カテゴリー : 仏教

お葬式はなぜ必要か

カテゴリー
仏教

令和2年1月8日

 

新年早々、お葬式が入りました。私は初詣のため、日中は寺を空けられません。そこで昨夜の通夜のみお導師をつとめ、本日はお手替てかえの僧侶にお願いをしました。

現在、この国にはお葬式をしない方が急増しています。病院から霊柩車れいきゅうしゃで火葬場に直行し、お骨のみ受け取る「直葬じきそう」という方式です。中には、お骨はいらないから〝処分〟して欲しいなどと申し出る人もいます。極端には新幹線の車内に、故意に置いていく人すらいます。

かつての日本人は、親の臨終にすら立ち会えないことを生涯の恥としました。また、たとえ借金をしてでも、親のお葬式ばかりはしました。どうしてこんなことになったのかといいますと、お金がかかるという理由からです。お葬式というと、高額なお布施がかかるし、葬儀社への費用も大変だということなのでしょう。

しかし、お金のことは、工夫をすれば低額で済ませる方法はいろいろあります。ネット派遣で僧侶を依頼すれば、お布施も安くなりますし、葬儀社の費用もさまざまです。事前によく調べてみることです。

そもそも、人生にはいくつかの節目があります。学校に入学するには入学式があり、卒業するには卒業式があります。また、成人すれば成人式があり、入社をするには入社式があります。それぞれの儀式があるから、それぞれの自覚が生まれるのです。そして、何より結婚をするには結婚式があります。今どきは教会式が多いことでしょう。神父さんが新郎新婦の手をとって、「お二人が夫婦であることを宣言します」と奏上そうじょうするから、夫婦としての自覚が生まれるのです。

この世に別れを告げるにも、子や孫から何の挨拶もなく、お葬式らしい読経もなく、ただ火葬だけをされれるさびしさからは何の自覚も生まれません。そして、どこにっていいのかもわかりません。

怖いお話をして恐縮ですが、お寺におりますといろいろ〝霊的〟な現象を体験します。真夜中で誰もいないのにインターホンが鳴ったり、読経中に玄間に人影を感じることがあります。中までは入って来ません。いや、入れないのです。そんな時私は、「お葬式をしてもらえなかった人だな」とスグにわかります。

皆様、何があっても親のお葬式ばかりはなさってください。あの世に旅立った親が、どこに往っていいのかわからないようなことにはなさらないでください。

スジャーターの乳粥

カテゴリー
仏教

令和元年12月11日

 

釈迦しゃかさまは悟りを開く前、六年間の苦行くぎょうをしました。断食だんじきのため死の直前ともいえるほどに衰弱すいじゃくし、体は骨と皮ばかりになるほどでした。

その時、村の娘・スジャーターが通りがかり、持っていた乳粥にゅうがゆの供養を受けました。そして、体力を回復したお釈迦さまはネーランジャラー川で身を清め、瞑想めいそうに入って、ついに悟りを開きました。これは仏教のことを少しでも学んだ方なら、どなたでも知っているお話です。ただ、問題なのはその「乳粥」とは何であるかです。

学者の中には「乳粥」を「ヨーグルト」と訳す方もおりますが、それは違っています。実はインドのおかゆを「キール」と呼び、甘い味がするお祝いの料理なのです。甘いお粥というと、皆様は驚くでしょうか。しかし、お祝いに甘いものを出す習慣はよくあることで、日本でも東北や北海道の赤飯は甘く味付けします。また、甘い饅頭まんじゅうやぼたもち(おはぎ)などもその例でしょう。

ただ、その「キール」が、日本のインド料理店のメニューにはありません。私は僧侶の方にこのお話をする必要があった時、かなりの店に問い合わせました。しかし、東京銀座の「ナタラジ」という店でデザートとして出している以外、まったく皆無かいむでした(だいぶ前のことで、最近はもう少し増えているかも知れません)。

「キール」は牛乳でつめたお粥に砂糖を加えます(さらにお好みでナッツ類を加えます)。牛乳を煮つめた状態を「」といい、これも仏教では大切なものです。ついでですが、私は三十代にかなりの荒行あらぎょうをしましたのでわかるのですが、断食して極端きょくたん衰弱すいじゃくした時、ヨーグルトではさほどに体力はつきません。ところが、たとえ一杯でもお粥を食すれば、たちまちに回復します。

それだけに、スジャーターのお粥は甘く、また栄養価も高かったはずです。そして何より、彼女は一生を費やしても及ばぬほどの、大きな功徳を積んだのでした。

三歳の子供でも知っているが

カテゴリー
仏教

令和元年12月3日

 

 中国の唐代にはすぐれた詩人がたくさんいました。白居易はくきょい(白楽天)もその一人です。実はその白居易には、仏教説話で語り継がれる有名なお話があります。

 頭脳明晰ずのうめいせきな白居易が杭州こうしゅうの高級官僚となった頃、道林和尚どうりんおしょうという知られた禅僧がいました。いつも樹の上で座禅をしていたので、「鳥窠禅師ちょうかぜんじ」などとも呼ばれていたようです。「鳥窠」とは鳥ののことで、樹の上での座禅姿がまるで巣のように見えたのでしょう。

 白居易はその道林和尚をからかってやろうと思い立ち、その樹下にやって来ました。白居易は樹の上で座禅する道林を見て、「危ないではないか」と言うや、すかさず道林は「危ないのはおまえさんだ。煩悩ぼんのうの炎が燃え上がっておる」と答えました。一本とられた白居易は、それなら、とばかりに「では、仏教とはどのようなものか」と問います。道林は「悪いことをせずに、善いことすることだ」と答えます。白居易はシメたとばかりに、「そんなことなら三歳の子供でも知っているではないか」と巻き返しました。道林は最後に、「三歳の子供が知っていても、八十を超えた老人でさえ行うことはむずかしいのだよ」とトドメを指しました。白居易はその場で、深く礼拝らいはいをして去ったのでした。

 この道林の逸話いつわは「衆善奉行しゅぜんぶぎょう(もろもろの善をなして)諸悪莫作しょあくまくさ(もろもろの悪をなさないこと)」の教えとして、大切にされてきました。まことに、「言うはやすく、行うはかたし」です。人は道理は知っていても、なかなか実行することができません。一つ善いことをしても、二つも三っも悪いことをするのが常なのです。

 真理はやさしく、わかりやすいもののはずです。そして、平凡な言葉であるはずです。いいお話ですね。

台風の被害処理

カテゴリー
仏教

令和元年10月21日

 

台風の被害処理が、まだまだ終わりません。

あさか大師も床下20センチが浸水し、御札や印刷物の一部が被害にいました。四分の一ほどが浸水しましたが、使えるものと使えなくなったものを仕分けしました。今はお護摩札を陰干かげぼしで乾燥させています(写真)。ニュースで放映される、あのような被害地に比べれば、まだまだ軽い方です。そして何よりも、お大師さまのご加護に感謝しています。

昨日は第三日曜日の行事で、お弟子さんやご信徒の方が集まり、いろいろとお手伝いいただきました。ありがたいことでした。この時期、祈祷寺院は早くも正月準備に入らねばなりません。やらねばならないことは多いのですが、被害処理をしながら多くのことを考えました。

私は平和な時代に生まれ、平和な時代の中で育ちましたので、これが初めて経験した災害です。埼玉県は津波つなみ噴火ふんかも土砂くずれもなく、台風もさほどには通過しません。まず、災害の少ないところなのです。しかし、今回は異例としても、これからはわかりません。このクラスの台風がたびたび通過する可能性はありますし、これまで考えられなかった河川が氾濫はんらんする可能性もあります。それに、地震や火災へのそなえもおこたれません。

いつも思うのですが、「平和で安心して暮らせる社会」など、あるはずがないのです。今回の台風で、その思いをいっそう確信しました。すべては〈無常むじょう〉なのです。永遠のものも、絶対のものもないのです。この世のすべては移り変わるからです。その覚悟をもって生きてこそ、イザという時に智恵が湧くのです。だから、〈諸行無常しょぎょうむじょう〉は前向きに生きるための智恵なのです。仏教が説く大切な真理です。

初恋の味

カテゴリー
仏教

令和元年10月10日

 

日本初の乳酸菌飲料「カルピス」のお話です。

カルピスの創業者・三島海雲かいうんは、現在の大阪府箕面市みのお教学寺きょうがくじの長男として生まれました。文学や英語を学び、仏教の大学にも進みましたが、やがて中国で起業する志を立てました。ある日、北京から内モンゴルに入り、遊牧民が飲む乳酸がとても体によいことを知りました。

海雲はこれを日本で発売することはできないかと考え、さまざまな試行錯誤しこうさくごを重ねて、ついにカルピスを完成させました。彼はカルピスの本質を、おいしいこと、滋養になること、安心感があること、経済的であることとし、国家の利益となり、人々の幸福につながる〈国利民輻こくりみんぷく〉を事業の理念としました。

ところで、仏教では最上の練乳れんにゅうの味をサルビスといい、日本では〈醍醐だいご〉と訳されています。カルピスの商標を決める時、カルシュウムとサルビスを合わせ、〈カルビス〉〈カルピス〉〈カルピル〉の三つの候補が上がりました。これを『赤とんぼ』の作曲者・山田耕作に相談したところ、「カルピスが最も語呂ごろがよい。大いに繁昌するでしょう」と太鼓判たいこばんを押されました。これが商標「カルピス」の誕生秘話です。

また、海雲の文学仲間であった驪城卓爾こまきたくじにカルピスを飲ませたところ、「甘くてっぱい。カルピスは初恋の味だ」と答えました。海雲が「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味って何だと聞かれたらどうする」と迫ったところ、驪城は平然と「カルピスの味だと答えればいい。初恋は清純で美しいものだ。また初恋という言葉には、夢と希望とあこがれがある」と語り、海雲はもはや何も言えませんでした。これがキャッチフレーズ「初恋の味」の誕生秘話です。

一途いちずに甘く、微妙びみょうに酸っぱいカルピスは、仏教語を含んだ初恋の味なのです。カルピスを飲めば、あのときめき(!)を思い出せるのです。

トイレそうじの功徳

カテゴリー
仏教

令和元年9月29日

 

トイレそうじには大きな功徳があります。トイレは人が生活するうえで、もっとも不浄とされる場所だからです。しかし、人はトイレなくして生活することはできません。だから、トイレそうじには功徳に満ちあふれているのです。

社長さん自らがトイレそうじを実践し、それによって業績を伸ばした企業がたくさんあります。また、昔からトイレそうじをすると、シモの病気にならないとか、安産ができると伝えられています。その理由はもちろん、トイレの神さまに好かれるからです。トイレの神さまから、ご褒美ほうびをいただけるからです。

京都の山科やましなに、明治37年、西田天香てんこう(通称・天香さん)によって発願ほつがんされた〈一灯圓いっとうえん〉があります。ここは懺悔さんげの心で、トイレ等の清掃せいそう奉仕をすすめる団体です。天香さんは今なお多くの方々に慕われていますが、その中のひとりに㈱ダスキンの創業者・鈴木清一氏(昭和55年死去)がいます。

鈴木氏は天香さんを深く敬愛し、〈世の中のためにある会社〉を目ざしました。社員を「働きさん」と呼び、新人研修では家々を回り、飛び込みでトイレそうじをしています。新入社員ばかりではなく、今なお社長も役員も、率先して出かけています。そもそも「ダスキン」とは、ダスト(ほこり)と雑巾ぞうきんを二で割った呼称だそうで、社名にもその精神が受けつがれています。同社はミスタードーナツとも提携ていけいし、フランチャイズ事業を展開しましたが、創業者の根本精神を忘れずに発展してほしいものです。

自分がよごれても何かをキレイにすることは、仏教そのものの訓戒くんかいです。日本にこうした企業がたくさんあることは、とてもうれしいことです。

ウワサ話から離れる

カテゴリー
仏教

令和元年8月21日

 

かなり以前のことですが、忘れがたいほど賢い女性がおりました。

彼女はさほどには目立ちませんでしたが、ウワサ話が始まると、いつの間にかその場を離れるのです。それも、さり気なくです。その場の人には用事を思い出したようにさえ見えるのです。とても賢い女性だと思いました。ウワサ話について考える時、私は今でも彼女のことを回想するほどです。

およそ、ウワサ話ほど厄介やっかいなものはありません。同じような話があちこちに広がり、尾ひれがついて次第に誇張こちょうされるからです。まるで〈レベル1〉から〈レベル5〉へと段階を踏むかのように、その内容は誇張されて行きます。よく「ここだけの話」と言いますが、ここだけの話がここだけに終わることは絶対にありません。ここだけの話は、大いに広めてもらいたいと、ダメ押しをしていることと同じなのです。

「みんなが言っている」と言いますが、実はたった一人が言っているに過ぎません。しかし、そのたった一人のウワサ話はまたたく間に広がります。そして、そのウワサ話の当人の心を傷つけるばかりではなく、時には社会問題に発展し、時には命をうばうことさえあるのです。

これを「舌刀ぜっとう」といい、人のした(言葉)は刃物になることを示しています。その刃物が人を傷つけ、命を奪うのです。また、仏教のいましめで最も多いのも言葉のことです。不妄語ふもうご(ウソを言わない)、不綺語ふきご(尾ひれをつけて言わない)、不悪口ふあっく(悪口を言わない)、不両舌ふりょうぜつそむいたことを言わない)がこれです。ウワサ話が始まったら、ソッとその場を離れることです。

ライバルの効用

カテゴリー
仏教

令和元年8月16日

 

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの話題が増えてまいりました。八月の炎天下で、はたして選手の体力はいかがなものか、まず心配なのはそのことでしょう。特にマラソンランナーは大丈夫なのかと、皆様も気になるかと思います。

そのマラソン競技のことですが、先頭ランナーが独走態勢となった場合、新記録は生まれにくいといわれています。その理由は、ライバルが隣りを走って、順位を競うことがないからです。先頭5人から3人へ、3人から2人となり、ついに2人の勝敗となった時、人間には不思議な力が湧き出て来るそうで、新記録が生まれやすいということなのです。

だから、私たちにもライバルがいて、「あの人には負けたくない」と思うぐらいの気持ちを持った方がいいのでしょう。ライバルがいないと、人はとかく怠けるはずです。そのライバルが何を始めた、何を成し遂げたといった情報が耳に入れば、一意奮闘いちいふんとうするのが人の常なのです。それが単なる嫉妬心しっとしんであれば、煩悩ぼんのうに過ぎません。しかし、その嫉妬心を努力の原動力とするなら、煩悩が転じて菩提ぼだいとなりましょう。これ、仏教が教えるところです。

人は本来、怠けものなのかも知れません。しかし、その怠けものが熱心な努力家になれるのは、まさにライバルの効用なのです。私もそのことをきもめいじて、ライバルはありがたいと思っています。

自由はあるのか

カテゴリー
仏教

令和元年8月11日

 

皆様は〈自由〉にあこがれますでしょうか。

こんな会社は早くやめて自由になりたい、イヤなあいつから解放されて自由になりたい、お金にも時間にも困ることなく自由になりたい、と、こんなふうに思っていらっしゃるでしょうか。さっそく、うなずいていらっしゃる方のお顔が浮かぶようです。

残念ながら、この世に自由など、どこにもないのです。まず、この世に生まれて、生きていくことそのものが苦しみです。過酷な競争の中でたたかわねばなりませんし、厄介な人ともつき合わねばなりません。次に、どんな人にも確実に老いがやって来ます。いくらコラーゲンやヒアルロン酸を塗っても顔のしわは増えますし、足腰も不自由になることはいなめません。次に、誰でもいずれは病気になります。現代は病気に無縁な人ほど、気をつけねばなりません。健康を自慢していても、やがてはどこかをわずらいます。そして、どんな人も、必ず死を迎えます。大事な家族とも別れねばなりません。そのほか、にくしみあう苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、求めても得られぬ苦しみ、この身に受けるあらゆる苦しみなど、これらを仏教では〈四苦八苦しくはっく〉といいます。

生活するうえでの規制もあります。お腹がすいたら食事をとらねばなりませんし、一日が終われば睡眠をとらねばなりません。入浴もせねばなりませんし、トイレにも行かねばなりません。多忙な時ほど仕事が増え、出かけようとすれば電話が入ります。買い物をすれば並ばねばならず、車に乗れば渋滞に巻き込まれます。いったい自由など、どこにあるというのでしょうか。

だから、生きていくことは苦しいものだと、まずは受け入れることです。受け入れれば楽になりますし、別の世界が開かれます。不自由であればこそ人生を大事にします。そして、時間を大事にします。健康を大事にします。それだけ、人生を価値あるものにできるのです。苦しみを受け入れてこそ〈楽〉が味わえるように、不自由を受け入れてこそ〈自在〉に生きられるのです。自由ではなく、自在なのです。これこそ、観自在菩薩の自在なのです。

色即是空(しきそくぜくう)

カテゴリー
仏教

令和元年7月18日

 

『般若心経』のキーワードが〈色即是空しきそくぜくう〉です。

一般には「しきすなわちこれくう」と読みます。色(この世のすがた)と空(仏の真実)は同じ(イコール)だということになります。しかし、これでは意味がわかりません。つまり、私たちの人生におとずれるあらゆる苦しみは、すなわちこれ仏の真実なのでしょうか。『般若心経』の本を読んでも、ますますわからなくなるのはここなのです。

そこで私は、〈色即是空〉を「色はこの空にそくし」と読んではいかがかと提案いたします。〈即〉とはそくうこと、つまり同時にある、いっしょにあるという意味です。異なるように思うもの、反対のように思うものでも、本当は一つなのだいうことです。

いつもお話していることですが、私たちは病気になるから健康を守ることができるのです。体に痛みを感じれば、医者に行くでしょう。そこではじめてどこが悪いかがわかり、その原因がわかり、生活習慣が変わるのです。医者からハッキリ言われなければ、何も変わりませんし、変えようともしません。病気になるから健康を守ることができるとは、この意味です。つまり、病気という苦しみの真実は、私たちの健康を守ろうとする尊い働きに即しているということです。だから、異なるように思うもの、反対のように思うものが同時にある、いっしょにあるのです。

このことがわかると、この世の多くの苦しみの真実が見えてきます。生きることがつらくても、私たちのものの見方を変えさせ、ものの考え方を変えさせ、行いを変えさせる尊い働きが同時にあることを知りましょう。むずかしいお話をしましたが、とても大切なことです。このブログを読んでいただいた皆様に感謝いたします。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ