続・運命のルール
令和3年5月30日
さらに続けますが、運命のル-ルは誰にでも平等です。もちろん、私だって同じです。自分だけは違うなどということは、絶対にあり得ません。次のお話を読んでいただければ、わかっていただけるはずです。
この世の中は自分が与えた分を、自分が得るのです。自分を考えてください。与えた分の姿が、今の自分です。自分の収入も財産も、配偶者も友人も、それが自分の真実です。世の中は幻のようなもの、夢のようなものかも知れませんが、同時にそれが真実なのです。実体がないといいながら、それが真実だと『般若心経』は教えています。
たとえば、スーパースターと呼ばれる人たちがいます。俳優(女優)・歌手・スポーツ選手、彼らや彼女らは世界中から愛されています。血の出るような努力に努力を重ね、世界中の人たちを楽しませる何かを、世界中に与えています。だから、私たちには想像もできないよいうな名声と富を得ています。人は与えた分を、得ることができるからです。
私たちは何を与えているでしょうか。労働力であれ商品であれ、情報であれアイデアであれ、与えた分を自分が得ているはずです。それが自分の能力であり、自分の徳なのです。それが運命のルール、運命の真実なのです。このルールからはずれることはありません。わかりますよね。
では、与えずして何かを得た場合はどうなるでしょうか。人を騙したり、不正をはたらいて奪ったものは、必ず奪われることになります。あるいはその分の〝つぐない〟をすることになります。なぜなら、騙したり不正をはたらけば、人の恨みを買うからです。その恨みによって奪ったものが奪われるからです。もちろん、スグにそうなるとは限りません。しかし、いずれは必ずそうなります。また、そのような恨みに囲まれれば、痛い目にあうことも必定です。減給されたり、失業したり、刑務所に入ることになるのです。これも運命のルールです。
私たちは時として失物をしたり、盗難にあったり、詐欺にあったりします。これも〝つぐない〟の姿です。悪口を言ったり、うそをついたり、腹を立てたりすると、このようなことが起こりやすいのです。私は失物をした場合、「お叱りを受けたな」と思うようにしています。過ちの〝修正〟をしているからです。痛い目にあった時は、このように思うことです。痛い目にあわねばわからないから痛い目にあうのです。さらに悪徳を積まぬよう、運命はこのようにはたらくのです。人が望もうが望むまいが、信仰があろうがなかろうが、人は何かによって支えられ、救われていることを知らねばなりません。実は、これも運命のルールです。「運命は均される」からです。もう、このへんにしましょうか。
運命のルール
令和3年5月29日
「すべては預かりもの」だとお話をしました。そして、あらゆる所有は永遠のものではなく、所有するにふさわしい人の預かりものとなって、また次の人の所有になるとお話をしました。極論を申し上げれば、人はこの世で所有するものなど、何一つないのです。人は自分にふさわしいものを、ふさわしい時に、ふさわしい所で、一時預かりをしながら生きているのです。すべてがそうなのです。お金も物も、結婚した相手も友人も、自分にもっともふさわしい縁で、今ここで預かっているのです。この事実を何と思うでしょうか。
ただ、ちょっとだけ例外があります。運命は時として〝ふさわしくない〟人物に預かりものをさせるからです。つまり、運命の悪戯です。その一つがギャンブルです。ギャンブルには能力も必要でしょうが、そのほとんどは偶然の産物です。宝くじもまた同じで、これは百パーセント偶然に過ぎません。
断言しますが、ギャンブルや宝くじで財をなすことは絶対にありません。ギャンブルで一時的に大金持になっても、そんな生活が長く続くでしょうか。お金がなくなると、味をしめたギャンブルにまた手を出すのです。そして、最後には一文なしとなって、人生そのものすら失うのです。
宝くじで一億円を当てた人が幸せになるでしょうか。ふさわしくない人がそれを所有すれば、運命のルールが狂うのです。運命のルールが狂えば、人生も狂い、必ず不幸になるのです。食べてはいけないものを食べれば胃が痛み、下痢や吐き気をおこすでしょう。それと同じです。一億円に群がる人の憎愛が怨恨を生み、トラブルを生み、殺人事件にまで発展するのです。
あり得ないこととは思いますが、もしも、もしも皆様が宝くじを買って一億円を手に入れたなら、スグにでも社会に還元することです。ユニセフにでも赤十字にでも寄付をすることです。そうすれば、運命のルールは狂いません。もっとも、あさか大師に寄付をしてくださるなら、私がさらにいい方法をソッと教えましょう(笑)。こんなことを言う人はいませんが、私にはその自信があります。なぜなら、この世のものをあの世にも持ち越せる唯一の方法を、私が知っているからです。これはお大師さまにお使えしなければ、言えないことです。
いつもお話をしますが、自分とは〝自らの分〟なのです。自分にふさわしいものが、ふさわしい出来ごとが、ふさわしい人物が、目の前に現れるているのです。そんな自分を好きになってください。それを忘れて、おかしなことを考えてはなりません。困った人になってはいけません。そうでしょう、皆様。
すべては預かりもの
令和3年5月26日
地鎮祭のお話の中で、土地も家も神さまからの「預かりもの」だと言いました。高いローンを組んで、人生で一番高い買い物をしたというのに、ガッカリなさった方もいらっしゃることでしょう。でも、このお話にはさらに続きがあります。土地や家はもちろんのこと、実は人がこの世で所有する「すべては預かりもの」だとさえ言えるからです。
人はあれも欲しい、これも欲しいと言っては所有を欲します。もちろん、人生の目的はその欲しいものを〝手に入れる〟ことにあると言えましょう。〝もの〟とはお金や物ばかりではありません。多くの男性は名誉や肩書を欲します。女性ならやすらぎのある家庭を欲します。そして、それぞれに異性を欲します。男性が女性を欲し、女性が男性を欲するのは、これも当然のことです。人はまさに、その欲しいものを手に入れるために苦労を重ね、汗を流し、イヤな相手にも頭を下げ、時間を惜しんで働いているのです。
しかし、どうでしょう。手に入れたどんなものであっても、あの世に持ち越すことはできません。一万円札をどんなにため込んでも、あの世で遣うことはできません。人はあの世に旅立つ時、この世で手に入れたすべてのものに別れを告げねばなりません。つまり、あらゆる所有は永遠のものではないということです。この世という、一時のものだということです。自分の努力と縁によって、この世で預かりものをしたに過ぎないといういことになるのです。
もちろん、遺産として家族や身内には残りましょう。でも、その遺産も永遠のものではありません。遺産が多くれば、必ず争いが生じます。仲のよかった兄弟姉妹も、血眼になって遺産争いに走り、やがてはその遺産も消えていきます。だから、この世は無常なのです。これは永遠の真理です。
では、消えて行ったその遺産はどこに行くのでしょう。真言密教はこれを〈虚空蔵〉という倉庫であると教えます。虚空蔵菩薩が管理する、いわば宇宙の倉庫です。すべての〝もの〟はここに蓄えられ、所有するにふさわしい人の預かりものとなって、また次の人の所有となります。「カネは天下の回りもの」と言うではありませんか。それだけの能力と徳のある人でしか、あらゆる所有は叶いません。しかも、それも一時の預かりものに過ぎません。これが所有という、この世の道理なのです。すべては預かりものです。皆様、おわかりでしょうか。
地鎮祭はなぜ必要か
令和3年5月23日
先日、ある木工会社社長さんの自宅を新築するため、地鎮祭を挙行しました。最近は地鎮祭の必要性を理解し、依頼される建主の方が少なくなったことは残念でなりません。それというのも、施工の工務店が家を建てることの本当の意味を理解し、それを説明することがないからです。何ごとも営利第一で、手間をかけるのが面倒なのでしょう。会社の発展や技術の向上には力を注ぐものの、昔からなぜ地鎮祭という儀式を行って来たのかを考えようともしません。
今でも本当の大工さんなら、必ず地鎮祭をすすめます。それでも建主が不要だと言い張るなら、自分たちだけででも簡単な〝おきよめ〟をするはずです。たぶん、お酒と塩ぐらいは用意して、充分にお祓いをしてから仕事に取りかかることでしょう。それが請け負った大工としての仕事の作法であるからです。
では、地鎮祭はなぜ必要なのでしょう。そもそも、人はよく土地や家を〝買った〟と言います。もちろん不動産の物件ですから、けっしてお安い買い物ではありません。おそらく、人生の中で最も高い買い物であったはずです。また、長いローンを組んで、何十年もかけて支払いを続けているという方も多いはずです。
しかし、買ったというその土地や家は、いったい誰のものでしょう。もちろん、法律上は買主のものに間違いはありません。しかし、その前にも持ち主がいました。そして、その前にも、またその前にも持ち主がいました。そうすると、その土地は本来、この地球が出来て以来のその土地の神さまのものということになるのです。土地を買い、家を建てると言いますが、実は神さまから〝預かる〟ということなのです。どんなに大金をつぎ込んでも、それはあくまで、預かりものに過ぎません。
だから、預かる以上は挨拶をするのが当たり前です。その挨拶が、つまり地鎮祭なのです。世の中には様々なトラブルがありますが、その原因は何かというと、それは挨拶をしないからなのです。お世話になったなら御礼を、ご迷惑をかけたならお詫びをすべきであるのに、その挨拶がなければトラブルになるのは当たりまえです。だから家を建ててそこに住む以上は、神さまに挨拶をすべきなのであり、それが地鎮祭なのです。
地鎮祭をせずに家を建てると、中古住宅であれば入居前の挨拶(お祓い)をしないと、かなりの確率でトラブルが生じます。私は長年の経験から、そのことを知っています。このブログを読んだ方は、このことを肝に銘じましょう。家を建てる前には必ず地鎮祭を、中古住宅に入るなら、その前に必ずお祓いをしましょう。これ、当然のことですよ。
「運が悪かった」からか
令和3年5月20日
先日、こんなお話をうかがいました。その方は車の運転をするのですが、長年にわたって無事故・無違反で、いわゆる〈ゴールド免許〉が自慢だったそうです。ところが最近、たまたま一時停止の道路標識を見落とし、パトカーの警察官に検挙されてしまったそうです。私はその方が冷静で慎重な性格であることを知っていましたので、とても残念なことだと思いました。めったにないことが、この時に起ったわけです。
私はお話の中で、その時の警察官の言葉に興味をいだきました。「あなたは運が悪かったから捕まったと思いますか」と、その警察官が聞いてきたそうです。その方は一般的な考え方として、まずは「そうでしょうね」と答えたところ、警察官は「だから捕まったんですよ」と忠告してきたと言うのです。
警察官のマニュアルとしてこのようなシナリオがあるのかどうかは知りませんが、私はこの警察官はいいことを言うなと、感心したのでした。なぜなら、車を運転していれば、道路標識よりスピードを超えることなど常にありましょう。やむなく、駐車違反をしてしまうこともありましょう。この方のように、一時停止を見落としてしまうこともありましょう。そんな時に検挙されれば、人はたいてい「運が悪かった」と思ってしまうかも知れません。
しかし、どうでしょう。はたしてこれは、運という次元で済まされるものなのでしょうか。法治国家で暮らす以上、交通ルールを守るのは、また守らなければならないのは当然です。運が悪かったのではなく、守らなかったことが理由であることは誰が考えてもわかることです。ところが人は、警察官への腹立たしさもふくめて、これを運という次元に転換したがるのです。そして、その転換によって少しでも自分を慰めているのです。
逆にどうでしょう。交通事故を起こしたのにかすり傷ひとつ負わなかったとするなら、これは運の次元です。まさに、「運がよかった」のです。もちろんそこには、シートベルトをしっかりと締める、スピードも出し過ぎず、わき見運転もしなかったといった、人為的な心がけが加わっていなければなりません。つまり、運は人が引き寄せる、あるいは努力が引き寄せることも事実なのです。
交通違反と運の関係を取り違えてはなりません。しかし、運のよさを心がけ、運を引き寄せる努力は大切です。また運だけに頼るのは、愚かなことです。運に気づかず、運に無関心であることも愚かなことです。おわかりでしょうか。運と心がけ、偶然と必然の微妙な関係がここにあります。
金運宝珠護摩
令和3年5月17日
昨日は第三日曜で、特別に金運宝珠護摩を修しました。コロナ禍の中でさびしい集まりでしたが、僧侶の方もご信徒の方も、力強い炎に祈りを込めました(写真)。
私は財務のことは何もわからず、ただ寺務所の方にお任せしています。また、僧侶の私がお金についてお話できることは、お金は追いかけるものではなく、後ろからついて来るものだということに尽きると考えています。つまり、どうしたらお金が入るか、どうしたら儲かるかを考えるのではなく、どうしたら人のお役に立ち、人に喜んでいただけるか、そのためには何をすべきか、何を与えるべきかが大切だということです。そうすれば、お金は自然と後ろからついて来るものだと、私はそれだけをいつもお話しています。
だから、皆様のお役に立ち、皆様に喜んでいただけるよう努力していれば、寺の経営はお大師さまが何とかしてくださるだろうと、そう思って毎日を過ごしています。仏教が特に〈布施〉を重んじるのはそのためなのでしょう。布施はもちろん、お寺や僧侶への布施ばかりを意味するわけではありません。人に与えることのすべでが布施なのです。やさしい言葉をかけることも、笑顔で接することも、手助けをすることも布施なのです。つまり、自分の仕事にプラスアルファの何かをあたえること、それが布施という意味なのです。
僧侶にとっては〈施餓鬼〉もその一つです。施餓鬼は何かを求めるために修すわけではありません。何も求めず、無欲でもって修します。ただ、与えること、布施をするためだけの目的で修します。しかし、施餓鬼をよく修する僧侶は、何となく豊かになります。暮らしにも困らず、また長命な方が多いのです。これは功徳というものが後ろからついて来る証明です。
こんなお話が皆様の金運のために役立つなら、大変にうれしく思います。いや、きっと役立つと思いますよ。実は、こんなお話をすることそのものが布施なのです。おわかりですよね。
中医薬学会よりの免状
令和3年5月14日
昨年の12月24日、私は中国政府・中医薬学会より〈中医師〉の資格を得て、その免状をいただきました。これは私が学んだ加持祈祷としての〈密教整体〉が気功、あるいは推拿(中国では整体やカイロプラクティックのことを推拿と言います)の技術として、中国政府からも認められたことを意味します(写真)。
私が密教整体を学んだ理由は、真言密教の加持祈祷として取り入れたいためでした。もちろん、お護摩や病者加持を修することも加持祈祷です。いや、真言密教はご祈祷もご回向も、厄除も車のおはらいも、光明真言法要も葬儀(引導作法)もすべてこれ加持祈祷なのです。このことは真言宗僧侶の方でさえ、意外にわかっていません。仏さまのお力を〈加〉とし、それを信じる力を〈持〉とする加持祈祷こそは、お大師さまの根本理念なのです。
その昔、奈良の寺々には施薬院や悲田院といった施設がありました。文字どおり、施薬院は病人に薬を施すところ、悲田院は飢えた人々や孤児のために食を施すところです。そのため、寺のまわりに薬草園や田畑を設け、これを耕しました。ご祈祷は単に〝祈り〟ばかりにとどまらず、その行動が伴えば申し分がありません。お大師さまも満濃池(香川県)の土木工事や、綜藝種智院(日本最初の庶民学校)の創設によって、その範を示されました。
病気平癒を祈る場合、護摩木を書き、またお護摩に参拝していただくことは大切なことです。ただ、多くの方々が腰痛・膝痛・頭痛などに悩んでおられる現状を見て、私は少しでもお役に立てる技術を習得したいと考え、この密教整体を学びました。今後は中医師としての資格も、大いに発揮したいと考えています。
なお、この中医師の資格習得に当たっては、あさか大師の僧侶でもある宮本覚匠師(諏訪市在住)の尽力がありましたことを特記します。深謝。
真言密教の鳴き声
令和3年5月11日
日本の国鳥はキジです。そのキジが毎日、あさか大師に飛来します。朝の4時頃から「ケンケーン」というエキゾチックな金属音を奏で、その鳴き声で私は目を覚まします(もっとも、その頃に床に就くこともありますが)。
オスは濃い緑色で尾が長く、顔に赤色のハート模様が見えるので、すぐにわかりましょう。そのオスは羽で胸をたたく「母衣打ち」をして、メスを求めます(写真・当山の古沢秀雄氏撮影)。メスは地味な茶色で、ライチョウに似ています。
また、キジは地震の前夜に鳴き声を発するため、その予知能力があるとされています。事実、2011年の東日本大震災の折には、気仙沼に生息するキジが海鳴りの後に激しく鳴きました。足の裏に振動を察知する感覚器官があるとされていますが、まだ正確な解明はなされていません。
鬼退治で有名な「桃太郎」の物語では始めにイヌが、次にサルが、そして最後にキジが家来になりました。これは鬼を意味する〈鬼門〉が丑寅(東北)の方位(鬼はウシの角とトラの褌で表します)なので、その反対の〈裏鬼門〉の未申(西南)からサルが選ばれ、ヒツジでは頼りがないのでイヌとトリ(キジ)が選ばれたという説があります。しかし、どうでしょうか。いささか、こじつけが過ぎるようにも思えます。
私はむしろ、イヌは忠義の象徴、サルは智恵の象徴、キジは勇気の象徴として見る方が妥当な気がします。すなわち、キジのオスは強い相手にひるまず、勇ましく襲いかかって行きます。敵が現われれば素早く威嚇し、注意を引きつけて追い払います。またメスは自らの羽と同色の土に巣を作って産卵し、羽化するまで決して動じません。じっと潜んで敵の目を欺きます。その愛情の深さは、たとえ人間の草刈り機によって首を飛ばされても卵(子供)を守るとされるほどです。
私はこの事実こそ、キジが日本の国鳥となった理由ではないかと思っています。小さな島国であり、また小さな体でありながら大国の巨人に立ち向かう日本の漢と、たとえ命を落とされても子供を守らんとする日本の母を象徴するからです。
今朝もキジの鳴き声で目が覚めました。「ケンケーン」というあの甲高い音律が、私にはクジャクにも似た真言密教の響きにも聞こえます。生きるための欲を否定するのではなく、その欲によってこそ浄らかに生きる道を示しているかのように聞こえるからです。まさに『理趣経』(真言密教の代表的経典)の「大欲清浄」です。
仏画展拝観
令和3年5月9日
今日は寺の方々と法友・越塚勝也師(埼玉県久喜市・遍照院住職)の仏画展を拝観しました。毎日のお護摩を修し、昼食をいただいてから車二台にて10人で出発。現地直行の方が三人で、合わせて13人が集まりました(写真・会場の遍照院会館〈祈りの美術館〉にて、正面中央が越塚師、その左が私)。
互いに若い頃からのつき合いで、越塚師は仏画を、私は著作を志しました。あれから30年近くが過ぎ去り、越塚師の仏画は多くの人々に知られるところとなりました。今では各地で仏画展を開き、教室での指導にも当たっています。その作品はいずれも息をのむばかりの色彩で、到達した技術の高さに一同が眼をうばわれました。
お大師さまは真言密教の悟りを単なる言葉ではなく、異次元的な形や音、色や響きをもって表現なさいました。その代表が曼荼羅であり、声明の音律でありましょう。仏画もその一つであって、一瞬にして仏の世界に引入させる力を持っています。越塚師のあたたかい人柄に触れ、皆様が法悦のひとときを過ごすことができました。
一道を極めることは、並みの努力では成し得ません。越塚師の歩んだ道が、またこれから歩まんとする道が、さらなる彩りにつつまれることを願っています。ありがとうございました。
端午の節句
令和3年5月5日
今日は〈端午の節句〉で、菖蒲や柏餅をお求めになった皆様もいらっしゃると思います。午後にちょっと買い物に出ましたら、スーパーの特設売り場で、菖蒲を買う方があまりに多いのには驚きました。また、隣りの和菓子屋さんの前には20メートルもの行列があり、柏餅を求める方々でいっぱいでした。店内への入場制限からとは思いましたが、それにしても日本の風習もまだまだ健在のようです。
私の生家(栃木県の農村)には湧き水があり、そこに天然の菖蒲が生えていて、端午の節句に事欠くことはありませんでした。昔の天然の菖蒲は香りぷんぷんで、湯に入れると、それこそ〈香湯〉そのものだったのです。また、以前は川越のご信徒さんが端午の節句ともなれば、頼まずとも天然の菖蒲を届けてくださいました。その方が他界なさって以来、私は菖蒲湯に入ったことはありません。なぜなら、売られている菖蒲を手にしても、たいした香りがしないからです。
柏餅にしても、実家のまわりには柏の木がありましたから、これにも事欠きません。また、堂々たる〈鯉のぼり〉が屋根上まで列をなし、家々がそのカラフルな数を競ったものでした。今時のようにマンションやアパートのベランダに見る鯉のぼりは、何ともメダカ(失礼!)ほどにしか映りません。
端午の節句も、本来は旧暦(つまり約一ヶ月先)での風習です。梅雨に入れば大雨や疫病といった被害をもたらすので、その邪気を祓うという意味から菖蒲の香りが尊ばれました。また、菖蒲の葉は日本刀に似ており、その名も〈尚武〉に通じます。鎧冑を飾るのもこの由来からで、武家では特に重んじました。実際、正面に菖蒲を飾った冑も作られました。
また柏の木は冬になっても葉が落ちず、新芽が出るまで落葉しません。つまり後継ぎを絶やさないとう縁起から、柏餅を食べるようになりました。昔の農村では山ほどに作り、神前や仏壇にも供え、親類にも配りました。私が子供の頃は、10個ぐらいは平気で食べたものです。
鯉のぼりはともかく、菖蒲湯や柏餅といった古き良き日本の風習が、永く続いてほしいと願わずにはいられません。文化はこんなところから生まれるからです。私も来年からは、天然の菖蒲を求めることにいたしましょう。