人生の極意とは何なのか

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真言密教

令和5年3月12日

 

あさか大師では〈一食布施いちじきふせ〉をお願いしています。お願いすると同時に、これによって「功徳を積みましょう」とおすすめしています。一食布施とは一食分の食事代ほどを、月に一度寄進していただくものです。ほんの小銭でもよいので、ご協賛をいただいておりますが、もちろん私もいっしょに布施をしています。昨年は〈ウクライナ緊急募金〉として、先日は〈トルコ・シリア地震緊急募金〉としてユニセフに送金をしました(写真)。

ところで、私は弟子僧(真言行者)の方々に、行法ぎょうぼう(仏さまと感応する方法)の伝授をして修行の手ほどきをしています。そこで、「修行とは何なのか」という根本のお話も加えています。つまり、真言行者は大壇だいだん護摩壇ごまだんの前に座って何をするのかという説明をしているわけです。

結論から申しますと、「それは仏さまがお喜びになる供養をするのです」とお話をします。たくさんの仏具を前にして、コチョコチョやっていますが、あれは仏さまを供養をしているということになります。では、供養とは何かといいますと、これを〈六度ろくど〉といい、布施ふせ持戒じかい忍辱にんにく精進しょうじん禅定ぜんじょう智慧ちえの六項目をいいます。しかし私は、「すべては布施にたどり着くのですよ」とお話をしています。なぜなら、戒を守ることも、苦難に耐えることも、精進をすることも、禅定に励むことも、智慧を得ることも、すべては仏さまへの布施であるからです。

人はみな、あれが欲しいこれが欲しいと思って、手に入れることばかりを考えて生きています。しかし、手に入れるためには、先に何かを与えねばなりません。だから、本当に豊かな人はみな与えることを喜び、与えることを楽しんでいるはずです。つまり、人が喜ぶことを与えれば、必要なものが望まずとも入ってくることを知っているのです。

布施の喜びを知ると、我欲から離れます。人が喜ぶことが自分の喜びになるからです。そして、仏さまはそれをお喜びになり、その人を讃え、功徳を与えるのです。修行とは結局、布施にたどり着くという意味がおわかりでしょうか。

一食布施はささやかなものですが、これも〝ちりも積もれば〟で、皆様の功徳が積ることを願ってやみません。真言密教の行法は仏さまに直接アプローチしますから、功徳は絶大です。ただ、それは真言行者が六度の供養をどのように理解し、これを実践しているか否かにかかっています。つまり、布施の喜びを知ることが修行の極意なのです。皆様もまた、「人生の極意は布施の喜びにある」とお思いになられませ。

山路天酬密教私塾

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