地球温暖化の正念場
令和3年8月11日
ここ数日、すさまじい猛暑日が続いています。今日は沖縄から修行僧の方が参り、先ず第一声、「何という暑さですか!」と。本来なら沖縄の方が暑いのではと思いきや、海風がさわやかで当地よりはるかに涼しいとのことでした。気温はもちろんのこと、湿度の高さが猛暑を呼ぶからです。
埼玉では熊谷、群馬では前橋、山梨の甲府など、関東の猛暑地は知られるところとなりました。しかし、本年では北陸・東北・北海道にいたるまで、信じられない気温を記録しています。先日、旭川での37.6度にはさすがに驚きました。そもそも日本の夏に、北海道でクーラーを設置することなど、あり得ないことでした。しかし、今ではクーラーなしでは暮らせないと言います。北の海にピラニアが生息する時代でも来るのでしょうか。
国連は気候変動に関する政府間パネル(JPCC)の報告書において、地球温暖化の原因を「人間活動の影響にあることは疑う余地がない」と発表しました。つまり、この温暖化の原因は間違いなく人間が引き起こしたものであると断じています。その原因の第一が、二酸化炭素を代表とする温室効果ガスであることは自明のことです。
私たちの生活は自動車なしでは過ごせません。猛暑を乗り切るエアコンも、テレビもパソコンも、冷蔵庫も洗濯機も必要なものです。しかし、その利用度が増えれば増えるほど、大量の二酸化炭素が排出され、地球温暖化を加速させています。さらに森林の減少によって、二酸化炭素の吸収量が減っていることも、その原因です。熱帯雨林さえ、農地の拡大によって伐採が進み、酸素の排出量を縮小させています。
対策はいっそう急がねばなりません。自動車や家電メーカーへの期待も高まりますが、私たちが日常の省エネに努め、水道水を節減し、買い物にはマイバックを使用し、庭やベランダで植物を育てることも大切です。まさに地球温暖化への正念場に来ています。
「運が悪かった」からか
令和3年5月20日
先日、こんなお話をうかがいました。その方は車の運転をするのですが、長年にわたって無事故・無違反で、いわゆる〈ゴールド免許〉が自慢だったそうです。ところが最近、たまたま一時停止の道路標識を見落とし、パトカーの警察官に検挙されてしまったそうです。私はその方が冷静で慎重な性格であることを知っていましたので、とても残念なことだと思いました。めったにないことが、この時に起ったわけです。
私はお話の中で、その時の警察官の言葉に興味をいだきました。「あなたは運が悪かったから捕まったと思いますか」と、その警察官が聞いてきたそうです。その方は一般的な考え方として、まずは「そうでしょうね」と答えたところ、警察官は「だから捕まったんですよ」と忠告してきたと言うのです。
警察官のマニュアルとしてこのようなシナリオがあるのかどうかは知りませんが、私はこの警察官はいいことを言うなと、感心したのでした。なぜなら、車を運転していれば、道路標識よりスピードを超えることなど常にありましょう。やむなく、駐車違反をしてしまうこともありましょう。この方のように、一時停止を見落としてしまうこともありましょう。そんな時に検挙されれば、人はたいてい「運が悪かった」と思ってしまうかも知れません。
しかし、どうでしょう。はたしてこれは、運という次元で済まされるものなのでしょうか。法治国家で暮らす以上、交通ルールを守るのは、また守らなければならないのは当然です。運が悪かったのではなく、守らなかったことが理由であることは誰が考えてもわかることです。ところが人は、警察官への腹立たしさもふくめて、これを運という次元に転換したがるのです。そして、その転換によって少しでも自分を慰めているのです。
逆にどうでしょう。交通事故を起こしたのにかすり傷ひとつ負わなかったとするなら、これは運の次元です。まさに、「運がよかった」のです。もちろんそこには、シートベルトをしっかりと締める、スピードも出し過ぎず、わき見運転もしなかったといった、人為的な心がけが加わっていなければなりません。つまり、運は人が引き寄せる、あるいは努力が引き寄せることも事実なのです。
交通違反と運の関係を取り違えてはなりません。しかし、運のよさを心がけ、運を引き寄せる努力は大切です。また運だけに頼るのは、愚かなことです。運に気づかず、運に無関心であることも愚かなことです。おわかりでしょうか。運と心がけ、偶然と必然の微妙な関係がここにあります。
続続・お金の教訓
令和2年10月23日
国民の年間所得を出す場合、最近は平均値ではなく〈中央値〉が用いられています。平均値だと一部の高額所得者が加わり、一気に数字が跳ね上がります。すると、一般の国民には実感のわかない結果となります。そこで、真ん中の二つを足してこれを割る中央値が重んじられるようになりました。
昨年の年間所得の中央値を、年齢もトータルして調べますと、男性が356万円、女性が272万円でした。もちろん年齢別に比較すると、さらに別の統計が浮上して来ます。この中央値を見て、皆様にはそれぞれ一喜一憂の感想があるはずです。そこで、私が普段から考えている一つの教訓をお話しましょう。
サラリーマンの男性で、年間所得が中央値と同じ356万円の方がいるとします。しかし、この男性を会社が雇用する場合、給料やボーナスのほかに交通費・接待費・事務費・光熱費などで5割増しの経費がかかるのです。つまり1.5を掛けて、年間534万円の給料を支払うという計算になります。これは私の意見ではなく、経営学での常識なのです。この数字が何を意味するか、わかりますでしょうか。
昨年、日本での年間平均労働時間は1680時間でした。534万円をこの数字で割ると、一時間に3000円を超えます。つまり、この男性一人を雇うため、会社は一時間に3000円以上の経費をかけねばならないということになるのです。はたして、この男性は一時間に3000円以上の利益を、会社にもたらしているでしょうか。仮に一日8時間労働とするなら、2万4千円です。この男性が一日働いて、2万4千円以上の利益をもたらさず、ただ言われた仕事をしているだけだとしたら、もはや会社には用のない人物と見られても仕方がないのです。
会社の文句を言う前に、自分が何を与えているか、どんな利益をもたらしているかを考えねばなりません。世の中で働くということは、それだけの義務と責任があるのです。この教訓、お役に立ちますか。
続・お金の教訓
令和2年10月21日
ある弁護士さんから、「お金の流れを調べると、事件の真相が見えてきます」というお話をうかがったことがあります。つまり、人はお金のためには犯罪すらも犯すという意味なのでしょう。お金はそれほどに人間の根底、あるいは欲望の根底に関わるものともいえるのです。お金が悪いのではなく、それを扱う人間が善悪を左右するからです。
お金をあの世に持ち越すことはできません。にもかかわらず、人は一生のほとんどをお金のために費やします。お金のために汗を流し、お金のために苦しみに耐え、お金のためにイヤな人ともつき合います。時には嘘をつき、騙し、裏切ります。それでも、お金はあの世では何の役にも立ちません。貪りや怒りの傷跡をかかえ、その心相を持ち越すだけなのです。
遺産争いもまた、悪い痕跡を残します。幼い頃は仲よく遊んでいた兄弟も、親の資産がからむとたちまちに争いとなります。裁判を起こしてでも、少しでも多くを欲しいと主張します。だから、子供のためを思うなら、美田を残してはなりません。資産をあてにするほど子供が、その資産を守れるはずがないからです。
親しい友人どうしも、お金の貸し借りをすれば友情は崩れます。そして、貸したお金はなかなか帰っては来ません。すぐに返せるほどなら、まざわざ借りるはずもないからです。お金を貸すなら、差し上げるほどの気持で渡すことです。
お金の盗難や詐欺にあったら、それは失ったのでなく、「返した」と思うことです。虚空蔵という〝宇宙の蔵〟に返したからです。自分が所有しはならない何かの理由があったのです。だから仏教は、「この世で所有するものは何もない」と諭すのです。虚空蔵から預かっているに過ぎないという意味です。お金は「天下の回りもの」と言うではありませんか。
お金の教訓
令和2年10月21日
お金についてお話をしましたが、私の考えをさらに続けましょう。
人はよくお金を「きたないもの」と言います。しかし、これは明らかな間違いです。お金はこの世を生きる自分自身の分身であり、生活をして行くためのありがたい手立てなのです。自分自身と同様、大切に扱わねばなりませんし、お金を入れる財布を不浄なところに置いてはいけません。また財布の中にカードやレシートを詰め込んで、お金が呼吸も出来ないような状態にしてはいけません。また、そんなことをしている人が裕福になることはありません。お金はまさに、仏さまや神さまから授かった天与のものであると知るべきです。
また、お金を持っている人を「悪いヤツ」とも言いますが、これも間違っています。お金は平等に人の能力と徳を証明します。例外と思われる場合もありますが、人生をトータルすれば、同じことが証明されるはずです。不当な方法で手に入れたお金は、決して身につきませんし、財産として残ることもありません。お金に恵まれる人はそれだけの努力をしていますし、それだけの力量を発揮しています。また先祖が多くの布施をした家に生れています。布施をしたとは、世のため人のために喜ばれることをした徳があるという意味です。それを知らずに世の中を不公平と思うのは、見識が足りないからです。
お金に対する考え方や扱い方を見れば、その人が正しく見えるはずです。裕福な人は必ずきれいな財布を所持し、お金の居心地がいいように入れています。お香を忍ばせている方もいますが、それだけ尊重しているということです。お金を支払う場合も礼儀正しく、敬うように差し出します。「払ってやる」という態度で、まるで投げ出すような扱いをする人がいますが、そんな人が裕福になることは絶対にありません。これは間違いのない事実です。
パレートの法則
令和2年10月10日
「二・六・二の法則」は、さらに短縮して「八・二の法則」とも言えます。最初の二と六を合わせて、八になるからです。つまり、世の中は自分への投資などまったく無関心であるか、関心はあっても行動を起こさない人が八割で、積極的に自分への投資を心がけ、常にそれを実践している人はわずかに二割にすぎないということになります。
男性なら、仕事を終えて同僚と居酒屋でウサをはらすか、早く家に帰ってビールを飲みたいと思う人が圧倒的に多いということです。女性なら家事を済ませてパートに出るか、テレビのバラエティー番組を見ているうちに時間が過ぎ、夕食の準備に頭を悩ませている人がほとんどということです。一日の時間などすぐに過ぎ去り、とてもとても自分への投資どころではありません。こんな中から時間を捻出して何かを続られる人となれば、二割は妥当な数字でしょう。
この「八・二の法則」は今から100年ほど前、イタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートによって発見され、「パレートの法則」とも呼ばれています。彼は自宅の庭園で収穫したエンドウ豆のうち、完全に実のつまったサヤは全体の二割程度であるという事実からヒントを得ました。そして、イタリア国土の八割は二割の人々によって所有されているという統計から、この比率が広く社会経済に適応することを発見したのでした。
この世の中は複雑で、もちろん多くの問題を抱えています。それらを解明することは困難に思えますが、実はパレートの「八・二の法則」によってそのほとんどを把握することができるのです。わかりやすい例をあげてみましょう。
・会社で問題となる八割は、二割の従業員によって引き起こされます。
・売り上げの八割は、すべての顧客の上位二割の人によって占められています。
・犯罪全体の八割は、その常習犯二割によって摘発されています。
・プロ野球でシーズン中に勝利した八割は、出場した二割の選手によってもたらされています。
・常に着用している服の八割は、所持する全体の二割とされています。
・蕎麦の配合は、蕎麦粉が八割で小麦粉が二割の〈二八蕎麦〉が最も美味とされます。
・ビールと泡の比率は、ビールが八割で泡が二割が一番おいしいとされます。
社会をみる時、生活をみる時、人をみる時、きっと役立ちます。仏さまのように眼を開くことです。
沈黙は〈金〉か〈銀〉か
令和2年9月3日
たとえば、誰かがある名言を『聖書』の言葉だと力説したとします。それに対して別の人が、「それは間違っている。シェークスピアの言葉だ」と反論したとします。さあ、皆様はこれを聞いて、何を思うでしょうか。
もし、これが二人だけの対話であったなら、もう簡単です。結果ははっきりしているのですから、よく調べて正しい答えを出せばよいでしょう。しかし、これが大勢の前、たとえば結婚披露宴でのスピーチであったなら、どうでしょうか。せっかくお祝いの席に呼ばれながら、宴席の雰囲気をこわすことになってしまいます。反論された本人も、決していい気持ちにはなれません。反論した方も、相手から好意を持たれることはありません
しかし、人はこうした過ちをおこすことが意外に多いのです。いくら正しい見識を持っていても、時と場所簡ぶ必要があるということです。人間関係のバイブルとされるD・カーネギーの『人を動かす』にも、たしか「議論に勝つ唯一の方法は、議論をしないことである」といった意味の言葉があったように思います。議論に勝ったからといって、相手の自尊心を傷つけるばかりで、あと味が悪いことは否めません。
しかし、議論をすることが必要な場合もあります。前にもお話をしましたが、日本人ほど自己主張の下手な国民はいません。微妙で繊細なすぐれた感性を持ちながら、これが裏目に出ると、もう外国人とはつき合えなくなります。曖昧にすることを美徳とするようでは、逆に嫌われてしまいます。特に政治などは雄弁であることが絶対条件で、雄弁の能力がなければ政治家にはなれません。日本の政治家は、どう思われているのでしょうか。
「雄弁は銀、沈黙は金」という格言は、ただ黙っていればよいという意味ではないのです。黙って耐えることが最良の策という場合もありますが、正すべき時に正すことは間違いではないのです。腹を立てて反論するのではなく、意見として主張すべきだということです。いずれが正しいかは、その場の空気から判断すべきことで、一概には決められません。
それに、もう一つ。いったいこの金と銀とは、どちらが上位なのでしょうか。オリンピックのメダルはもちろんのこと、一般には金を上位としますが、長い歴史の間には銀をもって上位とした時代もありました。〈砂金〉という採取法はあっても、〈砂銀〉という方法がないことでもわかりましょう。採取法が限られている以上、銀山には莫大な資金と労働力が必要となります。それだけに、入手が困難であったのです。
そうすると、この格言の本当の意味は逆転するのでしょうか。また、私は派手な金光りより、渋い銀光りの方が沈黙にはふさわしいようにも思っています。どっちがどっちなのか、わからなくなって来ますが、いずれに片寄ってもいけないとするのが仏教の戒めだとしておきましょう。
他人の悪口、自分の悪口
令和2年5月22日
人はよく誰かの悪口を言っては楽しみ、時間をつぶし、ストレスを解消します。男性どうしが焼き鳥屋に入れば、悪口にはこと欠きません。女性どうしが喫茶店に入れば、これも悪口にはこと欠きません。会議や会合の席では何もしゃべらなかった人が、まるで油紙へ火をついたようにペラペラと舌が回るのです。それぞれが一緒になって悪口を言っている場合もあれば、一方的に悪口を聞かされる場合もあります。ところが聞かされる人も、しだいに相手の悪口に乗ってしまうのはどういうことなのでしょう。
そして悪口は廻り巡って、「あの人があなたの悪口を言ってたよ」と、当人の耳にも届くものです。またそれを伝えた人からも、「この人は影で悪口を言う人なのか」と思われてしまいます。さらに、「もしかしたら、私の悪口も言っているのでは」となって、互いにまずい関係になってしまいます。少しのほころびが、人間関係の亀裂へと発展するからです。
こうなると、もう収集がつきません。なにを言ったかにを言ったで、今度はうわさ話に発展します。うわさ話は次の人に伝わるごとに、必ず誇張されるのです。また、うわさ話はそれを弁解したり、否定したりするほど真実味を帯びるから不思議です。ささいな悪口が、とんでもない事件に発展する可能性すらないとはいえません。舌が他人を傷つける刃物になることを、「舌刀」とまで言うのです。
そして、最も重要なことを申し上げましょう。それは自分が言った悪口を一番多く聞いているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実です。私たちは他人の悪口を言っているつもりでも、実は自分の悪口を言っているに等しいという意味がわかりますでしょうか。他人の悪口を並べ立てる相手を好きにはなれないように、自分が悪口を並べ立てれば、無意識のままに自分を嫌っていくものなのです。
私も若い頃は、著名な人を批判しては得意になっていたものでした。こういう習慣が身につくと批判は悪口と堕し、身辺の人の悪口に発展したものです。そして、最もみじめなのは自分なのだという事実すら気づきませんでした。若気の至り、不徳の至りとはいえ、おはずかしいかぎりです。
それでも二十代の半ばからお大師さまの教えにふれ、自分のことを大切に思い、人を思いやることの大切さを知りました。いろいろな遍歴を重ねましたが、今では人のお役に立てることが楽しくてなりません。人のために尽くしていれば、その気持ちはおのずから伝わるものです。そして、私に会いたいと思ってくださる方が増えてまいりました。全国からいろいろな方が集まって来ています。一般の方はもちろんですが、僧侶の方もお見えになっています。まだ二年目のささやかなお寺ですが、皆様もぜひお越しになってください。「悪口など言っている場合じゃない」と、思うようになりますよ。
ここで気を許すな!
令和2年5月16日
新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言が、まず三十九県で解除されました。
宣言期間中は、国民の多くが強いストレスや危機感を感じたことと思います。外にも出られず、学校にも行けない子供たちは勉強も遅れ、友達とも遊べぬ不満が重なったはずです。また、ご主人もお子さんもいる狭い家の中で、炊事も家事も休めぬ主婦は言葉も乱暴になったかも知れません。家族や夫婦間のDVが増え、「コロナ離婚」なる冗談(もしや本音!)まで耳にする始末でした。一方、お店も工場も未曾有の危機に立たされています。すでに倒産した会社も、数知れません。補助金や借入れで乗り切れるかどうか、まさに瀬戸際の様相です。
また、マスクや消毒液すら、なかなか手に入らない状況は今も続いています。一時はティッシュやトイレットペーパーまで不足する有様でしたが、こちらはほとんど復旧しました。食品も、納豆ばかりは「一家に一パック」などと表示されていますが、さほどのことではありません。私は戦後の生まれですから大きなことは言えませんが、終戦を経験した方ならどうということもないはずです。サツマイモのツルを食べて飢えをしのいだお話をうかがえば、まだまだ楽な時代だと思います。
物に不自由する生活を、初めて経験した国民も多かったことでしょう。つまり、〝平和ボケ〟した私たちは喝を入れられたのです。また人類の愚行に対して、地球そのものがリセットを強いられたのです。このブログでも何度かお話をしましたが、この世は無常なのです。いつ何が起きるかわからない、変わらないものなど何ひとつないということなのです。平和で安心して暮らせる社会など、この世にはないのです。それだけに、私たちは危機感に対してもっと敏感にならねばなりません。地震や台風だって、いつやって来るかはわかりません。誠実でまじめに生きていても、どんな凶悪が迫っているかはわかりません。私も昨年は台風被害を経験しましたので、早くも備えを固めています。
コロナウイルスの件にもどりますが、ここで気を許してはなりません。もし二次感染が増え、再び非常事態宣言が発令されることになどなったら、今度こそ最悪です。人は「もう大丈夫だろう」という時が、一番あぶないのです。九割かた終ったと思って安心すると、最後にミスをします。これで勝ったと思って油断すると、最後に逆転されます。おそらく、一年ほどは警戒を続けねばなりません。専門家の意見にも耳を傾けましょう。
多くの人々が外出を始め、仕事を始め、お店にも入り始めています。もう一度申し上げますが、「もう大丈夫だろう」という時が一番あぶないのです。「ここで気を許すな!」と、おまじないのように何度でも唱えることです。声に出すと、人は実行するものです。そうなのですよ。
めったにないもの
令和2年5月5日
『枕草子』第七十二段に「ありがたきもの」、つまり「有ることが難いもの」「めったにないもの」として次のような例が挙げられています。
まず、「舅にほめられる婿、姑にほめられる嫁、毛のよくぬける銀の毛抜き、主人の悪口を言わぬ使用人」と。舅と婿、姑と嫁の関係は、平安時代から変らないということです。舅は娘かわいさに、お婿さんに多くのことを求めます。また姑は、まるで息子がお嫁さんに奪われたような感覚におちいるのは、今も昔も同じなのでしょう。最近では同じ家に同居しながら、姑と嫁がまったく口もきかないという例を耳にします。銀の毛抜きは当時の女性が眉をぬいて、眉墨で描くための必需品でした。優品は少なかったのでしょう。そして、使用人は影で主人の悪口を言いながら、人使いの荒さに耐えていたのです。ほどほどの悪口なら、許してあげましょう。
次に、「欠点のない人、評判がよくても世間から少しの非難も受けない人」と。この時代にインターネットがあれば、まず話題に欠くことはありません。ことに蒸し暑い京都で束帯や十二単衣などを着用していたら、妬み心の一つも発散しなければやり切れなかったのでしょう。凡人の悲しさというものです。
次に、「同じ職場で礼儀を守っていても、最後まで本音を出さないこと」と。人の本音は必ずどこかに現れます。居酒屋で語ったほんの一言は、回り巡っていつかは相手に伝わるものです。「壁に耳あり、障子に目あり」なのです。そして「口は災いのもと」なのです。
次に、「本を写すのに、原本を墨でよごさぬこと」と。この時代にコピーがあれば、こんな気づかいは無用でした。私も白衣や法衣によく墨をつけるので、この気持がよくわかります。
最後に、「男女の間でも、女どうしでも、最後まで仲が良いこと」と。特に、女性どうしの仲のよさには用心せねばなりません。親しい仲と思って気を許すと、とんでもない間違いをしてしまいます。いつも連れ立っているから、よほど仲がよいなどとは決して思わぬことです。このことでは、私も何度も失敗をしました。
清少納言という彼方の女性と、もしも茶飲み話でもしたならば、腹の底まで見透かされるに違いありません。人間に対しても自然対しても鋭く、味わい深い観察眼には驚くばかりです。このような才女とは、本の中でさえつき合っていれば、互いに飽きることもありません。私の大切なガールフレンド(!)です。