僧侶はなぜ長命か
令和3年10月31日
あくまでも一般論ですが、私が考えている長命の職業は、僧侶・政治家・芸術家などです。異なる統計もありますが、私なりの意見としてお話をいたします。
まず、僧侶が長命だとされる理由は何でしょう。まず第一は読経によってお腹から声を出し、呼吸法を実践していることです。つまり、「声出し健康法」を毎日続けているからです。声は健康のバロメーターであり、声の大きい人は丈夫で働き者であると見て、まず間違いはありません。私などは毎日のお護摩で法螺貝を吹き、太鼓をたたき、高い声を張り上げて読経をしていますので、仕事そのものが健康法です。あさか大師で読経をするご信徒の方々も同じで、代謝がよくなって体温が上がり、髪や爪の伸びが早くなるとおっしゃいます。
次に、常に毛筆を持ってお札やお塔婆を書くので、これが指先と脳のフィードバックを生じ、認知症の予防となります。さらに真言密教では、手に印を結んで仏さまの世界を表現しますので、なおさら申し分がありません。また、常にお香の馥郁とした薫りにつつまれ、仏さまを礼拝しますので、これだけでも心の平安を保ちます。さらには、法話をするために読書や思考を重ね、知能を働かせていることなどにも要因がありましょう。
政治家も僧侶と同様、声を張り上げて街頭演説や論戦を行います。そして何より、連日の激務にもかかわらず、その対応が上手です。たとえば、国会の答弁を聞いてもわかるように、何を言われても平然と聞き流して居座り、ストレスをため込みません。これは常人には出来ないことで、激しい競争に打ち勝つ強靭な気力がなければ叶いません。私が政治家に対して尊敬を寄せるのは、まさにこのことなのです。
芸術家はそれぞれのジャンルで精神を高揚させ、ファンの人々をも魅了します。これが脳を活性化を呼び、生きる喜びをもたらすのです。ただ、中には狂人的な天才肌もいるので、私生活までは保障できません。私も(もちろん、天才ではありませんが)僧侶としては健康生活でも、著作のために常軌を逸することがあるので、寿命のほどはわかりません。
ちなみに、大変に失礼ではありますが、私が考えている短命の職業は、教員・警察官・公務員などです。これらの職業は常に社会の規範となるべき重責を背負い、上司や身辺の人々に気づかうことが多く、それでいて業務そのものにストレスの解消法が少ないからです。だから、宴会になると日頃のうっぷんが一挙に爆発し、とんでもない醜態をさらしかねません。自分なりのストレス解消法や健康法を見つければ、長命をまっとう出来ますので、ぜひ実践してほしいものです。酷言多謝。
泣いて涙を流すと
令和3年10月30日
最近はよく、いろいろなホルモンの名称を耳にします。癒しホルモンのセントニン、快楽ホルモンのドーパミン、怒りホルモンのアドレナリン、悲しみホルモンのノルアドレナリンなどといった名称のことです。これらは交感神経と副交感神経による、いわゆる自律神経の働きによって、それぞれに分泌されます。
一般には、日中は交感神経による興奮系のホルモンが分泌され、気持ちを前向きに促進します。一方、夕方から夜にかけては副交感神経によるやすらぎ系のホルモンが分泌され、精神を安定させて休息を求めます。したがって、朝の寝覚めが悪いとか、夜の寝つきが悪い人は、このホルモンバランスが悪い状態であるといえましょう。夜ふかし型の人や、夜間勤務の人が健康を害しやすいのはこのためです。つまり、人は朝早くに起床して太陽を拝み、日中は働いて夕日と共に帰宅し、早めに就寝するのが理想なのです(もちろん、現代人はなかなかこうはいきませんが)。
また、人の性格はさまざまで、ストレスを感じやすい敏感な人と、のんびりとして鈍感な人もいます。ストレスに敏感な人が怒りや不安などで交感神経を緊張させた場合、その対応がうまくいかないと副交感神経が逆流し、無気力や自信喪失に陥ることがあります。この時、泣いて涙を流すと、この逆流が融合します。だから、悲しい時は多いに泣いて、悲しみを癒しましょう。悲しみに沈んでガマンを重ねると生きる気力を失い、やがては病気にもなりかねません。したがって、悲しい時に感情をむき出し、泣いて悲しみを吹き飛ばせる人は、意外に健康だといえるのです。
では、ストレスに鈍感な人は健康で長生きであるかといえば、必ずしもそうではありません。なぜかといいますと、生命はストレスを感じても、それを乗り越えることで一段と強い気力を養えるからです。つまり、安穏すぎる生活からは、生活に弾みがないように、自分の異変に気づかぬようでは、そのまま寝たきりになるかも知れないということです。。
もっとも、まったくストレスのない生活など、現代人にあるはずはありません。たとえ一人の相手でも対人関係が生じれば、そこには必ず何らかのストレスが生じます。それは、夫婦や家族であっても変わりません。要はストレスをいたずらに嫌悪せず、それを持続させず、受け流すことが大切だということです。あるいは人生の達人ともなれば、ストレスとも、病気とも、この世の一切とも、花見をするようなつき合いができるのでしょうか。
「頑張れ、頑張れ!」はやめましょう
令和3年10月27日
日本語は美しいのですが、私がいつも困っていることの一つは「頑張れ」に変わる言葉がないことです。私たちはよく、何かにつけて「頑張れ、頑張れ!」と言います。しかし、人はそんなに頑張れるものでしょうか。その励ましの言葉が、むしろ負担にはならないでしょうか。もちろん努力を重ねることが習慣となり、逆境を乗り越えることを生きがいとさえ思える人もいます。そういう人は励まされなくとも、自力で進める人なのです。
でも、多くの人はストレスから心に不安をかかえ、動悸やめまいに悩み、さらに悪化すると、うつ病にさえ陥ってしまいます。中医学(漢方)ではこれを「心の血虚」と呼び、血液が脳に昇ってしまって、本来の「心臓の血液」が不足した状態と見ます。このような時に無理に頑張ろうとすると、脳はますます疲れ果て、かえって自信を失う結果にもなりかねません。まずは脳を休め、持ち前の〝頑張れる状態〟に導くことが大切です。
江戸時代の名僧・白隠禅師は二十六歳の折、重いうつ病や結核を患いました。しかし、そこはさすがの名僧で、座禅と呼吸法により、みごとにこれを克服しました。その著『夜船閑話』はこれまた名著中の名著で、今日でのベストセラーとも言えるものです。禅師は心気を丹田(へそ下3~9センチほど下の前方)に集めて気を静めて深い呼吸をすると気持ちが落ち着き、心臓への血液もよく巡るようになると説いています。これによって症状も軽減するのでしょう。心の問題を心そのもので立ち向かってはなりません。つまり、心の問題は体から克服すべきなのです。事実、禅師は多くの人々の病気を平癒させた実績も残しました。ただ指導者が必要なので、私はよく心の問題を抱えている人に対しては、ウオーキングや山歩き、読経やカラオケ(コロナ禍では自粛を)を勧めています。
それにしても、「頑張れ」に変わる言葉はないものでしょうか。時には「頑張らないで、ガンバレ!」と冗談(いや、もちろん本音)を放つのですが、いかがなものでしょうか。ほかには「楽しんで」「気楽に」「力をぬいて」「リラックスして」などといった言葉が思いつきますが、どうかな。
遍路大師像建立①
令和3年10月23日
あさか大師の開創三周年記念事業として、私は〈遍路大師像〉の建立を発願しました。遍路大師とはお大師さま修行時代の尊像のことで、網代笠をかぶって錫杖(六輪のついた長い杖)を持っておられる、あのおなじみのお姿のことです。このコロナ禍の中、少しでも参詣者の拠りどころとなることを願っています。今年4月より皆様からのご寄進をお願いしていますが、いよいよ工事着工の時期となりました。
まず、一昨日の21日より基礎工事に着工し、石材店の方々が建立地を掘りおこしました。何ごとも基礎が大事なので、念入りに施工していただきました(写真)。
また、本日は私が早朝より地鎮祭を修しました。家屋ではありませんが、地天さま(土地の神さま)にご挨拶をなし、供養の宝瓶も鎮めました。宝瓶とは中に五宝・五香・五薬・五穀の二十種物を封じて、地天さまとお大師さまへの供養とするものです(写真)。
本来は寺の行事として、僧侶の方が参列する予定でしたが、工程の都合上で私が一人で修したわけです。今日はこの上に生コンが入り、月末には御影石の台座が乗ります。完成を楽しみに待ちましょう。
得度式
令和3年10月19日
本日は得度式があり、二名の方が出家受戒されました。お一人は遠く讃岐(香川県)の高松市より来山され、はるばる私を訪ねて得度式に臨まれました(写真)。讃岐の善通寺はお大師さまご誕生の地でありますので、とりわけそのご縁も深いのでありましょう。
得度の〈度〉はサンズイを付けて〈渡〉ということ、つまり「渡ることを得る」という意味になります。迷いの此岸から悟りの彼岸に渡ることを得る入門が得度です。もちろん、彼岸に到るには、修行が必要です。そのための門出を得度式と言います。お大師さまとのご縁を大切にし、人生の目標に向かって精進していただきたいと願っています。
金運宝珠護摩
令和3年10月18日
あさか大師では毎月第三日曜日は、〈金運宝珠護摩〉を修しています。金運に寄せる皆様の想いが、この炎となって輝きました。参詣者の願いがこの炎です。不思議なことがおこります。力強いこの炎に、一人でも多くの方に参詣していただきたいものです。このところ雨天日が続きますが、皆様とともに力強く読経をしました(写真)。
また、先日の大そうじに加え、堂内の壁に付着したススも祓い除きました。護摩堂の悩みは、何といっても煙から生じるススなのです。今時は便利な道具がありますので、効を奏して短時間で終了しました(写真)。何ごとも工夫が大切です。来年の「開運歴」の配布も整い、これで心地よく年末準備に入れます。
初年・中年・晩年運
令和3年10月12日
九星気学では人の運期を三種に区別し、これを〈初年運〉〈中年運〉〈晩年運〉と呼んでいます。すなわち、三碧・四緑は初年運、一白・九紫は中年運、そして二黒・五黄・六白・七赤・八白を晩年運とします。異説もありますが、人は大方はこのいずれかの運期で人生の送ると考えて間違いありません。
①三碧・四緑の人は初年運です。30代で早くも人生の盛運を迎え、40代より徐々に衰運に向かうからです。逆に言えば、初年運(特に三碧)の人で40歳までに定職や地位を得ない場合は、まずウダツが上がらない(失礼!)と見てよいでしょう。これは、長い間の私の経験からしても、確かなことです。したがって、初年運の人は若いうちから健康や貯蓄に気配りし、中年・晩年に備えることが大切です。そして、徳を積み、信仰に励み、先祖への供養を怠ってはなりません。ちなみに、私は典型的な三碧の運期を背負い、28歳で新寺建立を果たしました。そして、30代で寺の発展に成功し、自分の盛運を終えました。64歳でその寺を退職しましたが、なおも晩年に「あさか大師」を建立し得たのは、まさに信仰によるお大師さまの力、先祖の力にほかなりません。初年運の人は、特に信仰への精進が大切なのです。
②一白・九紫の人は中年運です。40代で盛運を迎え、50代より衰運に向かうので、その心がけで対処し、晩年まで運期を伸ばすことです。特に生活や金銭への感覚は大切で、40代までに高級車やファッション、美食やレジャー走り過ぎるると、晩年は苦しい生活を覚悟せねばなりません。私の知っているある九紫の男性は、40代にして事業に大成功しましたが、生活も派手で豪遊し、また散財の多い方でした。ところが50代の終わりに事業が傾き、晩年は貧しい生活を送りました。中年運の方は自戒すべきです。
③二黒・五黄・六白・七赤・八白の人は晩年運です。50代で盛運を迎え、60代より衰運に向いますが、いわゆる大器晩成の運期と心得ましょう。概して晩年運の人は、初年・中年には恵まれず、非常に苦労の多いところに特徴があります。しかし、その苦労をバネにして生かせれば、晩年になって大きな力になることは間違いありません。いわゆる「若い時の苦労は買ってでもせよ」とは、この晩年運の人のための教訓といえましょう。私の見るところ、八白の人はとりわけこの傾向が強いように思います。そして、才能や力量のある人ほど大変な苦労を背負い、それを晩年まで持ち越すのです。多くはその苦労に打ちのめされ、ヤケをおこしますが、それに打ち勝ち、逆境を生かした人だけが運気を持続させるのです。よく引き合いに出されますが、徳川家康は代表的な八白の晩年運で、人生の最後の最後に花を咲かせて天下人となりました。
続・運と不運の理由
令和3年10月8日
それでは、私が日頃から感じている、〈運と不運〉へのアドバイスをいたしましょう。アドバイスといっても、ごく当たり前の常識ばかりです。ところが、この常識が通らぬところに現代社会の病根があります。これでは、いくら名前を変えても、方位を変えても、開運グッズを求めても、絶対に開運することはありません。お若い方にはオッサンのたわごとと聞こえましょうが、これも老婆心とお心得を。
①目上や上司の前を素通りしてはなりません。
コンビニやスーパーの商品を1メートル以内で見ていても、お若い方が平気で素通りする現状は何なのでしょうか。せめて、会釈ぐらいはするのが日本人の常識です。「失礼します」とだけ声をかければ、相手は必ず半歩でも一歩でも下がってくれるのです。これを目上や上司の前でも、同じようにするのでしょうか。「失礼なヤツだ!」と思われること、間違いありません。ちょっとだけでも会釈をすれば、その結果は明白です。
②〈ら〉ぬき言葉には充分な注意を。
いずれは日本語として通用するのでしょうが、〈ら〉ぬき言葉はあまりいい気持ちにはなれません。「見られる」を「見れる」と、「着られる」を「着れる」と、「食べられる」を「食べれる」と、これが〈ら〉ぬき言葉です。これを小学校の教師から再教育すべきだと言ったら、よけいなお節介でしょうか。少なくとも公用の場でこんな発言をしては、目上や上司が目をしかめるはずです。
③「ホントですか」はやめましょう。
ついでにもう一つ。何かにつけて、「ホントですか」はやめましょう。これもよく聞かされる言葉です。どうして普通に、「そうですか」と言えないのでしょう。言われた相手にとっては、まるで自分がウソを言っているような印象さえ与えかねません。「ホントですか」と発言するたびに、その発言が疑いの波動となり、その波動が自分の〈運〉を損ねることを肝に銘じましょう。これ、ホントですよ(笑)。
④〈前略〉は失礼な禁句です。
最後に、手紙の大問題。公用文の冒頭に、「前略」は絶対の禁句とお心得を。これは「あなたには季節の挨拶などする気はありませんよ」と書いているのと同じことなのです。最低でも「前略ご免ください」と、あるいは「時下ご清祥のこととお慶び申し上げます」は必要です。欧米では「親愛なる〇〇様へ」「愛する〇〇へ」で通りますが、家族や友人、また恋人どおしでもないかぎり、日本社会の手紙にはそれなりのルールがあることを知らねば恥となり、罪となり、やがてはあの世へ往っても報われません。
言い出したらキリがありませんが、このへんにしておきましょう。小さなことをゴチャゴチャ言っているのではありません。大切で重要ななことばかりなのです。この程度の常識を心得るだけでも、開運することを私が保証します。
運と不運の理由
令和3年10月7日
銀座「クラブ由美」のママ・伊藤由美さんが『「運と不運」には理由があります』(ワニブックス)という本を出版しました。銀座の高級クラブなどまったく縁のない私ですが、「運と不運」は関心の高い分野なのでさっそく購入し、きわめてマジメに、しっかりと愛読しました。何しろ政界や財界の一流人を相手に、43年もの間この仕事を続けてきた方だけあって、書かれていることは一つ一つが鋭く、納得のいくことばかり。こういう人になってはいけないという33項目の中から、私にとって特に耳の痛かったお話をご紹介しましょう。
①爪が汚れている人
女性は男性のどこを見るのかとの問いに対し、顔や衣類はもちろんでしょうが、意外にも指や爪を見るという答えが返って来るようです。特に営業マンの方は注意せねばなりません。商品やカタログの説明をする時、爪が汚れているようではすべてが台なしです。仕事の〈運〉を逃すことにもなりかねません。私は毎日お護摩を修するためか、爪が汚れやすいので困っています。かなり短く切っていますが、うっかりすることがあります。
②四六時中スマホやネットを見ている人
現代人はスマホがなければ、生活はできても仕事はできません。当然ながら、メールやネットのお世話になります。しかし、人と会っていても片時もスマホを離さない人は、やはり相手によい印象を与えるはずがありません。お店に入って、注文したコーヒーや食事が運ばれて来てもおかまいなし。これはもう、依存症としか言いようがありません。こういう人は味も逃しますが、〈運〉も逃すはずです。文中には「使いこなしても振り回されるな」と、表記されています。
③言葉遣いに無頓着な人
伊東さんは特に気をつけるべき3つの言葉をあげています。「女性のことをオンナと言わない」「お金のことをカネと言わない」「相手のことをオマエと言わない」の3つです。昔の男性は女性をよく、「おい、オンナ!」と呼んで卑下しました。見栄と差別を強調したつもりかも知れませんが、現代には通用しません。お金を「カネ」と呼ぶ人は、お金の神さまから嫌われます。相手を「オマエ」と呼ぶ人は、高慢に過ぎて〈運〉を引き寄せられません。
④敬語を疎かにする人
これも気になります。お若い方には「媚びを売っているようでイヤだ」とか、「年功序列の崩壊した時代には不必要だ」と思っている方がいるようですが、まったくの間違いです。それに、敬語を使わないのではなく、使えない方が多いのには困ったものです。人間関係は友達づきあいではありません。敬語という〝品位〟がなければ、〈運〉も遠ざかります。お若い方は基本的な敬語だけは、しっかりと身につけましょう。
そのほか、「人の名前を忘れる人」「道具やモノを大事にしない人」「デスクの上が散らかっている人」など、チクリと刺さるようなお話がたくさんあるのですが、紙面が尽きました。興味のある方は、ぜひご愛読を。
10月の総回向
令和3年10月3日
昨日と本日は月初めの総回向光明真言法要を奉修しました。緊急事態宣言解除のためか、ご参詣の方がいくらか増えてきたように思います(写真)。それでも油断は禁物で、気をゆるめると、また感染者が増える可能があります。そのことをお話し、発熱や喉の痛みに対応する私の考えをお伝えしました。〈イベルメクチン〉や〈5-ALA〉、また漢方薬も常備し、初期段階では充分に平癒した経過を説明しました。
また、昨日は年末に先駆け、大そうじをしました。年末は初詣の準備で忙しくなるからです。一年分のお護摩のススで、雑巾が真っ黒でした。本堂が明るくなり、心地よい気分となりました。挨拶をすることと同様、清掃をすることは生活の基本です。よい〈気〉は、挨拶と清掃から来ることを肝に銘じましょう。