正御影供と春彼岸会法要
令和6年3月21日
昨日は午前11時半よりお大師様の〈正御影供護摩(写真上)〉、午後1時より〈春彼岸会法要〉を奉修しました(写真下)。
正御影供はお大師様ご入定にちなんで、そのお姿(御影)をご供養するもので、独特の祭文が唱えられます。また春彼岸会では、光明真言を一年間お唱えした〈お土砂〉が配られ、その功徳についてお話をしました。なお、法要にあたっては能登半島大地震被災死亡者の回向を添え、そのご冥福を祈りました。
なお、春彼岸会法要の後は桜開花に先立っての〈桜まつり〉が挙行され、弟子僧がメンバーに加わる歌謡曲バンド「バブリーズ」による演奏と、八丈島の郷土芸能グループ「八丈太鼓八洲会」による和太鼓演奏がご披露されました(下写真)。
実はこの時間、朝霞市は雨と強風の予報で、雨雲が空をおおっていたのです。私は不動明王の秘伝を駆使して止雨と止風を祈りました。演奏者は雨を覚悟してテントの準備をしましたが、不思議なほど演奏の間だけ雨が止んでいました。桜まつりが終わったとたんに雨が降り出し、一同がそのご加護に感謝いたしました。ありがたいことでした。
初大師の金運宝珠護摩
令和6年1月20日
あさか大師では明日、21日の初大師を兼ねて、年頭の金運宝珠護摩が奉修されます。お参りの皆様には全員、「金運銭」(写真)が授与され、多くの方々が不思議な霊験に浴しています。
現代はお金に対する偏見を除き、お金の本質を知り、お金に好かれる生活をすべきです。そのためにも、皆様の背中を押すパワーを与えるべく、この金運宝珠護摩を発願しました。金運は自己啓発やプラス思考だけでは容易に達成できません。このことを、どうかご理解いただきたいと思います。
お天気には恵まれない予報ですが、多くの皆様にお越しいただき、ご自身で初大師とお護摩の勝縁をいただきますよう、願ってやみません。
大日如来のご威光
令和6年1月1日
明けましておめでとうございます。新年を迎えまして、ご一同様のご健勝をお祈り申し上げます。
今年もまた、あさか大師より日の出を迎え、大日如来のご威光を拝しました。すばらしい輝きに浴し、さらなるパワーをいただきました(写真)。人生の幸せは、このような身近なところにあることを痛感しています。生きることの、生かされることのありがたさに、合掌をせずにはいられません。
これより新春護摩のご祈祷に入ります。辰年の勢いに乗って、龍神のような飛躍を遂げましょう。また厄年・災難年に該当する方は、「厄除のお大師さま」に参拝して、わが身に降りかかる苦難を力強く乗り越えましょう。
なお、新春祈願大祭は元旦より節分(2月3日)までの午前9時より午後4時まで、随時お護摩を修しております。皆様のお参りを山内一同、心よりお待ちいたしております。
あさか大師の御朱印
令和5年12月20日
このたび、あさか大師の御朱印が新たに生まれ変わりました。来年の元旦より受付いたします(写真)。
この御朱印は「奉拝あさか大師・遍照殿」と読みます。お大師さまの本堂ですので、遍照殿と称しています。遍照金剛とは〈大日如来〉の意味ですが、私たちはご宝号を「南無大日如来」ではなく、「南無大師遍照金剛」とお唱えします。お大師さまがすなわち、大日如来であるからです。これはとても大切なことで、お大師さまそのものにすべての仏さまの功徳があることを忘れてはなりません。
また、あさか大師は桜の名所であり、寺紋でもありますので、用紙模様も桜にしました。日本を象徴する国花でもありますので、外国の方々にも好んでいただけると思っています。
来年は開山6年目を迎えますが、多くの皆様が参詣されるようになりました。御朱印を求める方も増えています。お大師さまのマンダラの教えは宗派を超え、教義を超えて、どのような方も参拝されます。新年には厄除・災難除を祈願して、災いを乗り切りましょう。
不動愛染両明王の開眼
令和5年11月20日
昨日は〈金運宝珠護摩〉が奉修され、大勢の参詣者で本堂がいっぱいになりました(写真)。皆様から「不思議なことがおこります」とのご報告も多く、その祈りはますます真剣です。
また同時に、皆様の報恩謝徳によって奉安された〈不動愛染両明王〉が開眼され、お大師さまのご威光がますます輝きました(写真)。なぜなら、お大師さまの左手にお持ちの念珠は不動明王の羂索(なわ)を表示し、右手の法具は愛染明王の五鈷杵(五智の象徴)を表示するからです。不動明王は胎蔵界、愛染明王は金剛界、お大師さまは両部不二の如意宝珠で、その如意宝珠の霊験がさらにあらたかになりましょう。そのことは、あさか大師の本堂に入れば、すぐに実感するはずです。
残すところ、一ケ月余りで新年を迎えますが、「厄よけ大師」の尊号が宣揚することは間違いありません。新年の厄除・災難除祈願へもお問い合わせもたくさん寄せられています。なお、令和6年の〈厄除・災難除早見表〉はホームページの「厄よけ・災難よけ」からご検索ください。新年の初詣で、皆様にお会いできますことを願ってやみません。
弘法大師ご誓願の秘密
令和5年9月15日
あさか大師ではこのたび、弘法大師(お大師さま)のご誓願である不動愛染両明王像(お不動さまと愛染さまのご尊像)を安置しました(写真)。私にとっても長い間の悲願でありましたが、5年目にしてその悲願が叶ったわけです。これであさか大師の霊験がますます広まることを信じて疑いません
では弘法大師のご誓願とは、いったい何でありましょうか。お大師さまは十八歳で奈良の大学に入りましたが、やがて中退して修験者となりました。そこで虚空蔵菩薩の真言を百万遍お唱えする荒行に挑み、ついに悟りの神秘体験を得ました。それはこの自然界と自分が、本来は一体であるという境地に到達したからです。
そして、自然界は胎蔵界と金剛界の陰陽が融合した如意宝珠であることも体得し、この世の道理を達観しました。真言密教の奥義は、実はこの如意宝珠にあります。私がお大師さまや金運宝珠のお護摩を奉修して、不思議な霊験がたくさん寄せられるのは、この如意宝珠のお力によるからです。
その胎蔵界を象徴するのがお大師さま左手の念珠(お不動さま左手の縄)であり、金剛界を象徴するのが右手の五鈷杵(愛染さま右手の五鈷杵)であります(写真)。またご自身の頭の形をして如意宝珠と意味づけました(頭の先端が尖っています。詳しくは私の『弘法大師御影の秘密』を参照)。
つまり、お大師さまはご自身が胎蔵界と金剛界が融合した如意宝珠であることを達観し、ご自身に縁ある者にかぎりない福徳を与えようというご誓願を、不動愛染両明王によって示しました。これが弘法大師ご誓願の秘密です。両明王の開眼法要は11月19日(日)午前11時半の〈金運宝珠護摩〉によって奉修されます。多くの皆様が、この勝縁に浴されますことを祈ってやみません。
心を一つにする方法
令和5年4月17日
人の心を一つにするには、何が必要でしょうか。言葉をもって、よく説き聞かせることでしょうか。あるいは規則を設けて、これを守らせることでしょうか。もちろん複数の人が集まって何かをする時、いずれも必要なことです。しかし一方、言葉への反感や規則への反論が生ずることもまた否めません。
ではいったい、ほかにどんな方法があるのでしょうか。大胆なお話をすれば、私はずばり、〈お祭り〉をすることではないかと思っています。つまり、言葉を超越した儀式が必要だという意味です。お寺でも神社でもお祭りで心を寄せ合い、お供えのお下がりをみんなでいただく直会(宴会)をすれば、黙っていても人は仲よくなります。だから、お祭りには人を夢中にさせる何かがあるのです。〈政〉とは〈まつりごと〉だというではありませんか。
しかし、お祭りは年に一度か二度しかありません。どうすればよいのでしょう。実は、お寺にも神社にも〈ご祈祷〉があるのは、そのためなのです。みんなで集まってご祈祷を受けることもまた、お祭りだということです。特に、会社の社長さんはこのことをしっかりと認識していただきたいと思います。
一昨日、ある土建業社の方々30人以上があさか大師に寄り合い、一同で工事安全と商売繁昌のご祈祷を受けました(写真)。
私は土建業社とはご縁が多く、このようなご祈祷をどれほど経験してきたか数知れません。そして、いずれの会社も事故がなく、あっても小難に留まり、つつがなく業務をまっとうしています。それは取りも直さず、ご祈祷というお祭りによって、みんなの心が一つにまとまるからなのです。
一昨日の方々も、最初から最後まで合掌を止めることなく、とても真剣でした。そして、皆様がすがすがしい気持ちでお帰りになりました。チームワークもよく、私は「この会社は必ず発展するだろう」と思いました。これは社長さんがどんなに言葉で説いても、決して成し遂げられることではありません。
お正月の初詣以来、これほどに本堂が埋まったことはなかっただけに、私もまた満ち足りた一日になりました。この気持がお寺の力となり、その力がまた、次の力を呼ぶのです。以心伝心は人もお寺も同じです。そして、心を一つにする方法でもあるのです。
人生の達人とは
令和5年4月3日
一昨日は、第三回目の〈桜まつり〉を開催しました。いつもの〈八丈太鼓まごめ会〉の皆様、イングランドポニーの〈はなちゃん〉のほか、当山僧侶からもシチリキ演奏が加わり、大いに盛り上がりました(写真)。
もちろん、今年は桜の開花がことのほか早く、満開を過ぎていたことは否めません。しかし、風が吹くたびに桜吹雪となり、その様相は格別のものがありました。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るかな」とは、『徒然草』の名言です。桜は満開の時、満月は曇りのない時ばかりがいいのだろうかという意味です。つまり、散りかけた桜や、雲のかかった名月もいいではないかと、発想を逆転させました。これは不完全をさえ美しいと見ることのできる、日本人の英知です。
完璧であることは、もちろんいいことです。しかし、少し足りないくらいが、また親しみがあるの事実です。人もまた完璧であったなら、どれほど息苦しいかわかりません。しかし、欠けたところもまた、魅力の一つとなりましょう。何もかもそろっているより、アレがあったらいいと思うくらいが、ちょうどよいのかも知れません。そのために労を惜しまず、そのために働く時こそが、人は生きがいを感じるのではないでしょうか。
一昨日の桜は、その不完全の美そのものでした。雨が続いたのに花が残っていただけでも、よしとせねばなりません。「去年は満開でしたね」「来年が楽しみですね」などとお話ができたのも、不完全がゆえのことです。それがまた、楽しいひと時となりました。
人生は思うようにはなりません。しかし、何ごともいいように受け止める人ほど、実は思うようになるのです。つまり、いい時はいいなりによく、悪い時は悪いなりによくと思える人こそが人生の達人です。思うようにならない時、皆様は愚痴をいって嘆きますか。このくらいでよかったと、考えを改めますか。人生の達人は、ご自身の中にもいるのです。
明日まで待てません
令和5年3月28日
あさか大師の桜が満開となりました(写真)。今日、明日が見ごろでしょうか。皆様には、ぜひお花見にお越しいただきたいと思います。
ところで、桜というと私は、親鸞聖人が詠んだとされる歌が憶念されてなりません。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
これは親鸞聖人が九歳の折、仏門に入ろうと決心して比叡山の天台座主・慈円さまを訪ねた折の作とされています。ところが、すでに夜だったので、慈円さまは「明日になったら得度式(仏門に入る儀式)をあげましょう」と語りました。しかし、聖人は「明日まで待てません」として、この歌を詠まれたのでした。
すなわち、「美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと油断していいものでしょうか。夜半に嵐が吹いて散ってしまうかも知れませんよ」という意味になります。つまり、自分の命を桜に喩え、明日はどうなるかわからないから、今すぐ自分の願いを叶えてほしいと懇願したのでした。慈円さまが、「この子はただ者ではないな」と思ったのも無理はありません。とうとう、その日の夜のうちに得度式を済ませたというのです。
ちょっと、でき過ぎたお話とは思いますが、心に残る道歌として忘れることができません。子供の頃、「今日できることを明日にのばすな」などと教えられましたが、桜に喩えられると、情感がこもります。たしかに、明日に延ばしてホゾをかんだ覚えが、ないはずはありません。このところ風雨が続き、満開の桜もこの歌のとおりです。
境内にて4月1日午後2時より、第三回〈桜まつり〉を開催します。少しでも〝仇桜〟とならぬことを願っていますが、この歌を肝に銘じて、葉桜でもよしとせねばなりません。私も皆様も、明日はわが身です。すべては縁のなすままです。
金運護摩で何が変わるのか
令和5年3月20日
あさか大師では昨日の午前11時半より、毎月恒例の金運護摩を修しました。そして桜が開花を始める中、皆様が熱心にお参りをされました(写真)。
ところで、金運護摩にお参りすると、何が変わるのでしょうか。金運を祈れば、一万円札が天からパラパラと降って来るのでしょうか。もちろんそんなことは、絶対にあり得ません。では、何が変わるのか。これはとても大切なことです。
私はいつも、「真剣に祈れば、必ず何かが変わりますよ。ただし、アンテナをはって注意することですよ」とお話をしています。なぜなら、霊験は間接的にやって来ることが多いからです。病気なら、その病気に対する〝情報〟としてやって来るということです。適切な医者や病院を知らされたり、効能のある食事法や民間療法が知らされることでしょう。ただし、どこから知らされるかはわかりません。テレビで知らされることもあれば、友人から知らされることもあります。手にした本や雑誌で知らされることもあります。それを注意して、アンテナをはることです。
金運なら、仕入れのこと、応対のこと、技術のこと、商品のこと、雇用のこと、従業員のこと、融資のこと、運営のことなど、さまざまなヒントがさまざまな情報としてやって来ます。金運はそれに気づき、それを受け入れるところから始まるのです。それを受け入れ、努力を重ねなければ、金運は決して上がりません。つまり、すべては心がけなのです。その心がけさえしっかりしていれば、霊験は必ずやって来ます。
信仰は心の支えです。勇気がいただけます。背中を押していただけます。そして、心がけが変われば生き方が変わります。生き方が変われば、金運も変わり、新しい未来に向かいます。