2019/11の記事

選ぶこと、選ばされること

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人生

令和元年11月30日

 

私たちの人生は、常に「あれかこれか」のいずれかを選ばねばなりません。つまり、二者択一にしゃたくいつせまられながら生きているということです。

いずれかを選ぶというということは、いずれかをてるということです。いずれかを捨てて、いずれかを選ぶということです。そして、いずれを選ぶかによって人生は大きく変わります。いずれをも得ることはできません。しかし、私たちは何かを捨てることによって、自分が望むものを手に入れることができるのです。

ところが、人生には自分が選ぶと同時に、大きな力によって選ばされることもあるのです。

私は仕事上、奈良や京都にはたびたび出向きましたが、ほかの観光地も外国もほとんど知りません。三年前に退職した折には隠遁いんとん生活にあこがれ、残りの人生を〝遊んで〟暮らしたいと思ったものです。退職金と年金と印税で、何とかなるだろうと思ったからです。そして、たまには知らない所へ旅行することを夢みたものでした。これは本当のことです。

しかし、結局は叶わぬ夢となりました。その夢を捨てて、私は新しい寺を建立することを決心したからです。寺など建てなければずっと楽でしたが、私の人生には許されませんでした。二者択一は、時に〝運命〟に選ばされることもあるのです。私は自分の意志で決心をしましたが、同時に、その運命によって選ばされたのです。

私たちは自分の意志で生きていることは事実です。しかし同時に、何か大きな力によって動かされていることも事実ではないでしょうか。過去の経験を回想すれば、自分が選んだというより、その大きな力によって選ばされていた事実に思い当たるはずです。自分の意志で選ぶことと、大きな力に選ばされるという同時進行が、いま皆様の身にもおこっています。

星祭りの伝授

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密教私塾

令和元年11月29日

 

 今日は僧侶の方お二人に、星祭りの伝授をしました。真言密教のお寺では節分に星祭りをしますが、伝授の機会はめったにありません。ただ、昔から伝えられるとおり、「数え年〇〇歳の方は、〇〇星です」と提示して、御札を祈願しているお寺がほとんどのはずです。

 また今頃になれば、本山ほんざん発行のこよみ檀信徒だんしんとの方に配っていますが、その暦に対する知識が乏しいように思います。つまり、檀信徒の方から「裏鬼門うらきもん」とか「姫金神ひめこんじん」といった説明を求められても、答えられません。私が『九星気学と加持祈祷かじきとう』(青山社)を刊行したのは、こうした理由からでした。求めに応じて各地で伝授をしてきましたが、一日あれば、だいたいの基礎は身につきます。星祭りを修する僧侶の方は、ぜひ暦の勉強をしていただきたいものです。

そこで今日も、午前中は暦の説明に費やしました。よく理解していただけたので、午後から荘厳しょうごん(お供えのしかた)と行法ぎょうぼう(お祈りのしかた)を伝授をしました(写真)。

 星祭りは伝授する内容が多く、また受者の方も覚えることが多くて大変です。伝授を終えた頃は、かなり疲れました。しかし、厄除の一種として、星祭り札を申込む方はかなり多いはずです。また、星祭りの行事を楽しみにしている方も多いはずです。皆様の求めに応じることは僧侶としての責務であると考え、これからも伝授を続けてまいります。

*また日にちが変ってしまいました。このブログは昨日のものです。

さらに、トイレのこと

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社会

令和元年11月26日

 

さらに、トイレのことです。

日本中のトイレには何十年もの間、「トイレを汚さないでください」というり紙がありました。ところが、平成に入った頃でしたでしょうか、「いつもトイレをきれいに使っていただき、ありがとうございます」に変わりました。気づかいをしてもらったうえ、サービスを受けた気分です。私は初めてこの貼り紙(シール)を見た時、どれほどにほめても、ほめ過ぎではないなと思いました。そして、「革命がおこるな」とつぶやきました。

事実、コンビニもスーパーも、駅も公園もこのアイデアを取り入れ、日本中のトイレが変わりました。コピーライターが用いる感謝法や共感法です。要するに、人は「汚さないでください」と命令されるより、「ありがとうございます」と感謝された方が気持がいいに決まっています。そして、きれいに使うことを互いに共感できるのです。「芝生しばふに入らないでください」なら命令ですが、「芝生に入ると農薬の臭いがつきます」なら誰もが共感するのと同じです。

公衆のトイレはそれまで、きたない場所の筆頭でした。それでも、だいぶ変わりました。駅や公園のトイレも、以前に比べればきれいになったと思います。日本人は清潔で、親切で、勤勉なはずです。残る課題は〝ゴミ捨て〟でしょう。いつも思うのですが、いい街というのは、ゴミやトイレに対する配慮がどこまで行き届いているかなのです。立派な公共施設があっても、ゴミが散乱し、トイレがきたなければ、人は寄りつきません。

トイレは生活するうえで、なくてはならないものです。お風呂には入らなくても、トイレばかりはどうしても必要です。私は毎朝、トイレの神さまにお香をそなえ、ご真言をお唱えしています。

トイレの中では

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健康

令和元年11月25日

 

よく、トイレの中に本を置いている方がいますが、せっかくの時間を有効に活用しようということでしょうか。トイレ内に、立派な本棚まで備えつけている方もいらっしゃるようです。しかし、トイレの中で、本を読んでいるほど時間がかかるものでしょうか。

私は本をよく読むほうですが、トイレの中には置きません。理由は簡単で、用を足す時間がきわめて短いからです。おしっこでもお通じでも、ほぼ一分程度です。とてもとても、本など読んでいる時間はありません。

そもそも、トイレに時間がかかるということは、おしっこなら膀胱ぼうこう前立腺ぜんりつせん(男性)に問題があるからです。またお通じなら、腸内環境に問題があるからです。私が気になるのは、駅の大用トイレの長い行列です。女性トイレのことはわかりませんが、男性が大用トイレに入るや、なかなか出て来ません。便秘なのか下痢げりなのか、現代人の腸内環境がいかに悪いかの証拠です。

昨日の大掃除おおそうじのお話と同じですが、健康はまずよい排泄はいせつをして、それからよいものを取り入れることが肝要です。よい排泄もできずに、どんなに栄養のある食事をしても、サプリメントを飲んでも、大した結果は得られません。

お寺の生活はまず掃除をして汚れやごみを取り除き、それから勤行ごんぎょうをして仏さまの功徳をいただくわけです。これは心身ともに大切なことで、この手順を忘れぬよう自戒しています。そして、毎日のこのり返しが大事だということもきもめいじています。

断・捨・離

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人生

令和元年11月24日

 

今日はあさか大師堂内の大掃除おおそうじをしました。12月に入るとまた忙しくなるので、「今のうちに」ということで9人の方が集まってくださいました(写真)。

昨年の暮から毎日、お護摩を修して一年近くがたちました。私の最初の予想では、一年で柱もかべも真っ黒になると思っていましたが、意外にそれほどでもありません。お護摩の折に、玄間や出入り口を開けっぱなしにしていたためでしょう。

それでも、目には見えずとも、かなりのススがまっていました。バケツの水を何度も取りえながらていねいにき清め、堂内が一新した気分です。これで心おきなく、新年を迎えられます。

ところで、皆様は年末の大掃除は、家をホコリをはらって新年を迎えるためだと思っているはずです。もちろん、それもありますが、本来は来年から不要なものを処分するという意味なのです。一年の間には、必要なものも手に入れたでしょうが、逆に不要なものも増えたはずです。つまり、家の中を〝だんしゃ〟して身も心も清め、その上で新年を迎えるということがもともとの目的だったのです。

そして、不要なものや悪いものを取り除いて、そのうえで必要なものやいいものを取り入れるというこの手順こそは、何ごとにおいても大切なことです。政治や経済の向上においても、仕事や趣味の上達においても、この手順を間違えるとうまくいきません。

私の身辺にも不要なものが集まりました。思い切って断・捨・離するつもりです。人生は過去を捨てなければ、未来は生かせないということです。

わかりやすく伝える

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思考

令和元年11月22日

 

たしか、福沢諭吉(?)でしたか、こんなことを言っていた記憶があります。

「文章を書くなら、たとえば昨日、田舎からやって来たお手伝いさんにでも、スグに理解するように書きなさい」と。

どこで読んだお話だったかは忘れましたが、いま、何となく思い出しました。しかし、「田舎からやって来たお手伝いさんにでも」とは、おだやかではありません。大変にむずかしいことです。

また、これもどかこかで聞いたことですが、「文章は大道芸人に混じって伝えるほど、わかりやすく書くべきだ」というのです。私もこのブログを書いていて、平易さを心がけてはいますが、ここまで言い切る自信はありません。

そもそも、むずしいことを〝むずかしく〟伝えることは簡単かんたんかも知れません(いや、それも難しいのですが)。しかし、難しいことを、やさしく伝えることは容易ではありません。特に、仏教の教えをわかりやすく伝えることは、よほどの力量がいるはずです。

私がお世話になった岩坪真弘いわつぼしんこう先生(淡路島・八浄寺はちじょうじ元住職)は、「山路さん、あなた自分が作った布教の言葉をしおりにしたとして、たとえば喫茶店のとなりにいる若い女子高生にも渡せますか」とおっしゃいました。つまり、見ず知らずの若い女子高生に対しても、理解してもらえるほど、やさしい言葉で布教しているかということなのです。

私はかなりショックを受けましたが、忘れ得ぬ経験でした。岩坪先生は伝道布教において偉業いぎょうをなし、また淡路島の発展にも大きな足跡そくせきを残されました。今は亡き岩坪先生に出会ったことを、心から感謝しています。

深遠なお話をわかりやすく伝える力量は、社会のリーダーには特に問われることです。政治家にも、経営者にも、学者にも、そして僧侶にも問われることです。平凡なお話の中にこそ、真理がひそんでいるということです。

終身犯

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令和元年11月20日

 

昔のアメリカ映画ですが、実話を元にした『終身犯しゅうしんはん』という作品がありました。

主人公のロバートは、恋人に乱暴をした男を殺した罪で懲役12年の判決を受け、刑務所に服役ふくえきしていました。しかし、母のエリザベスを侮辱ぶじょくした看守をさらに殺してしまい、死刑を宣告されました。ロバートはいうなれば、殺人という最も恐ろしいごうを背負って、この世に生れて来たのです。しかし、悲しんだ母が嘆願運動たんがんうんどうを行った結果、終身刑にまで減刑げんけいされました。

ある日、彼の独房に一羽のきずついた小鳥が迷いこんで来ました。退屈ですることもなかった彼は、この小鳥にかぎりない愛情を注ぎました。独房の貧しい食事を与え、必死に看病を続けました。そして、ついにその小鳥が元気を回復して飛び立った姿を見て、彼はこれまでに味わったことのない人生の喜びに打ちふるえました。

彼はその後、独房で許されるかぎりの鳥を飼育し始めたのです。そのための研究書も取り寄せ、同好の人とは文通での相談役にもなりました。彼の研究はいよいよ深まり、論文も高く評価され、その道の権威けんいにさえなりました。また、彼の業績に対する減刑運動が起こったり、彼の論文に共鳴した未亡人のステラと獄中結婚までしたのです。

そして、彼の獄中での態度も評価され、やがて他州の刑務所に移されることになりました。新たな刑務所で鳥の研究ができることに夢をいだきつつ、終身犯のロバートは希望に満ちた未来に向かうのでした。

殺人という狂悪な犯罪と、献身を捧げる美しい慈善と、人の心にはいずれともなく秘められています。ただ、そのえんに触れてごうもよおし、悪事に染まらぬことで、人はまずまず平穏へいおんに生きられるのです。しかしさそいは、いつ訪れぬともかぎりません。

雑草いけばな

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挿花

令和元年11月19日

 

尼崎市の飯尾一渓いいおいっけいさんが、「雑草いけばな」という新分野を提唱ていしょうしました。

〝いけばな〟とはいっても流派の生け花ではありません。道端の野の花を石やガラスびん、切り株や竹の皮といった身辺にあるものに、さりげなくすだけなのです。これがまた独特の魅力に富み、お店の花にはない格別な世界を作り出します。

飯尾さんははじめ、障害児教育のためにこれを創案しました。しかし、その美しさに引かれた人たちがしだいに集まり、花も買わず、花瓶も使わぬ「雑草いけばな・一渓会いっけいかい」が立ち上がりました。大阪・梅田のカルチャースクールや東京・お茶の水女子大などに教室を開き、会員は千人を超えたといいます。

もちろん、「雑草」という名の花はありません。どんな花にも学名があります。しかし、無用とされ、さげすまされた花がアレンジしだいで見違えるようによみがえる姿はお見事としかいいようがありません。「雑草は見向きもされません。誰の力も借りずに育って、人知れず散っていきます。その無心の姿を、無心のままに受け止めるんです」と、飯尾さんは語ります。

私は数年前、当時八十一歳の飯尾さんと電話でお話をしました。そして、「最後の一冊なんですが、あなたに差し上げましょう」と言って、カラー写真の本も送っていただきました。私の宝ものです。お元気でいらっしゃるでしょうか。

最後まで大切なもの

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人間

令和元年11月16日

 

昨日、人の悩みで最も多いのは、病気とお金と対人関係だとお話しました。

しかし、さらに考えてみますと、病気の悩みは、病気そのものが悩みであると同時に、その病気によって迷惑をかけている家族や職場の人たちのことが気になるものです。またお金の悩みも、お金そのものが悩みであると同時に、それによって迷惑をかけている人たちが必ずいるものです。つまり、病気もお金も、つきつめて考えれば人間どうしの問題、対人関係の問題だといえるのです。人間の問題はやはり、行き着くところ人間なのです。

たとえば、職場の中を考えてみましょう。職場では仕事の成績でも悩むでしょうが、最もやっかいなのは人間どうしの対人関係です。顔も見たくないという上司がいるかも知れませんし、パワハラやセクハラもあるでしょう。また、同僚からのいじめに悩んでいる人も、キリがありません。

趣味のサークルもまた同じです。上達したかどうかで悩むより、サークル内の対人関係で悩むのです。仲間外れにされたり、お茶や食事にさそってもらえず、独りで悩んでいる人が必ずいるものです。

人間どうしのつき合いこそは、人生最大の課題です。自分の考えや意見ばかりを押し通すようでは、うまくいくはずがありません。また、人の立場を思いやる幅広い心と誠意が必要なことはいうまでもありません。最後まで大切なものは、人柄ということです。

私の仕事

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仕事

令和元年11月15日

 

あさか大師では毎日、いろいろなご祈願が寄せられます。その多くは護摩木ごまぎ(お願いごとを書く小さなお札)に書き、日ごとに「願いおき護摩木」のたなに並べられます。特に手術や受験などは、10日間とか1ヶ月とかが続けて並べられます。私が毎日お護摩を修する理由は、こうして毎日お願いごとが寄せられるためでもあります。

「ゆりかごから墓場まで」といわれますが、人の悩みは生れれた瞬間から尽きません。発育にも、風邪にも、ケガも、いじめにも、親は心配します。さらに、受験があり、就職があり、結婚があり、出産があり、孫が生まれれば、その孫をまた心配します。つまり親は子を、子はまたその子を心配するのが人の一生なのです。

寄せられる悩みを見ると、最も多いのは病気です。つまり、人はまず何よりも健康を望むということです。健康でなくては働けませんし、健康でさえいれば何とかなると、ほとんどの方が思っています。健康こそは、人生最大の願いなのです。

次はお金のことです。お金が人生のすべてではありませんが、お金がなくては生きていけません。商売をしている方ならなおさらです。とにかく、売り上げを伸ばさねばなりません。営業マンなら、契約も取らねばなりません。もちろん主婦は、家計のやりりをせねばなりません。借金があれば、返済せねばなりません。

そして次は、夫婦や家族、あるいは職場での対人関係です。夫婦や家族といえども、どこまで理解し合っているかは多いに疑問です。また職場でも、人は仕事そのものよりも対人関係に悩むのです。職場の対人関係に悩んで、うつ病になっている方がいかに多いかは、想像を絶するものがあります。

つまり、人の一生は病気とお金と対人関係こそ、最も多い悩みだといえるのです。いうなれば、これらの悩みに立ち向かい、いかに解決するかが私の仕事なのです。また多くの寺院や神社があり、占い師がおり、カウンセラーがおり、その中で私を選んでいただけることが、私の仕事なのです。

山路天酬密教私塾

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