ご飯にまつわる言い伝え

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食事

令和2年7月22日

 

昨日は「食事作法じきじさほう」についてお話をしました。こうした作法によって、仏教は食事の大切さをいかにして教えて来たかがわかりましたでしょうか。

ところで、私はこれまで、「この世で一番おいしいものはご飯です」と、どれほどお伝えして来たかわかりません。ご飯は特別な主張などしません。いたって平凡です。目立ちません。それなのに、一生つき合っても飽きません。一日だって、忘れることはありません。そして、どんな料理にもなり、どんな料理にも合い、どんな料理にも合わせられます。仮にたとえても、こんな人物がこの世にいるでしょうか。このことは、法話で何度も語り、本にも書きました。

私はお百姓ひゃくしょうの子として生まれ、幼い頃から田植えや稲狩りをして育ちました。忙しい農繁期のうはんきなどは、学校を休んでまでも手伝ったものです。だから、お米を収穫するまでの労働がどれほどのものであるかは、よくわかっています。米一粒が汗一粒でした。また、〈米〉という字は〝八十八〟と書きます。つまり、お百姓が八十八回もの手間をかけて育てたという意味です。それだけに、秋に収穫したピカピカの新米をいただく時は、家族一同で涙を流さんばかりに喜んだものでした。

お米は単なる食べ物ではありません。天照皇大神や氏神さまに献じ、仏さまが宿るとされる尊い供え物です。昔のお百姓は苦労して作ったお米も年貢ねんぐに取り立てられ、自分たちはなかなか口にすることができませんでした。私は毎日お護摩を修し、飯食おんじき(お米)をその炎に献じています。しかしお大師さまの頃、お護摩に飯食を献ずるということは、黄金を献ずるにも等しかったのではないでしょうか。それほど貴重な供え物であったはずです。

それだけに、たとえ迷信とは思っても、日本人はお米にまつわるさまざまな言い伝えをして来たのです。いくつかは、皆様もご存知のはずです。

「ご飯をこぼすと目がつぶれる」は、それだけ大切にいただきなさいという子供へのしつけでした。「ご飯を食べて横になると牛になる」は、これも行儀の悪さに対する躾けでした。牛は反芻胃はんすういなので、食べたものを口にもどしやすくするために横になります。牛にとっては当然のことですが、人が同じことをしてはいけません。「ご飯茶碗をたたくと餓鬼がきになる」は、早く食べたい、もっと食べたいという貪欲どんよくさを戒める言葉でした。貪欲な人は布施をしませんから、貧乏になり、食べられない胃腸の病気になり、餓鬼になるのです。これは迷信ではなく、本当のことです。「朝ご飯に味噌汁をかけて食べると出世しない」は、朝からゆっくりと食べられないような人は不作法でもありますが、余裕がない、計画性がない、だから出世しないとみなされたのです。さあ、どうでしょうか。

山路天酬密教私塾

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