初恋の味
令和元年10月10日
日本初の乳酸菌飲料「カルピス」のお話です。
カルピスの創業者・三島海雲は、現在の大阪府箕面市、教学寺の長男として生まれました。文学や英語を学び、仏教の大学にも進みましたが、やがて中国で起業する志を立てました。ある日、北京から内モンゴルに入り、遊牧民が飲む乳酸がとても体によいことを知りました。
海雲はこれを日本で発売することはできないかと考え、さまざまな試行錯誤を重ねて、ついにカルピスを完成させました。彼はカルピスの本質を、おいしいこと、滋養になること、安心感があること、経済的であることとし、国家の利益となり、人々の幸福につながる〈国利民輻〉を事業の理念としました。
ところで、仏教では最上の練乳の味をサルビスといい、日本では〈醍醐〉と訳されています。カルピスの商標を決める時、カルシュウムとサルビスを合わせ、〈カルビス〉〈カルピス〉〈カルピル〉の三つの候補が上がりました。これを『赤とんぼ』の作曲者・山田耕作に相談したところ、「カルピスが最も語呂がよい。大いに繁昌するでしょう」と太鼓判を押されました。これが商標「カルピス」の誕生秘話です。
また、海雲の文学仲間であった驪城卓爾にカルピスを飲ませたところ、「甘くて酸っぱい。カルピスは初恋の味だ」と答えました。海雲が「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味って何だと聞かれたらどうする」と迫ったところ、驪城は平然と「カルピスの味だと答えればいい。初恋は清純で美しいものだ。また初恋という言葉には、夢と希望と憧れがある」と語り、海雲はもはや何も言えませんでした。これがキャッチフレーズ「初恋の味」の誕生秘話です。
一途に甘く、微妙に酸っぱいカルピスは、仏教語を含んだ初恋の味なのです。カルピスを飲めば、あのときめき(!)を思い出せるのです。
トイレそうじの功徳
令和元年9月29日
トイレそうじには大きな功徳があります。トイレは人が生活するうえで、もっとも不浄とされる場所だからです。しかし、人はトイレなくして生活することはできません。だから、トイレそうじには功徳に満ちあふれているのです。
社長さん自らがトイレそうじを実践し、それによって業績を伸ばした企業がたくさんあります。また、昔からトイレそうじをすると、シモの病気にならないとか、安産ができると伝えられています。その理由はもちろん、トイレの神さまに好かれるからです。トイレの神さまから、ご褒美をいただけるからです。
京都の山科に、明治37年、西田天香(通称・天香さん)によって発願された〈一灯圓〉があります。ここは懺悔の心で、トイレ等の清掃奉仕をすすめる団体です。天香さんは今なお多くの方々に慕われていますが、その中のひとりに㈱ダスキンの創業者・鈴木清一氏(昭和55年死去)がいます。
鈴木氏は天香さんを深く敬愛し、〈世の中のためにある会社〉を目ざしました。社員を「働きさん」と呼び、新人研修では家々を回り、飛び込みでトイレそうじをしています。新入社員ばかりではなく、今なお社長も役員も、率先して出かけています。そもそも「ダスキン」とは、ダスト(ほこり)と雑巾を二で割った呼称だそうで、社名にもその精神が受けつがれています。同社はミスタードーナツとも提携し、フランチャイズ事業を展開しましたが、創業者の根本精神を忘れずに発展してほしいものです。
自分が汚れても何かをキレイにすることは、仏教そのものの訓戒です。日本にこうした企業がたくさんあることは、とてもうれしいことです。
ウワサ話から離れる
令和元年8月21日
かなり以前のことですが、忘れがたいほど賢い女性がおりました。
彼女はさほどには目立ちませんでしたが、ウワサ話が始まると、いつの間にかその場を離れるのです。それも、さり気なくです。その場の人には用事を思い出したようにさえ見えるのです。とても賢い女性だと思いました。ウワサ話について考える時、私は今でも彼女のことを回想するほどです。
およそ、ウワサ話ほど厄介なものはありません。同じような話があちこちに広がり、尾ひれがついて次第に誇張されるからです。まるで〈レベル1〉から〈レベル5〉へと段階を踏むかのように、その内容は誇張されて行きます。よく「ここだけの話」と言いますが、ここだけの話がここだけに終わることは絶対にありません。ここだけの話は、大いに広めてもらいたいと、ダメ押しをしていることと同じなのです。
「みんなが言っている」と言いますが、実はたった一人が言っているに過ぎません。しかし、そのたった一人のウワサ話はまたたく間に広がります。そして、そのウワサ話の当人の心を傷つけるばかりではなく、時には社会問題に発展し、時には命を奪うことさえあるのです。
これを「舌刀」といい、人の舌(言葉)は刃物になることを示しています。その刃物が人を傷つけ、命を奪うのです。また、仏教の戒めで最も多いのも言葉のことです。不妄語(ウソを言わない)、不綺語(尾ひれをつけて言わない)、不悪口(悪口を言わない)、不両舌(背いたことを言わない)がこれです。ウワサ話が始まったら、ソッとその場を離れることです。
ライバルの効用
令和元年8月16日
2020年の東京オリンピック・パラリンピックの話題が増えてまいりました。八月の炎天下で、はたして選手の体力はいかがなものか、まず心配なのはそのことでしょう。特にマラソンランナーは大丈夫なのかと、皆様も気になるかと思います。
そのマラソン競技のことですが、先頭ランナーが独走態勢となった場合、新記録は生まれにくいといわれています。その理由は、ライバルが隣りを走って、順位を競うことがないからです。先頭5人から3人へ、3人から2人となり、ついに2人の勝敗となった時、人間には不思議な力が湧き出て来るそうで、新記録が生まれやすいということなのです。
だから、私たちにもライバルがいて、「あの人には負けたくない」と思うぐらいの気持ちを持った方がいいのでしょう。ライバルがいないと、人はとかく怠けるはずです。そのライバルが何を始めた、何を成し遂げたといった情報が耳に入れば、一意奮闘するのが人の常なのです。それが単なる嫉妬心であれば、煩悩に過ぎません。しかし、その嫉妬心を努力の原動力とするなら、煩悩が転じて菩提となりましょう。これ、仏教が教えるところです。
人は本来、怠けものなのかも知れません。しかし、その怠けものが熱心な努力家になれるのは、まさにライバルの効用なのです。私もそのことを肝に銘じて、ライバルはありがたいと思っています。
自由はあるのか
令和元年8月11日
皆様は〈自由〉に憧れますでしょうか。
こんな会社は早くやめて自由になりたい、イヤなあいつから解放されて自由になりたい、お金にも時間にも困ることなく自由になりたい、と、こんなふうに思っていらっしゃるでしょうか。さっそく、うなずいていらっしゃる方のお顔が浮かぶようです。
残念ながら、この世に自由など、どこにもないのです。まず、この世に生まれて、生きていくことそのものが苦しみです。過酷な競争の中で闘わねばなりませんし、厄介な人ともつき合わねばなりません。次に、どんな人にも確実に老いがやって来ます。いくらコラーゲンやヒアルロン酸を塗っても顔のしわは増えますし、足腰も不自由になることは否めません。次に、誰でもいずれは病気になります。現代は病気に無縁な人ほど、気をつけねばなりません。健康を自慢していても、やがてはどこかを患います。そして、どんな人も、必ず死を迎えます。大事な家族とも別れねばなりません。そのほか、憎しみあう苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、求めても得られぬ苦しみ、この身に受けるあらゆる苦しみなど、これらを仏教では〈四苦八苦〉といいます。
生活するうえでの規制もあります。お腹がすいたら食事をとらねばなりませんし、一日が終われば睡眠をとらねばなりません。入浴もせねばなりませんし、トイレにも行かねばなりません。多忙な時ほど仕事が増え、出かけようとすれば電話が入ります。買い物をすれば並ばねばならず、車に乗れば渋滞に巻き込まれます。いったい自由など、どこにあるというのでしょうか。
だから、生きていくことは苦しいものだと、まずは受け入れることです。受け入れれば楽になりますし、別の世界が開かれます。不自由であればこそ人生を大事にします。そして、時間を大事にします。健康を大事にします。それだけ、人生を価値あるものにできるのです。苦しみを受け入れてこそ〈楽〉が味わえるように、不自由を受け入れてこそ〈自在〉に生きられるのです。自由ではなく、自在なのです。これこそ、観自在菩薩の自在なのです。
色即是空(しきそくぜくう)
令和元年7月18日
『般若心経』のキーワードが〈色即是空〉です。
一般には「色は即ちこれ空」と読みます。色(この世のすがた)と空(仏の真実)は同じ(イコール)だということになります。しかし、これでは意味がわかりません。つまり、私たちの人生におとずれるあらゆる苦しみは、すなわちこれ仏の真実なのでしょうか。『般若心経』の本を読んでも、ますますわからなくなるのはここなのです。
そこで私は、〈色即是空〉を「色はこの空に即し」と読んではいかがかと提案いたします。〈即〉とは即し合うこと、つまり同時にある、いっしょにあるという意味です。異なるように思うもの、反対のように思うものでも、本当は一つなのだいうことです。
いつもお話していることですが、私たちは病気になるから健康を守ることができるのです。体に痛みを感じれば、医者に行くでしょう。そこではじめてどこが悪いかがわかり、その原因がわかり、生活習慣が変わるのです。医者からハッキリ言われなければ、何も変わりませんし、変えようともしません。病気になるから健康を守ることができるとは、この意味です。つまり、病気という苦しみの真実は、私たちの健康を守ろうとする尊い働きに即しているということです。だから、異なるように思うもの、反対のように思うものが同時にある、いっしょにあるのです。
このことがわかると、この世の多くの苦しみの真実が見えてきます。生きることがつらくても、私たちのものの見方を変えさせ、ものの考え方を変えさせ、行いを変えさせる尊い働きが同時にあることを知りましょう。むずかしいお話をしましたが、とても大切なことです。このブログを読んでいただいた皆様に感謝いたします。
仏像に心引かれる理由
令和元年6月25日
数年前、ある弁護士さんの事務所を訪ねましたら、仏像の写真がたくさん飾ってありました。
そこで私が、「仏像がお好きなのですか」と聞きましたところ、「生々しい訴訟問題に関わっているので、仏像を観るとホッとするのです」という答えでした。たしかに、他人のやっかいなお話ばかり聞くのですから、仕事の合い間に仏像のやさしい姿に接したいのだろうと思いました。
いったい、私たちが仏像に心引かれる理由は何なのでしょうか。
心引かれるということは、実は同じものがあるからなのです。つまり、私たちの心に〈仏心〉があり、その仏心が仏像に心引かれるのです。同じものがあるからこそ、同じものどうしが互いに共鳴するのです。類が類呼ぶのです。ほかの理由など、あるはずがありません。
もし、私たちの心に仏心のカケラもないとするなら、仏像などに興味すら持つはずがありません。仏心があるからこそ、仏教の教理など知らずとも、仏像の知識すらなくとも、仏像に心引かれ、深く感動するのです。だからこそ国立博物館の「仏教美術展」に、何時間も並んでまで入場するのです。
仏師が仏像を彫るのも同じことです。木材の中から、どうしてホトケの姿が現れるのかというと、それも仏師の心に仏心があるからです。そうでなければ、ノミを打ってホトケの姿など、彫り出し得るはずがありません。
お寺で仏像に接する時は、ぜひこのことを思い出してください。「私の心に仏心があるから、ここに来たのだと」と、ね。
功徳こそは
令和元年6月20日
二日連続で健康法のお話をしました。今日はちょっと、別な視点からお話をしましょう。
歩くことも、声を出すことも、健康法としてとてもよいことです。私はウォーキングと共に「水平足踏み(両膝を水平まで上げる足踏み)」を実践していますし、声出しならカラオケ・コーラス・詩吟・謡曲から、スポーツや武道の掛け声、野球やサッカーの声援など、いくらでもあります。このような中で、私が特に読経を進める理由は別にあるのです。皆様が信じる信じないはともかく、一応はお話しましょう。
それは何かと申しますと、読経をすることは〝功徳〟になるということなのです。そして功徳こそは、この世の人間が、あの世に持ちこせる唯一の財産であるということです。
私たちは実は、眼にも見えず、耳にも聞こえないいろいろな次元に関わりながら生きています。いつかお話をしましたが、家の中で口論をしたり、ガスや IH の周りを不浄にすると、失物をしたり盗難に遭ったりします。またお稲荷さまの社や家のお墓を荒れ放題ににすると、さまざまな災難に見舞われます(驚かしてスミマセン!)。
読経をすることは、仏さまにも神さまにも大きな功徳が積めるのです。そして、その功徳はあの世に持ち越せる唯一の財産となるのです。お棺に一万札をどれほど入れても、あの世には持ち越せません。ただ、この世でどんな生き方をしたか、何をしたか、つまりどんな功徳を積んだかだけが残り、これをあの世に持ち越すのです。そうでなければ、私たちは生まれた時から、裕福も貧困もありません。堅固も病弱もありません。優等も劣等ありません。これ、信じていただけますか?
窮屈なお話になってしまいました。でも読経をすると、功徳になることは確かなのです。仏さまの教えですよ。どうか、皆さま・・・。
他生の縁
令和元年6月1日
今日は月初めの回向法要があり、いつも法話をしています。5月18日に「縁の不思議さ」についてブログを書きましたが、同じようなことをお話をしました。皆様、熱心に聞いていただきまして、初夏の薫風のようにさわやかな一日となりました(写真)。
特に今日は、わざわざ青森より尼僧様がお越しくださいました。そのほか、新しい縁が少しずつ広がっています。私が何を望もうが望むまいが、縁があれば出会い、縁がなければ出会いません。また、今日お越しになるはずの予定が変更になったり、逆に急に時間が取れてお越しになった方もいらっしゃいます。
考えてみれば、お会いしたいと思いながらどうしても叶わず、反対に思ってもみない方とお会いするのも、すべてこれ縁としかいいようがありません。それでも、今日という日のこの時間とこの場所で、地球上の70億の人の中からこのように出会うのはよほどの縁です。まるで奇跡のような確率で、私たちは出会っているのです。
だから、人との出会いはその縁を通じて、必ず意味があるのでしょう。「袖すり合うも他生の縁」なのです。〈多少〉ではなく、〈他生〉と書きます。他生とは今世とは異なる人生、つまり前世のことです。だから、〈他生の縁〉とは前世からの縁という意味です。皆様もどうか、他生の縁を大切にしてください。これも仏教のお話なのですよ。
皆様、だんだんに怪しげな顔になってきました。こんなお話をしてから、冗談に入りました。奥深いお話ばかりでは、息が切れましょう。最後にお茶をいただき、お見送りをしました。もう一度お話しますが、薫風のようにさわやかな気持でお見送りをしました。
いいかげんに生きる
令和元年5月23日
人は「いいかげん」に生きることが大切です。
いや、決してふざけているのではありません。いいかげんとは〝よい加減〟です。〝ほどよい加減〟なのです。実は、これこそが仏教の根本命題である〈中道〉の教えそのものなのです。どっちつかずという意味の中道ではありません。ほどよい加減は、一つしかないのです。
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