令和4年5月27日
「忙中に閑あり」とは、よく聞くことばです。〈閑〉は〝ひま〟とか〝しずか〟という意味ですから、一般には「忙しい中にも、少しは息抜きをする時間があるものだ」というほどに解釈されましょう。つまり、忙しくてもコーヒータイムぐらいはあるということなのです。
しかし、私にはどうもスッキリしません。意味が凡々とし過ぎるからです。その程度の意味なら、特に格言というほどのものとは言えません。つまり、もう少し深い意味が隠れているように思うからです。
たとえば、皆様は頼みごとをする時、どんな人に頼んでいるでしょうか。誰それは忙しいから、ヒマなあの人に頼んでみようと、そう思ってはいないでしょうか。ところが、これではたいてい後悔します。ヒマな人は、まず何もしてくれません。私は何度も経験しました。ところが、忙しい人ほど、寸暇(!)を惜しんで動いてくれます。しかも、スピーディーにです。
なぜかというと、忙しい人ほど、時間の大切さを知っているからです。「時はなり」と言いますが、お金で買えないものも、また時間です。だから、忙しい人は短い時間でも集中します。一気に動いてくれます。だから、頼みがいがあるのです。一方、ヒマは人は時間の大切さを知りません。頼みごとをしても、「考えておきましょう」ぐらいの返事しかしません。
私は本を読まないという日はありませんが、それは忙しいから読めるのだと断言します。忙しいからには、そのわずかな時間に、その本から何かを得ようとして集中します。それこそ、鷹が獲物を襲うような視線で立ち向います。だから、得るところも多いのです。ただ、何となくヒマだから本でも読もうなどという場合は、ほどんど得るところがありません。
「忙中に閑あり」の本当の意味は、忙しい時ほど、そのわずかな時間を生かせるものだということではないでしょうか。さらに、同類の名言があります。「死中に活あり」は死んだ気になってこそ、本当にがんばれる。「苦中に楽あり」は苦しみを味わえばこそ、わずかな楽しみでも見い出せる。「壺中に天あり」は、世俗につかった生活をすればこそ、自分の別天地を見い出すことができるといったところです。
これらの名言は反対語が対になって、私たちに迫ります。逆も真なりと言いますが、思考が熟すとこうした結論に至ります。私がよくお話をするのですが、人は病気をするから健康なのです。病気になれば、医者に行きます。医者にきびしく言われればお酒をやめたり、生活習慣を改めます。だから、健康を保っているのではないでしょうか。熱も痛みも大事なお知らせです。病気は健康を守ろうとする尊い働きなのです。
いや、またお話がそれそうですね。このへんで。