私がなぜ「厄よけ・災難よけ」に関心を持ったか

平成31年3月22日

 

当山ご祈祷の中心は「厄よけ・災難よけ」でございます。そして、玄間のわきには「厄年早見表」と「災難よけを必要とする人」の一覧表を設置しておりますので、境内に入れば、まずは目につくはずでございます。

「厄年早見表」と「災難よけを必要とする人」の一覧表

当ホームページにも、一覧表を掲載しております。

厄よけ・災難よけ | あさか大師ホームページ

私がこの「厄よけ・災難よけ」に関心を持ちました理由は、世の中の人というものは何よりもまずは自分のこと、自分を中心にものを考えるのだという事実に気づいたからなのでございます。そんなことは当たり前だとお思いになるでしょうか? 実は世の中のほとんどの人がこの事実をわかっていないか、無関心であるか、いずれかなのでございます。

人と話をする時、私たちは自分の考えや意見を述べるでしょう。そして、少しでも自分の意見を多く伝え、相手を説得したいとも思うでしょう。しかし自分が話をしているその相手の立場になって、その相手がはたして何を考え、何を述べたがっているかを冷静に思案できる人はほとんどおりません。人はそれだけ自分がかわいいからなのでございます。

逆に、自分が話を聞く立場になっても、それは同じでございます。どこで何があったとか、誰が何をしたなどといったことよりも、人はまず自分のこと、自分に関した話をしてほしいのでございます。

寺の住職が、お釈迦さまがこうおっしゃっている、お大師さまが著書でこんなことをお書きになっているなどと話をしても、人はさほどに関心を持ちません。しかし、「あなたは今年は大厄ですよ」とか「今年は裏鬼門に入るから気をつけなさいよ」などと話そうものなら、事態は一変します。「大厄とは何ですか」とか「裏鬼門とは何ですか」などと、たちまちに関心を寄せるはずでございます。なぜなら、話はまさにこの自分のことであるからでございます。それほどに、人は自分がかわいいからなのでございます。

毎年、厄よけや災難よけをなさる方があまりに多いことには、驚くほかはございません。そして、厄よけや災難よけで寺を訪れるほどになれば、今度は経典や宗祖の話にも耳を傾けるようになるのも、また奇妙と申すほかはございません。人というものの不思議さ、面白さの一端をかいま見る思いでございます。

山路天酬密教私塾

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