです。ここで踏みとどまれるかどうかは、まさに男の人生がかかっているということです。
かといって、まったく飲まないというのも(体質的な理由はともかく)、いささか魅力に欠けるかも知れません。もちろん、例外はありますが、何ごとも〝ほどほど〟が大切なように思います。吉田兼好は『徒然草』で「下戸ならぬこそ、男はよけれ」という名言を残しています。
冒頭の城主の妻は毎日、男たちの酒宴を見ながら、この生理的矛盾に悩んだはずです。男と女は協力することはできても、理解し合うことはできないのかも知れません。
遍路大師像開眼法要
令和3年12月19日
いよいよ年内も、残すところ10日ほどとなりました。本日は午前11時半より、今年最後の金運宝珠護摩を修し、長いコロナ禍の終結と来年への福徳を祈りました(写真)。皆様の祈りが結集し、新たな希望となることを念じてやみません。
また、その後は三周年記念事業としての遍路大師像開眼法要を挙行しました。皆様の信心と浄財が実を結び、今日を迎えられたことを感謝いたします。大勢の方が集い、僧侶の方の声明やお子様の献花をいただき、遍路大師像の霊気が境内にみなぎったように思います(写真)。
気のせいかも知れませんが、この遍路大師像が完成して以来、参詣者の方が増えてきたように思います。それだけお大師さまの力が遍満し、それが人を呼ぶのだと思います。ささやかな事業ではありますが、この仏縁がさらに弘まることを期しております。
世間の人、なべてこのことあり
令和3年12月13日
前回のブログで、一つのことを貫き通すことの大切さ、そして深くて、しかも巾広くありたいというお話をしました。巾広くということは、枝葉を広げるということであるが、始めから枝葉を増やしてはならないというお話もしました。つまり、このバランスこそ大切だという意味なのです。
しかし、実は人はなかなかこのバランスが保てません。気が向けば、あちらにもこちらにも手を出し、結局は何一つモノにならないということが多いのです。たとえば、私が愛読する吉田兼好の『徒然草』(鎌倉時代の代表的随筆)第百八十八段に、大変おもしろいお話が出ています。
ある人が、自分の子を法師(僧侶)にして学問を修めさせ、説教師として生きて行けるようにと夢を託しました。ところが、この親は何と、その子に馬乗り(馬術)から習わせたというのです。なぜなら、法事のお導師として招かれた折、馬で迎えに来られた場合に落馬するようではみっともないと考えたからです。この時代は現代のような乗用車がありませんので、馬での送迎が当たり前であったのでしょう。
次に法事の後のお斎(食事)の折、酒など出されて、何の芸もないのでは施主が興ざめるに違いないと考え、今度は〈早歌〉という歌の芸を習いました。現代でいうなら、まずはカラオケといったところでしょう。とにかく、この二つを熱心に習ったところ、かなり上達して夢中になったようです。そして、ますます励んでいる内に肝心の学問や説教師の方は何も身につかず、とうとう年をとってしまったというのです。
決して、笑い話ではありません。兼好は文中にて、「世間の人、なべてこのことあり」と述べています。若い時には希望もあり、大きなことを成し遂げたい、出世したい、勉強もしたい、芸も身につけたいと思いながら、まだまだ先があると思ってのんびりと過ごし、むなしく年を重ねるものです。そして、気がついた時には坂道を下る車輪のような速さで衰え、もはや取り返しがつきません。
ずいぶん頭の痛いお話ですね。私にも身に覚えがあります。まさに、そのとおりなのです。まずは最も大切な目標に専念し、しっかりと一本の幹が育ったら、次に枝葉を育てましょう。あれもこれもと右往左往をしてはなりません。前回と今回のお話、どちらに軍配を上げますか、皆様。
深くて、しかも巾広く
令和3年12月9日
物ごとを成し遂げるには、とにかく一生懸命になることが大切です。そのためには、まず、一つのことを貫き通すことです。つまり、これだったら人には負けないぞという特技を身につけることです。
ところが、一生懸命になるのはけっこうなのですが、それだけでは足りません。なぜなら、ある段階になると、必ず専門外の知識や経験が必要になるからです。つまり、一本の樹木の幹には枝があるように、枝葉を学ぶことも大切なのです。具体的にいいますと、趣味や娯楽といった、専門外への関心が必要だということです。ただ、始めから枝葉ばかりを増やしてはなりません。これは大切なことです。このバランスこそ、人生の極意だからです。
真言密教の教師を阿闍梨といいますが、経典には「阿闍梨の十三徳」が説かれ、そのすべてが必要だとされています。「①菩提心を発し、②明慧と慈悲があり、③衆芸を綜べ」と十三項目が続くのですが、私が特に気になるのは③の「衆芸を綜べ」なのです。
また、孔子は「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ(『論語』述而篇)」と述べています。ここでも「芸に遊ぶ」という表現が気になります。「綜芸を綜べ」とか「芸に遊ぶ」とはいったい何なのでしょうか。まさか、ゴルフやマージャンに通じなさいという意味とは思えません(いや、それもあるかも知れませんが)。
まず思いつくことは、一生懸命に道を貫くことは大切であるが、時には文学や芸術に接したり、旅行やスポーツを楽しむことで心をリラックスさせなさいということではないかと思います。それによって、本来の一生懸命がさらに生きて来るのではないかと思うのです。つまり深くて、しかも巾広く、教養に余裕を持った人になりなさいという意味ではないでしょうか。
こういう境地に達した人は、決して窮屈さというものがありません。それでいて、品格もやさしさもユーモアも兼ねているはずです。真言密教で同じ10の伝授をしても、100の力を持っている阿闍梨と10のギリギリの力しか持っていない阿闍梨では雲泥の差です。その内容がまるで違います。それはどこから来るのかと言えば、やはり深さに加えた、巾の広さではないかと私は思うのです。
月初めの総回向
令和3年12月5日
昨日と今日は月初めの総回向を修しました。早くも、今年最後の総回向となったわけです。当然ながら、来年の暦や厄除のお話となりました。私が来年の九星盤を使って、簡単な説明をしましたが、皆様が熱心に聞いてくださいました(写真)。
一つだけお話をしますと、厄除は〝数え年〟でなければ、理に合いません、それは、少しでも暦の勉強をすれば簡単にわかることです。しかし、僧侶の方も、寺院のご住職様も意外に暦の勉強をしていません。それでいながら、本山から発行される暦をお檀家さんに配っています。だから、檀家さんから裏鬼門とか暗剣殺とかの質問をされても、何のことやらわからないということもあるのです。
私は宗門においても、暦の勉強が普及することを願って著作も残しました。いま、新たな執筆も手がけています。少なくとも星祭りを修する寺院の方は、暦の勉強をしていただきたいと、切に願っています。