厄年を役年に変える
令和4年12月16日
あさか大師の境内に、令和5年の厄よけ・災難よけの早見表が立ちました(写真)。どなた様も境内に入るや、じっと見るのがこの一覧表です。先日は30分近くも、メモを取りながら立ち尽くした方もいましたから、よほど気になったのでしょう。この一覧表は、ホームページ「厄よけ・災難よけ」欄でも見ることができます。
私がなぜ〈厄除祈願〉に関心を持ったかといいますと、人は自分のことが一番気になるのだということを思い知らされたからです。この世で、人が最も大切にしているものは何でしょうか。それはもちろん、自分自身です。人は自分をこの世で最も大切にしつつ、自分に関心を注いでくれて、自分が認められることを願って生きています。そして自分の顔や名前を覚えてくれる人に近づき、自分の話を聞いてくれる人を好きになり、自分が望むものを与えてくれる人を大切にするのです。
たとえば、私が「お大師さまがこのようにおっしゃっていますよ」といっても、多くの人は興味を持ちません。しかし、「何と、あなたは今年が大厄ですよ」といえば、身を乗り出して聞き入るのです。昨日、占いのことを書きましたが、人が占いに興味をもつ理由もここにあります。つまり、自分のことだから関心を持つという、ただそれに尽きるのです。
だからといって、私は決して厄年をいたずらに煽り立てているわけではありません。お寺に関心をもっていただければ、それだけでもいいのですが、それが信仰への糸口となるからです。厄よけのお祓いを受けても、心がけが変わらねば意味がありません。また開運への道は、衰運期(厄年)の過ごし方で決まることも知らねばなりません。人生は万事、うまくいくように準備をするからうまくいくのです。厄年の時こそ健康に配慮し、身辺を整理し、必要な段取りを進めれば、それこそ〈役年〉、つまり役立つ年になるからです。だから、厄年こそは、開運へのチャンスなのです。
あさか大師では元旦から節分までの午前9時から午後4時まで、随時お護摩を修します。節分までを〈新春祈願大祭〉として休みなく続けます。ぜひ、お参りにお越しください。
斎藤茂吉・茂太の厄よけ法
令和2年1月19日
医者であり、またすぐれた歌人でもあった斎藤茂吉と長男・斎藤茂太にまつわる、厄よけ法のエピソードが残っています。
茂吉は大正九年、まさに四十二歳の大厄の折、流行のスペイン風邪(インフルエンザ)にかかりました。当時は死亡率も高く、なかなか快方に向かいませんでした。痰に血が混じり、熱も下がりません。あまりに長引くので、温泉で療養することになりました。ほぼ一年にわたって九州各地の温泉場を回り、好きだったタバコも絶ち、その間に多くの秀歌を詠みました。療養のかいあって回復した茂吉はその後も活躍し、七十二歳まで生き続けることができました。この時代では、かなり長命であったと思います。
一方の茂太は昭和三十八年に大厄を迎えました。新宿と府中の病院をかけ持ちで、超多忙の生活でした。往復の車を運転しながら、妻におにぎりやサンドイッチを口に入れてもらうような始末で、帰宅は深夜二時・三時であったようです。
そんな茂太を見て母親が、「厄年なのだから気をつけなさい」と忠告し、厄よけのいい方法を教えると言い出しました。「家から一番近くて交通量の多い交差点で、おまえが使っているフンドシを落としてくれば厄よけになる」とのことでした。茂太はそんな恥ずかしいことなどできるわけがないと、断固として母親の忠告を聞き入れませんでした。健康に対する自信は相当にあったようです。
ところが茂太は間もなく、睾丸炎にかかりました。奇しくも下半身の病気で、フンドシを落とす厄よけ法を思い出したのは申すまでもありません。「こんなことならフンドシの一本ぐらい落としておけばよかった。睾丸(後悔)先に立たずだ」と、ユーモアあふれる洒落を残しています。またまた母親から「川崎大師へお参りに行け!」と命ぜられ、今度は素直に従いました。このような著名人でも厄年に思い当たり、厄よけを心がけていたというお話であります。
私がなぜ「厄よけ・災難よけ」に関心を持ったか
平成31年3月22日
当山ご祈祷の中心は「厄よけ・災難よけ」でございます。そして、玄間のわきには「厄年早見表」と「災難よけを必要とする人」の一覧表を設置しておりますので、境内に入れば、まずは目につくはずでございます。
当ホームページにも、一覧表を掲載しております。
私がこの「厄よけ・災難よけ」に関心を持ちました理由は、世の中の人というものは何よりもまずは自分のこと、自分を中心にものを考えるのだという事実に気づいたからなのでございます。そんなことは当たり前だとお思いになるでしょうか? 実は世の中のほとんどの人がこの事実をわかっていないか、無関心であるか、いずれかなのでございます。 –> 続きを読む