天佑神助
令和3年6月27日
日露戦争における日本の奇跡的な勝利は、〈天佑神助〉であったかも知れません。天の佑けと神の助けです。日本が頼みとするこの言葉は、司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にもその記載があります。
児玉源太郎大将や乃木将軍の率いる陸軍は、難攻不落とされた旅順の要塞を二〇三高地の攻略から陥落させ、東郷平八郎司令長官の率いる海軍は、秋山真之の作戦によって世界最強とされたロシアのバロチック艦隊を日本海海戦で撃破しました。当時の日本の兵力からすれば考えられないことで、まさに天佑神助であったといえましょう。
しかし、この奇跡的な勝利は人の寿命を縮めるほどの犠牲の上にあったことを忘れてはなりません。『坂の上の雲』ではこのことを、「作戦上の心労のあまり寿命をを縮めてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」と特記しています。思考のかぎりを尽くし、脳漿をしぼり切れば、心身は疲労困憊し、気が狂いそうになるのでしょう。そして、日本の天佑神助は、こうした軍人の犠牲があっての顕現だったのです。
よくお話をするのですが、人はよく「人事を尽くして天命を待つ」などと言います。しかし、この名言は天命を待つことばかりが力説され、その天命がいかほどの人事によって成り立つかは何も語っていません。多くの人が「ほどほどに努力をして、後は天命を待てばよい」くらいにしか考えていないからです。しかし、そんな程度で天命がやって来るなら、どこへ行っても天才ばかりがゴロゴロすることでしょう。
悲運では名将にはなれませんが、天命も運のよさも、そして天佑神助も、気が狂うほどの努力をせずして引き寄せることはできません。神秘的な奇跡は人の努力から生れるからです。久しぶりに大作を読み、そんな考えに至ったことをお伝えしておきましょう。
まことに運のいい男
令和3年6月24日
六月に入ってから、私は司馬遼太郎著の『坂の上の雲(一)~(八)』(文春文庫)を枕元に積み上げ、毎晩少しずつ読んできました。著者がこの大作を書くにあったっては、東京中の古書店から日露戦争に関する資料が一冊残らず消えたというエピソードがあります。たしか、トラック二台分もの古書を著者が買い求め、大阪の自宅に運んだからです。歴史家の中には、文中の内容に疑問を投げかける方もおりますが、小説としてはすばらしいい作品です。
この小説は連合艦隊の作戦参謀・秋山真之を主人公としていますが、兄の秋山好古や俳人・正岡子規もかなり登場します。もちろん、明治天皇や乃木希典将軍、陸軍大将・児玉源太郎、海軍大将・山本権兵衛、連合艦隊司令長官・東郷平八郎といった偉人の存在も見逃せません。印象に残った場面や会話には赤線を引きつつ眠りに就き、昨夜、その全巻を読み終えました。その赤線の一つをご紹介しましょう。
日露関係の緊張も風雲急をつげ、いよいよ開戦やむなしとなった折、明治天皇より山本権兵衛に、「連合艦隊司令長官に、なぜ東郷平八郎を選んだのか」とのご下問がありました。
山本はそれに対して、「東郷はまことに運のいい男だからであります」と意外な返答をしました。
世界最強のバロチック艦隊から日本を救い得るためには、強靭な〈運〉が必要だったからです。伝えによれば、東郷は「弾の当たらない長官」として有名でした。〈運〉こそは才能以上の才能、究極の才能なのでしょう。難攻不落とされた陸軍のあの旅順攻略も、何万という死傷者を出しつつ、児玉・乃木両将軍の強運がなければ達せられたとは思いません。
私は中学生の折は柔道に専念しましたが、稽古中に仲間が骨折をした時はよく近くの接骨院にかつぎ込んだものでした。そこの先生も柔道の師範であったからです。玄関に入ると東郷平八郎の扁額があり、その独特の花押(書き判)を今でも克明に覚えています。花押への関心もそこから始まりましたが、はたして、運のいい男の功徳をいただけたでしょうか。
失物発見法
令和3年6月20日
本日は第三日曜日で、午前11時半よりは金運宝珠護摩を修しました。まだまだコロナ禍が続く中、さびしい気もしましたが、皆様が元気よく読経をなさいました(写真)。
また、午後1時からは光明真言の回向法要を修し、その後に「失物発見法」のお話をしました。大事なものをどこに置いたのか見つからなかったり、置き忘れや紛失の経験は誰にでもあることです。また、盗難にあうこともあるかも知れません。
実は、失物の原因は〈三宝荒神〉という、いわゆる竈の神さまのお叱りを受けたからだという説があります。「そんなバカな!」と思うかも知れませんが、こういう言い伝えがあることは事実です。つまり、昔なら竈、今の生活ならガスやIHのそばで悪口を言ったり、腹を立てたり、口論をしたりすると、荒神さまがお叱りになるのだということです。それだけ、火は神聖なものであることを知らねばなりません。
だから、荒神さまにガスやIHのそばにお線香を立て、不敬をお詫びし、そのご真言を唱えると、失物を発見すること、まことに奇妙です。特に家内で紛失した場合は、スグに見つかります。家外の場合は一週間ぐらいかかることが多く、また財布の中身までは保障できません。それでも、現金はなくなっていても、保険証やカードなどは戻ることが多いのです。私はこのことを何度も経験し、またご信徒の方にもお教えして実証してきました。
今日もこのお話をするや、皆様、とても真剣でした(写真)。お役に立つことを念じています。詳しくお知りになりたい方は、あさか大師にお越しを。
マイナス思考の大切さ
令和3年6月18日
かなり以前の大河ドラマに、『元禄繚乱』という番組がありました。作家・舟橋聖一の『新・忠臣蔵』が原作で、いわゆる赤穂浪士の討ち入りを描いた一作です。主演の大石内蔵助を五代目・中村勘九郎さんが、浅野内匠頭の正室・瑤泉院を宮沢りえさんが演じ、何かと話題になりました。
私はテレビを見ることはほとんどありませんでしたが、たまたま視聴した一場面だけは忘れることができません。それは、いよいよ討ち入りが間近に迫ったある日、内蔵助は四十七人の浪士を招集し、綿密な作戦会議を開いたところでした。作戦会議は夜半にまで及び、いよいよ最後に内蔵助が言いました。以下はおおよその記憶です。
「最後にご一同、これまでのことは吉良殿の首を討ち果たし得た場合ばかりを論じて来たが、仮にこれを討ち果たし得なかった場合についても決めておきたい」
すると、一同が反論しました。
「何ということを!」「さようなことはない!」「縁起の悪いことを申すものではありませんぞ!」
これに対して内蔵助は、次のように説き聞かせました。
「強がりを言うな。打ち果たし得ぬこともあろうし、打ち果たしたと思いきや、それが影武者であったらどうする。その備えをすることがどうして縁起が悪いのじゃ」
私はたまたま視聴したこの一場面が忘れられず、いわゆる最悪の事態に対する備えとして、生涯の模範となりました。なぜなら、私は自己啓発の書籍をたくさん読み、そうしたセミナーにも参加し、プラス思考に傾倒していたからでした。
たしかにプラス思考は大切です。成功することを強く望み、成功したイメージをいだくことは、成功の鉄則です。しかし、それでも人生には失敗がつきものです。最悪の事態への備えがなければ、イザという時の機転がききません。成功ばかりを望む人は、そこが危ないことを知らねばなりません。
いつ頃の番組であったのか、それすら覚えていませんが、あの一場面にはよほどに縁があったのでしょう。人生にはこういうこともあるのです。気まぐれな思いつきが、大きな成果を得ることもあるのです。マイナス思考の大切さとして、忘れることができません。
続・逆説の真理
令和3年6月13日
「健康で長生きをしたければ、病気になることだ」と、お話をしました。冗談でお話をしたのではありません。マジメなお話です。仏教はこのように、「逆説の真理」を説くことが多いのです。おわかりいただけましたでしょうか。
普通の常識からすれば〝常識はずれ〟と思うことでも、よく考えれば、当りまえのことであることがわかるはずです。決して〈非常識〉ではありません。強いて申し上げれば、〈超常識〉でしょうか。仏教にはこの超常識がたくさん出てきます。
病気ばかりではありません。人はみな、苦しみや悩みを味わうからこそ、目覚めるのです。腹を立ててケンカをしたり、悪口を言ってヤケをおこしたりするのは、どこかで世の中のルールに合わないからです。その分の苦しみも悩みも味わいます。しかし、そのルールに合わない自分に目覚めねば、何も変わりません。痛い目にあわねば、何も変わりません。だから、変わるためのチャンスを与えられているということです。苦しみも悩みもチャンスだということです。
私も若い頃はそれがわからず、さんざんに苦しみ、さんざんに悩みました。自分の意に反すれば腹を立て、気に入らない意見を聞けば反論をしました。腹を立てて声を荒げたところで、何も益することはありません。反論(議論ではなく)をして相手を攻略したところで、何も益することはありまん。あと味の悪さが残るに過ぎません。そして、そういう自分の煩悩に苦しみ、悩んでいたものでした。
今でも、煩悩は相変わらず消えません。でも、仏教に触れ、お大師さまの教えに出会ったおかげで、少しだけ変わりました。そして、変わるチャンスは誰でも平等に与えられていることを知りました。皆様が苦しんでいること、悩んでいることがご自分の真実です。そして、変わるためのチャンスなのです。
もうすぐ、蓮の花が咲きましょう。汚い煩悩の泥から、清らかな悟りの花が咲きましょう。お釈迦さまやお大師さまがこの世に出現されたのは、この世に蓮の花があるからです。ぜひ、ご覧になってください。そして、その声を聞いてください。「苦しみなさい、悩みなさい、そしてこのように咲きなさい」と。
チャンスはどこにでもあります。足もとにあります。それに目覚めましょう。仏さまの教えですよ。
逆説の真理
令和3年6月11日
二十代の頃、坂口安吾という作家の作品をよく読みました。全集まで買い求め、小説や評論はもとより、日記や書翰まで読みました。代表作の一つに『堕落論』という評論があり、何度もくり返し読みました。終戦直後の荒廃していた日本人に対し、「生きよ堕ちよ」という衝撃の一言は、何かと話題を呼びました。思い出の多い作家の一人です。
『堕落論』の中でこの作家が主張していることは、「堕落しなければ人は目覚めない」と一言に尽きましょう。つまり、痛い目にあわなければ、人は自分のことが見えてこないのだということです。初めて読んだ当時はショックを受けましたが、しかし、考えてみれば当たり前のことです。人はみな、痛い目にあってこそ自分を反省し、生き方を正すからです。
この論法で考えると、仏教はみな〈逆説の真理〉を説いていることがわかります。普通の常識では悪いこと、不安なこと、困ったことも、それがかえってよい結果をもたらすという意味です。
『般若心経』ではこれを、〈空〉と表現しています。眼を開けば、それも救いだということです。かたよらない、とらわれない、こだわらない心が〈空〉です。〈空〉の心で見れば、そのことがわかります。
私は最近、「健康で長生きをしたければ、病気になることだ」と思うようになりました。体に異変を感じ、病院で診察を受ければ、何らかの病名がわかりましょう。その原因もわかりましょう。そこで人は目覚め、反省し、生活を変えるのです。お酒をやめ、タバコをやめ、生活習慣を変えるのです。健康へのチャンスを与えられるのです。これ以外に、長生きの秘訣はありません。
病気は本来、健康を守ろうとする尊い働きです。熱が出るのは害菌を減らし、汗によって毒素を排泄しようとする働きです。痛みが出るのは、血液をさらに集め、病根を壊滅させようとする働きです。吐気も下痢も、それは同じなのです。もし、このような症状が何ひとつ現れないとするなら、人は体の異常を感じ取り、自分の健康を守ることなど出来るはずがありません。人は病気をしながら健康を保つことが出来るのであり、病気をするからこそ健康で暮らせるのです。
熱や痛みで苦しみ、医者にきびしく注意されなければ、人は変わりません。〈空〉の眼で見れば、それがわかるはずです。まさに〈逆説の真理〉です。病気とは仲よくつき合いましょう。高血圧とも、糖尿病とも、そして癌とも仲よくつき合いましょう。病気もまた健康の秘訣です。これも仏さまの教えですよ。
コロナ禍の総回向
令和3年6月7日
一昨日・昨日と月初めの総回向を修しました。コロナ禍にあって、ワクチンを済ませた方を含めて、少しずつ参加する方が増えていっているように思います。僧侶の方も列席し、お手本となって読経をしていただきました。また、法要後は6月4日のブログでご紹介した『入社1年目の教科書』をご披露し、法話をしました(写真)。
この本は決して特別なことを述べているわけではありません。しかし、新入社員はもちろんのこと、一般の方にもよい指針になることは確かでありましょう。一見、つまらないと思う仕事でも、要は考え方の問題です。つまらない仕事をつまらないまま終らせるか、大きな生きがいになるかは、私たちの考え方しだいです。
それには仏教的な視点である、かたよらない心、とらわれない心、こだわらない心が必要です。その大きな視点で考えれば、つまらないと思う人も、つまらないと思う時間も、そこには大きなチャンスが隠れています。皆様、それを見つけ出しましょう。眼を開きましょう。仏さまの教えですよ。
入社1年目の教科書
令和3年6月4日
最近、『入社1年目の教科書』(ダイヤモンド社)という本が売れていると聞きました。同書はライフネット生命の元社長・岩瀬大輔氏が10年前(副社長時代)に刊行した著作ですが、多くの企業が新入社員の研修テキストとして採用しているようです。そうと聞くと、何となく気になります。さっそく、Amazonの古書で購入してみました。
〈はじめに〉で著者は、最も言いたいことを述べています。①頼まれたことは、必ずやりきる。②50点で構わないから早く出せ。③つまらない仕事はない、の三項目です。次に目次を開きました。ざっと目を通しましたが、私には「なるほど!」と思うほど特別な項目はありませんでした。私の法話集『一話一会(第1集・第2集)』や、このブログで述べていることと大差はないぞというのが第一印象でした。
この著者が何を言いたいのかを一言で申し上げるなら、それは「チャンスはどこにでもある」ということではないかと思います。普通に見ていたのでは何も「ない」ように思うことでも、眼を開いてこれを見れば、そこには無限のヒント、無限の答え、無限の宝があるという意味です。しかも、それは意外に足もとにあるものです。お大師さまが「眼あきらかなれば(心の眼を開けば)」とおっしゃっているように、これはきわめて仏教的な視点だともいえましょう。眼をあきらかにしなければ、チャンスは見えて来ません。
同書において、それを代表するのが「カバン持ちはチャンスの宝庫」という一章です。カバン持ちはつまらない仕事、と思ってしまえばそれまでです。上司が誰と会って、何を話すかを見聞きするだけでも、勉強になりましょう。そのチャンスを逃してはなりません。お茶を出すことにも、コピーをとることにも、実は無限のチャンスがあるのです。
私にも思い当たることがあります。二十代の始め、私の師僧が北海道で史上初の柴灯護摩(野外護摩のことで、火渡りもします)を修することとなりました。その時、入門したての私は真っ先にカバン持ちを買って出ました。しかし、北海道には竹もなければ、檜もありません。これらは柴灯護摩にはなくてはならないものです。それでも私は、地元で釣り竿を購入し、モミの木を檜の代わりにしてこの行事を成し遂げました。思えば、師僧に認められたのは、この時からだったかも知れません。大きなチャンスと大きな収穫を得ることができました。
皆様もどうか、「つまらない仕事はない」ことを肝に銘じてください。特に新入社員の諸君は、そのつまらない仕事に眼をあきらかにしましょう。心の眼を開きましょう。