続・「お母さん」という呼び名
令和2年7月31日
かすりの着物に帯をしめた幼女が、信州の山道を犬といっしょに駆け上がります。そして夕焼けに染まった丘の上で、右手の野菊を頬に寄せ、「おかあさ~ん!」と、大きな声で叫びます。そのお母さんから、暖かい味噌汁をよそってもらう幼女のうれしそうな姿が障子の影絵となって映し出され、日本中の人々がそれをうっとりと見ていました。
記憶にある方もいらっしゃるでしょう。昭和43年、ハナマルキ味噌はこのテレビCMで一世を風靡し、たちまちに全国ブランドとなりました。私は今では、ほとんどテレビを見ることもありませんが、実は放映されるCMには関心が高いのです。そして、戦後の限りない放映の中でも、ハナマルキ味噌『おかあさん』は傑作の一つだと思っています。
このCMの初代タレントを田中奈津子ちゃんといい、当時はわずか三歳でした。CMの監督はこの奈津子ちゃんを、たそがれ時の丘の上に連れて行きました。そして、実際のお母さんを木陰に隠しておいて、「お母さんを探してごらん」と言いました。そして、奈津子ちゃんが大きな声で叫ぶシーンを大アップで撮影しました。あの臨場感は、実際のお母さんがそこにいなければ出せません。茶の間の視線をくぎ付けにした秘密は、そこにあるのです。
このCMが大当たりした勢いなのか、今度は「おとうさ~ん!」バージョンも作ろうという企画があると聞き、私は「これはダメだな」と思いました。暖かい味噌汁は、お母さんが作るから心をゆさぶるのです。お父さんが作って、どうするのですか。テレビ放映を見た記憶がありませんから、NGになったことは疑いありません。また、このCMにあやかり、うどんメーカーなどが同様の演出で制作を試みましたが、ことごとくボツになりました。
そもそも、ハナマルキ味噌『おかあさん』は〝お母さん〟だから受けるのです。ハナマルキ味噌『おとうさん』でサマになりますか。そして、味噌汁だから〝お母さん〟なのです。「おふくろの味」の代表が味噌汁なのです。うどんは誰が作ってもいいのです。たしか、「オヤジのうどん」というお店がありましたが、倅でも娘でもいいのです。
しかし、味噌汁だけはお母さんでなければいけません。味噌は単なる調味料ではなく、はかり知れない慈愛と底力があるのです。日本のお母さんも、味噌のような慈愛と底力があるのです。そして「お母さん」という呼び名には、それだけの重みがあるのです。日本人は男も女も、老いも若きも、お母さんの味噌汁で育ったことを生涯忘れてはなりません。
なお、上記のテレビCMは、現在でもネットの動画で見ることができます。今日の私のブログを読んでなつかしくなった方は、ぜひご覧ください。「ハナマルキ味噌おかあさん」で検索を。
「お母さん」という呼び名
令和2年7月30日
女性が自分の配偶者を第三者に語る場合、ほとんど「夫」か「主人」と呼びます。これには何の抵抗もなく、自然に聞くことができます。まれに「亭主」となどと呼ぶ方もいますが、数の上では少ない方でしょう。
ところが、男性が自分の配偶者を語る場合、これがどうもスッキリしません。私の意識が過剰なのでしょうか。まず「妻」と呼ぶと、何か改まった固ぐるしさを感じます。浄瑠璃『壺阪霊験記』の「妻は夫をいたわりつ」ではありませんが、影でずっと苦労しているような、そんな響きさえあります。結婚しても苦労するのは当然でしょうが、どこか悲しいニュアンスさえ漂います。唄の文句で「愛しても愛しても人の妻」などと聴くと、もう返す言葉もありません。
同様に「女房」は、ちょっと卑下した感があります。男性が「女房のヤツ」と言った場合、照れもありましょうが、「オレが食べさせてやっている」という慢心が浮上します。もともとは宮中の女性使用人の部屋を「女房」と言い、やがてその女性たちをも「女房」と呼んだのですが、現代は好まれません。
では、グッとさばけて「かみさん」はどうでしょう。吹き替え版『刑事コロンボ』の「ウチのかみさんがねえ」のあのかみさんです。かみさんは「上さん」で、「上様」の変化です。尊敬を込めていますが、逆に目上の人には使えません。女主人の「おかみさん」なら自然ですが、これも配偶者には使えません。
こうなると、「家内」が最も無難な気がしますが、今度は古い呼び方に聞こえます。ウカンムリ(家)の中に〈女〉がいれば〝安心〟ですし、また〝安らぎ〟ます。だから「家内」と言いますが、結婚したての若い男性には向きません。子供が授かれば「ママ」でいいでしょうが、第三者にはどうしましょうか。私がこだわるのは、こんな理由からなのです。
さて、「お母さん」を乱暴にして「かあちゃん」や「かかあ」などと呼ぶ男性もいます。子供なら「かかさま」です。しかし、ここに象徴的な日本文化があると言ったら驚くでしょうか。実は「かあちゃん」は「かあかあ」、「かかあ」は「かっか」なのです。何のことかわかりますよね。そうです、太陽が燃えている様相を表わした言葉です。つまり、日本人はお母さんこそは太陽であると考えて来たのです。いつも暖かく、にこやかで、生命をはぐくむ太陽こそ、お母さんなのです。だから子供が授かった後は、「お母さん」と呼んでほしいと私は願っています。
ちなみに「お父さん」は、「尊い」という意味です。お父さんは懸命に働いていつも尊い、また尊くありたいからです。お母さんを太陽と、お父さんを尊いと、それぞれに美しいに日本語です。
続・笑いは万薬の長
令和2年7月29日
遺伝子の研究で知られる村上和夫博士が「心と遺伝子研究会」を立ち上げ、大変におもしろい実験をしました。それは、糖尿病の患者さんに協力していただき、笑いと血糖値の関係を調べようというユニークなものです。つまり、笑いによってどの遺伝子のスイッチがオンとなり、またオフとなるかがテーマです。
実験は二日間に分けて行われました。まず一日目は、糖尿病の患者さん25名の人たちに集まっていただき、糖尿業について大学教授の講義を聞くという試みでした。大学教授の講義ですから、おもしろさは期待できません。普段どおりの調子で40分の講義を聞いていただいた後、全員の血糖値を測りました。前もって一度測っておき、講義の後にまた測って、その差を比較したのです。すると、平均で123ミリも上がりました。退屈な講義だったのでしょうか、予想外の結果でした。
次に二日目です。前日と同じ時間に、同じように実験をしましたが、今度は吉本興業のB&Bという二人組による漫才を聞いていただきました。いざ漫才が始まる前、村上博士は二人に、「もしこの実験が成功したら、間違いなく糖尿病研究の歴史に残りますよ。笑いと血糖値の関係など、まだ誰もやっていませんからね」と耳打ちしました。つまり、二人に気合を入れたわけです。予想どおりB&Bは乗るに乗り、聞く方も笑うに笑いました。いやはや、爆笑の連続でした。
さあ、その結果です。前日、同じ時間に退屈な講義を聞いて123ミリも上がった血糖値が、今度は逆に平均で77ミリも下がっていました。「これはいったい、どういうことですか」と、患者さんたちの目の色が変ったのも無理はありません。この実験結果は、アメリカ糖尿病学会の論文として掲載されました。さらに、笑うだけで血糖値が下がるという衝撃的なニュースは、ロイター通信などから全世界に伝えられました。
科学者は一生のうちに何度かは、飛び上がるほどの喜びに打ち震えるようです。自分が世界で初めて発見した快挙なら、なおさらのことです。博士もこの時はうれしくて眠れず、体ががたがたと震え出したそうです。科学者の実験としては、アホみたい(!)に単純なものです。でも、そのアホみたいな発想こそ歴史を変えるのです。
博士はいろいろな芸人さんを呼び、毎年この実験をくり返していますが、いずれも血糖値が下がっています。そして、この研究が進めば、いずれは薬の代わりにお笑いDVDを出すような病院が出て来るかも知れないと語っています。「食事の前後にこのDVDを見てください」と、そんな病院が現われるかも知れません。
笑いは決して〝笑いごと〟ではないのです(笑)。笑いは健康を増進し、病気の治療にもなることを知りましょう。「笑い万薬の長」に間違いありません。
笑いは万薬の長
令和2年7月28日
以前にも書きましたが、私は悩みごとの相談があった時、その方がよく笑うかどうかに注目します。
もちろん悩みごとがあってお越しになっているのですから、ケラケラと楽しそうに笑う方はいません。しかし、お話を伺いながら、前向きに笑える方、少しでも笑おうと心がけている方に対しては安心するのです。「ああ、この方は大丈夫だな」とホッとするのです。もちろん、病気のことでも仕事のことでも、夫婦や家族のことでも、ご祈祷はします。しかし、本人に願いごとを成就させる前向きのパワーが漂っているかどうか、そこが問題なのです。
そして、その前向きのパワーはどこに現れるかといえば、それは笑えるかどうかなのです。「ほんとうかな」と思うかも知れませんが、これは〝本当に〟ほんとうのことです。なぜなら、逆のことを考えればわかるからです。まったく笑わない方、私が笑わせようとしても、なかなか乗ってこない方には、まるで生気というものがありません。「困ったな」と思うのです。こういう方は、お護摩を修しても、どこか炎の勢いにパワーが遍満しません。
「〇〇さん、もっと笑いましょう。自分の顔を鏡で見ながら、無理にでも笑ってみましょう。そうすれば何とかなりますよ」などと励ますのですが、心の奥底にある性格はなかなか変わりません。本人もつらいのです。私が思うに、こういう方は前世からつらい思いをして来たのでしょう。その抑圧に深層意識が占領されているのです。また、似たような父母や祖父母のもとに生れて来ているのです。だから、こういう方の背中を押すのは大変なのです。
皆様も開運を願うなら、まず笑うことです。神社には「笑いの神事」を行うところがありますが、大変にけっこうなことで、参加すれば「福の神」を呼べるはずです。あのアマテラスの大御神ですら神々の笑い声に誘われ、ついに天の岩戸を開いたではありませんか。ここから国が開かれ、国の運が開かれたのです。福の神は、笑わなければ訪れてはくれません。また、「日本笑い学会」という研究グループもあります。ネットで調べてみてください。
「酒は百薬の長」と言いますが、飲み過ぎれば健康を害しますし、まわりに迷惑もかけます。そして、お金もかかります。舌が超えればなおさらで、さらに美酒を求めるようになります。でも、笑いはどれほど笑っても、健康を害することはありません。せいぜい、おなかの皮がよじれる程度です。お金もかかりません。一切無料です。しかも、福の神を呼び、幸運を招き、健康をもたらすのです。これほどのいいこと尽しは、この世にありません。「笑いは万薬の長」なのです。
日本人の誇り
令和2年7月27日
平成25年7月22日午前9時15分、さいたま市のJR南浦和駅の京浜東北線ホームで、電車から降りようとした三十代の女性が誤って車両とホームの間に足を踏みはずし、腰まで挟まれるという事故がおきました。ちょうどその時、読売新聞の某記者が居合わせ、その救出劇を写真入りで報道しました。
その報道によりますと、事故のその瞬間、ホームに「人が挟まれています」というアナウンスが大きな声で流れました。それを聞くや、車内の乗客40名が自主的に降車し、駅員と共に全員で車両の側面を押し、ホームとの幅を懸命に広げました。数分後、その女性が無事に救出されるや、一同から拍手がわき起こりました。そして、その電車は8分遅れで運転を再開しました。女性は念のため病院に運ばれましたが、目だったケガはありませんでした。
普通、車両とホームのすき間は20センチ程度なのですが、そこはいくらか広く空いていたようです。事故のあった車両は10両編成の4両目で、1両の重さは車輪を含めて32トンもあります。しかし、車台と車体の間にサスペンション(懸架装置)があり、伸縮させて車体だけを傾けることが出来たのです。このサスペンションが女性を救ったのでした。いや、駅員と共に車両を押した乗客の力が、この女性のいのちを救ったのでした。
そして、この報道はたちまち世界中に伝わりました。米国CNNテレビは、「日本からのすばらしいニュースです」という前置きの後にこの救出劇を報じ、「生死に関わる状況で、駅員と乗客が冷静に対応しました。おそらく、日本だけでおこり得ることでしょう」と結びました。英国各紙はロイヤルベビー誕生の特集を組む中、ガーディアン紙は「集団で英雄的な行動を示した」と、駅員と乗客がいっしょになって車両を押している読売新聞の写真を公開しました。
イタリアの主要紙コリエーレ・デラ・セラは、「イタリア人だったら眺めるだけだったろう」とウェブサイトにコメント。中国寄りの論調が強い香港のフェニックステレビのウェブサイトは、「中国で同様の事故がおきれば、大多数が野次馬となって見物するだけだ」と。その中国も、国営新華社通信が日本での報道を論評ぬきで転載し、韓国でも同様でした。
ロシアの大衆紙コムソモリスカヤ・プラウダは、「どうしてこんなに迅速な団結できたのだろう。われわれロシア人も他人のいのちに対して無関心であってはならない」と。タイのメディアも、「日本がまた、世界を驚かせた。日本人はどのような教育を受けているのか」と。そのほか、各国のメディアが称賛しました。
冷静さと、思いやりと、団結力と、日本人はこの誇りを忘れるべきではありません。JR南浦和駅は電車路線の乗り換え所で、あさか大師にご参詣の皆様もよく利用します。日本人の誇りを、皆様にもお伝えしましょう。
「追善」と「追悪」
令和2年7月26日
〈死〉だの〈葬儀〉だのと陰気くさい(私はそうは思いませんが)お話をしましたが、もう一つおつき合いください。
昔の葬儀(今でも一部は残っていますが)をいろいろ考えてみますと、「追善」という本義がいかに溶け込んでいたかがわかります。しかも深遠な仏教の哲理が、何の抵抗もなく民間の風習として広まっていたのです。往時の住職がいろいろと思案をめぐらせ、それを檀家の方々に伝えたのでしょう。
たとえば、私が子供の頃の農村の葬儀では配役を決め、行列を整えて墓地に向いました。その日のうちに土葬するためです。もちろん、今のように立派な霊柩車などありませんから、遺体は荷車のようなもので出棺しました。そして、その家の屋敷を出る時、竹で編んだ籠を振って小銭(硬貨)をまくのでした。そして、道端に落ちたその小銭を、大人も子供も夢中になって拾いました。なつかしく思いおこす皆様もいらっしゃるはずです。
これはいったい何を意味するのかといえば、死者に代って遺族が布施をする、つまり追善をするということなのです。死者に生前の功徳が足らないなら、あの世へ往っても心配です。だから、遺族が代って〝善を追う〟のです。子供の頃は、もちろんそんなことを理解していたわけではありませんが、このような風習の中で、死者の弔いをしたのでした。
また、これは三十年近くも前のことですが、私は依頼を受けて成田市(千葉)で葬儀をしたことがありました。この時は出棺の前に、会葬者の皆様にお団子ほどの小さなにぎり飯が配られました。私は初めて体験しましたが、これもまた死者に代っての追善であることは容易に理解されましょう。現在も、葬儀や法事ともなれば立派なお斎をふるまいますが、本来は死者に代っての布施、つまり追善であることを知らねばなりません。
この本義を熟慮するなら、僧侶の読経もまた「追善供養」と呼ばれることも得心するのです。僧侶が読経をするのは、遺体となって読経の機会すら失った死者に代わり、追善をすることにほかなりません。たとえその仏典の意味はわからずとも、仏さまの言葉を唱え、その功徳が死者に回向(供養)されるからにほかなりません。そして、さらに大切なことは、「追善」があるなら「追悪」もあるということです。死者は四十九日までは、中陰(この世とあの世の中間)にいるのです。遺族の声も聞き、遺族の姿も見えています。悪口を言ったり、遺産争いをしたりすれば、それは「追悪」となるのです。
葬儀や法事は単なる形式ではありません。「追善供養」なのです。本義を離れてこれを誤れば、「追善」は「追悪」に変ずることを肝に銘じましょう。
人生の菩薩とは
令和2年7月25日
私の母は長い闘病生活の後、三十三歳の若さでこの世を去りました。私が九歳の時です。
その日の朝、私は父から学校を休むように言われ、その意味もわからないまま、言いつけに従いました。母の枕もとでは、家族も母の親も何度も声をかけましたが、返答はありませんでした。そして、母がいよいよその臨終を迎えた時、大人たちはそれこそ天地が轟くばかりに慟哭しました。私は大人が泣くという姿を、その時はじめて目にしたのです。あまりの驚きと怖さにおののき、押し入れの中にもぐり込んで打ち震えてしまいました。
葬儀のさ中、祖母がまた慟哭を発し、読経していた僧侶までが驚いていたことを、今でもよく覚えています。その頃の農村では、もちろん自宅で葬儀を行いました。部落の人たちも分担して手伝い、その日のうちに土葬しました。葬儀社が入ることなどあり得ません。その部落の人たちまでが、祖母の慟哭につられていっしょに涙を流したものでした。
それから十五年後、今度は二十七歳の兄を亡くしました。兄の方は事故死で、これまた葬儀の折にはその友人たちが慟哭しました。つまり、若くして天命を終えた二人の肉親を、私もまた若くして見送ったのでした。その頃の日本人は、よく泣きました。今日のように通夜や葬儀の日でも、笑顔を見せるなどということがあるはずはありません。
母の死から六十年近くがたちました。その間、祖父母も父も亡くなりました。私は発心して僧侶となりましたが、先に旅立った二人の肉親こそは、仏縁に導いていただいた菩薩のように思えてなりません。なぜなら、死を知らなければ、また死がどのようなものであるかを知らなければ、私は人生の無常を知り、生きることへの意欲を持つことが出来なかったからです。先に死をもって知らしめてくださった肉親こそは、何よりも尊い人生の菩薩であったのです。そして流したその涙こそは、菩薩の瓔珞にも等しい至宝でありました。
だから、子供さんやお孫さんには、肉親の死というものを見せることが大切です。葬儀によって肉親との別れを経験させることが大切です。それによって人はいずれ死を迎えるという事実を知り、死者にとっては子供さんやお孫さんの声を聞き、生涯のすべてを納得するからです。たとえ肉親の間に相尅の関係があったとしても、それによってすべては虚空へと化すからです。僧侶が唱える読経も、新しい旅の門出を祈ることにほかなりません。
人生で最も重要な儀式
令和2年7月24日
私は子供の頃、一度だけ幽体離脱を体験しました。ある冬の日、炬燵に入ったまま横になってトロトロとした時でした。たぶん、わずか数秒だったと思います。横になっている自分の小さな体を、もう一人の自分が見おろしていたのです。天上あたりからだったと思います。意識はすぐにもどりましたが、驚きと共に、忘れ得ぬ体験となりました。これ以上になると臨死体験となって、いわゆる〝あの世〟まで旅することになるのでしょう。
シスターで国際コミュニオン学会名誉会長の鈴木秀子先生は、かつて講演先の修道院で足を踏みはずし、階段から転倒して床に叩きつけられるという事故に遭いました。その時、気を失ったのに、もう一人の自分が宙に浮き、転倒した自分を見つめていたそうです。そして、修道院の方々が救急車を呼ぼうとしていることなど、はっきりと見え、また聞こえてもいました。
鈴木先生は救急車が来るまで、修道院のベッドに寝かされていましたが、その間は不思議な光に包まれました、まばゆいばかりの光でした。その光を浴びつつ、至福の余韻に満たされました。まるで、神さまと一体でした。そのうち、ある外国人シスターの声が耳元で聞こえ、やがて意識がもどりました。
これも臨死体験の、一つのパターンなのでしょう。たいていは医師が腕時計を見て、家族や看護士に自分の死亡宣告をしている様子を天上から見たり、エレベーターのようなものに乗って異次元に向ったり、川岸にたどり着いたり、両親や祖父母に出会ったりするようです。肉親に出会った場合は、「こっちへ来てはダメだから帰りなさい」などと言われ、そこで意識がもどったという体験もよく聞きます。
こうした体験に鑑みてわかることは、臨終に近い病人はたとえ昏睡状態で意識がなくても、本人には周囲の様子がはっきりと見え、人の声も聞こえているという事実です。ただ、それに反応する肉体が衰え、半ば幽体化しているだけなのだという事実です。ここには重要な意味があります。今日のように医師が死亡宣告をするや、まるで死体をモノのように考え、すぐさま火葬場に向かうようなことは決してあってはなりません。再び蘇生する例もないとは言えませんし、人間としての尊厳を失わせる行為であることを戒めねばなりません。現代人の無知の一つは、死に対する思案の欠如によるからです。
臨終の折にも、葬儀の折にも、死者には何度も何度も語りかけることです。死者にとっても、家族にとっても、最後のお別れなのです。それぞれが「ありがとう」と言い合えるだけで、人生のすべてが清算され、すべてが解放されるのです。死はそれ自体が、人生で最も重要な儀式なのです。
ある街の入り口で
令和2年7月22日
ある街の入り口で、おじいさんが一人、大きな石に腰をかけていました。そこに若い男が一人、その街を訪ねてやって来ました。そして、そのおじいさんに聞きました。
「あじいさん、この街はいい街でしょうか。いい人がたくさんいるでしょうか。私は幸せになれるでしょうか」
「おまえさんが今まで住んでいた街は、どんな街だったのかね」
「それはもうイヤな街でした。意地悪な人ばかりで、つらい思いをしました。だから幸せになりたくてやって来たのです」
「そうだなあ、残念だが、この街もまた今までと同じだろうよ」
しばらくして、また別の若い男が一人、同じようにその街を訪ねてやって来ました。
「おじいさん、この街はいい街でしょうか。いい人がたくさんいるでしょうか。私は幸せになれるでしょうか」
「おまえさんが今まで住んでいた街は、どんな街だったのかね」
「それはもういい街でした。親切でいい人ばかりでした。私はとても幸せでした」
「そうかい、じゃあ、この街もまた今までと同じだろうよ。よかったなあ」
このお話は何を語っているのでしょうか。まず考えられるのは、自分が変らねば、自分の心が変らねば、何も変わらないということです。イヤだイヤだという思いで人に接していれば、その思いが心を占領するのです。だから、ますますイヤな人に囲まれていくのです。どんな街に行っても同じです。だから、自分が変らねば何も変わらないのだという教えなのでしょう。
さらに考えますと、いい人に囲まれるから幸せになるのではないという教えにも聞こえます。いい人が幸せをくれるのではなく、自分がいい人にならなくては、幸せにはなれません。自分がいい人になれば、まわりの人も少しずつ変わっていきます。少しでもいいところを見つけて接すれば、まわりの人も少しずつ変わっていきます。与えられるから幸せになるのではないのです。幸せはそれを見つけ出し、それを感じ取るものだからです。それを見つけ出し、それを感じ取れれば、幸せになれるのです。
ご飯にまつわる言い伝え
令和2年7月22日
昨日は「食事作法」についてお話をしました。こうした作法によって、仏教は食事の大切さをいかにして教えて来たかがわかりましたでしょうか。
ところで、私はこれまで、「この世で一番おいしいものはご飯です」と、どれほどお伝えして来たかわかりません。ご飯は特別な主張などしません。いたって平凡です。目立ちません。それなのに、一生つき合っても飽きません。一日だって、忘れることはありません。そして、どんな料理にもなり、どんな料理にも合い、どんな料理にも合わせられます。仮にたとえても、こんな人物がこの世にいるでしょうか。このことは、法話で何度も語り、本にも書きました。
私はお百姓の子として生まれ、幼い頃から田植えや稲狩りをして育ちました。忙しい農繁期などは、学校を休んでまでも手伝ったものです。だから、お米を収穫するまでの労働がどれほどのものであるかは、よくわかっています。米一粒が汗一粒でした。また、〈米〉という字は〝八十八〟と書きます。つまり、お百姓が八十八回もの手間をかけて育てたという意味です。それだけに、秋に収穫したピカピカの新米をいただく時は、家族一同で涙を流さんばかりに喜んだものでした。
お米は単なる食べ物ではありません。天照皇大神や氏神さまに献じ、仏さまが宿るとされる尊い供え物です。昔のお百姓は苦労して作ったお米も年貢に取り立てられ、自分たちはなかなか口にすることができませんでした。私は毎日お護摩を修し、飯食(お米)をその炎に献じています。しかしお大師さまの頃、お護摩に飯食を献ずるということは、黄金を献ずるにも等しかったのではないでしょうか。それほど貴重な供え物であったはずです。
それだけに、たとえ迷信とは思っても、日本人はお米にまつわるさまざまな言い伝えをして来たのです。いくつかは、皆様もご存知のはずです。
「ご飯をこぼすと目がつぶれる」は、それだけ大切にいただきなさいという子供への躾けでした。「ご飯を食べて横になると牛になる」は、これも行儀の悪さに対する躾けでした。牛は反芻胃なので、食べたものを口に戻しやすくするために横になります。牛にとっては当然のことですが、人が同じことをしてはいけません。「ご飯茶碗をたたくと餓鬼になる」は、早く食べたい、もっと食べたいという貪欲さを戒める言葉でした。貪欲な人は布施をしませんから、貧乏になり、食べられない胃腸の病気になり、餓鬼になるのです。これは迷信ではなく、本当のことです。「朝ご飯に味噌汁をかけて食べると出世しない」は、朝からゆっくりと食べられないような人は不作法でもありますが、余裕がない、計画性がない、だから出世しないとみなされたのです。さあ、どうでしょうか。