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加持祈祷の極意

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令和2年5月7日

 

人は病気になるから健康を守れる、とお話をしました。このような逆発想をしていきますと、人生の多くのことがわかってきます。

たとえば、私たちは不幸と思うことがあるから幸福を願えるのです。幸福とは何かというなら、それは幸福を願わずにいられることです。また、失敗をするから謙虚になれるのです。うまくいっている時は、反省することも危険だと思うこともありません。また、くやしい思いをするから向上心がくのです。しかられたり、はじをかいたりしなければ、さらに努力しようとも思いません。だから、それを意識するしないにかかわらず、望む望まないにかかわらず、私たちは大きな〝ご加護〟の中で生きているのです。これが生命という尊いはたらきです。

ところで、私は毎日お護摩を修していますが、病気平癒びょうきへいゆのご祈願が必ず寄せられます。特に重症の方は、写真をおあずかりして護符に封じてもいます。その時、どういう気持でご祈願をしているかというと、生命の尊いはたらきを信じるという一点に尽きるのです。病気は医師が治すわけではありません。ましてや、私が治せるはずもありません。回復を助けるためのサポートはしますが、病気を治すのは病気そのものなのです。生命の尊いはたらき、つまり本人の自然治癒力しぜんちゆりょくなのです。

真言密教には〈病者加持法びょうじゃかじほう〉という、いわゆる病気平癒の祈願法があります。その極意は、お大師さまのご加護と本人の自然治癒力を信じることなのです。念力や超能力で病根を断つのではありません。病根は健康を守ろうとする尊いはたらきなのです。これを断っては治るものも治りません。私には念力も超能力もありませんので、ひたすらその尊いはたらきをお大師さまにお願いしています。その無心な気持ちがなければ病気平癒のご祈願などできません。そして、私が無心になればなるほど霊験が顕現けんげんします。

このことは病気のご祈願にかかわらず、あらゆる加持祈祷かじきとうの極意でもあるのです。念力や超能力は極度の集中力を要しますので、かなりの疲労を覚えるはずです。私の加持祈祷はお大師さまにお願いし、お大師さまのお力をいただくのですから、自分もまた元気になります。とてもありがたいことで、ご祈願が楽しくなります。

そして、人の体こそは宇宙の縮図、仏さまのうつわであることをますます確信しています。頭が丸いのは天空に等しく、足を組んで坐禅をすれば大地に等しいのです。自然界のあらゆる姿が、人の体にあるのです。私たちは信じる信じないにかかわらず、大きなご加護の中で生きているのです。生かされているのです。

疫病と般若心経

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令和2年3月7日

 

このたびの新型コロナウイルスによる肺炎感染の疫病えきびょうは、地球をあげての危機となりました。実はお大師さま四十五歳の折、大変な疫病が流行しました。そのことは著作『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』十一段の上表文じょうひょうのもんに記載しておられます。大略をやさしい現代文にしてみましょう。

弘仁こうにん九年(818)の春、天下に大変な疫病が流行はやった。そこで嵯峨天皇さがてんのうは自ら金泥きんでいを筆先にめ、紺色こんしの紙を押さえて『般若心経』一巻を書写された。私はおそばにあって『般若心経』の功徳を講義していたが、絶命したと思われた人が蘇生そせいし、夜なのにまるで日中のようなまばゆい光までも出現した。(中略)昔、私はまさにお釈迦さまの霊鷲山りょうじゅせんでの説法の席にいて、この経の深い意味を聞いたのであるが、今こそこれを解き明かしたのである」

嵯峨天皇のこの写経は「勅封ちょくふう般若心経」と呼ばれ、現在も京都嵯峨・大覚寺だいかくじ〈心経殿〉に奉安され、60年に一度だけ寺院関係者に開封されています。弘仁九年は戊戌ぼじゅつ(つちのえいぬ)の干支かんしでしたので、その干支が60年に一度巡って来るからです。最近では平成三十年が戊戌に当たり、しかも弘仁九年からちょうど1200年目ということで、大覚寺では記念法要が奉修され、しかも一般公開までされました。

この上表文を鎌倉時代の日蓮聖人などは、根も葉もない「大妄語だいもうご」としていますが、嵯峨天皇の「勅封般若心経」が大覚寺にあることはまぎれもない事実です。そして弘仁九年の疫病にかぎらず、『般若心経』が数々の病魔を降伏ごうぶくさせてきたことも事実です。お釈迦さまより直接この経を聞いたとする結びの表現も、決して絵空えそらごととは思いません。お大師さまご一代の行状ぎょうじょうを見れば、このような超越的なお話は十分に考えられるからです。またお大師さまが、『般若心経』を特に重んじられた深義もここにあるからです。

いま地球をあげての感染危機に直面し、一人でも多くの方々が『般若心経』の読誦どくじゅ、あるいは写経に励まれますことを念じてやみません。私も毎日のお護摩では必ず『般若心経』を大太鼓の轟音ごうおんと共に読誦し、疫病の終息を祈念しております。

赤ちゃんは「オギャー」と泣くのか

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令和2年3月5日

 

阿字あじの子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ちかえる 阿字のふるさと」というお大師さまの歌があります。すぐれた弟子であった智泉ちせん(お大師さまのおい)さまが、三十七歳の若さで世を去った折、その悲しみをいやすために作られたとされています。

阿字というのは真言密教の教主・大日如来のことで、いわば仏のふるさとを象徴しょうちょうします。よく位牌いはいの上に書かれている、あの梵字ぼんじのことです。つまり、人間は仏の子として仏の国から生まれ、やがてはまた仏の国へ帰る〝本来不生不滅ほんらいふしょうふめつのいのち〟であるいう意味です。死者は仏の国に帰るのですから、位牌に阿字が書かれるのは当然といえましょう。

ところで、阿字のふるさとを立ち出でて誕生した仏の子、つまり人としての赤ちゃんはどのような産声うぶごえを発するでしょうか。普通、赤ちゃんは「オギャー」と泣くといいますが、私はどうも違うのではないかという疑問を持っています。なぜなら、赤ちゃんは口を開けて泣くのです。口を開けたら「オ」にはなりません。私はたぶん「アギャー」と泣くのだと、若い頃から想像していました。しかし、赤ちゃんはまだはっきりとした発音ができません。だから、何となく「オギャー」と聞こえるのではないでしょうか。

私はこのことを確認すべく、出産経験のある多くの女性に質問して来ました。また、伝授の折には尼僧にそうさんにまで質問しました。しかし、明確な答えは得られませんでした。出産は女性にとって一生の難事であり、産声を正確に聞き取る余裕などないというのがその答えで、私の失態に終ったわけです。

しかし今は、ネットの動画で誰にでもその声を聞くことができます。間違いありません。赤ちゃんは大きく口を開けて、「アギャー」と泣くのです。つまり、「仏の国から今こそ生まれたぞ!」という宣言を、この阿字によって発しているのです。生きるということは声を発することです。声の大きい赤ちゃんは丈夫に育ちますし、元気な人はみな声が大きいはずです。つまり、存在とは振動であり、響きであり、声なのです。したがって、声が出なくなったその時、私たちはまた阿字のふるさとに帰るのです。

今日のブログは皆様にも、そして真言宗僧侶のすべての方々にも読んでいただきたいお話です。そして、お大師さまは本当に偉大なお方だと、改めて憶念おくねんしていただきたいお話です。

愛欲という煩悩

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令和2年2月25日

 

今日は真言宗僧侶お二人の方が見え、〈愛染明王法あいぜんみょうおう〉という行法の伝授をしました。愛染明王あいぜんみょうおうは不動明王(お不動さま)とならんで、真言密教を代表する明王(仏が煩悩ぼんのうを怒る姿)です。すなわち、人がもつ煩悩ぼんのうの一つである愛欲あいよくをも、そのまま悟りへと導く誓願せいがんをもった仏さまが愛染明王なのです。

当然ながら、人には煩悩があり、その煩悩を絶つことはできません。特に男女の愛欲に関しては、今さら私がお話するまでもなく、きわめてやっかいな煩悩といえましょう。財欲や名誉欲と共に、生きているかぎり消え失せぬ煩悩が愛欲なのです。

しかし、お話を日常的な次元で述べるなら、男性なら女性にモテたい、女性なら男性にモテたいという欲望なくして、人は何の努力もしません。その結果、進歩もありません。たとえば、高齢になっても元気で生き生きとしている方は、常に異性を意識しています。そして、何らかの〝努力〟をしているはずです。明るい配色の洋服を着こなし、若いトレーナーを選んでスポーツクラブに通い、おっかけをしてステージを巡り、カルチャーセンターで知性をみがき、旅行を楽しんで景観にふれ、ウォーキングやカラオケを日課のようにしています。そして、食事や睡眠に配慮して健康を維持し、男女を問わず明るく美しく、生きることの意味を考えています。これらは、まったく愛欲という煩悩なくして果たせるはずがないのです。

煩悩はその使い方で、善にも悪にもなるのです。真言密教の教えを申し上げるなら、煩悩に使われれば煩悩のままですが、上手じょうずに使えば悟りになるのです。煩悩に使われれば凡夫でも、上手に使えば仏なのです。だから「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」というのです。煩悩なくして人生はありません。生きがいもありません。やっかいな愛欲も、その煩悩なのです。

愛染明王のお話のはずが、とんでもなく脱線してしまいした。でも、「そのとおり!」と思いませんか。そうでしょう。

ホ・ジュンの名言

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令和2年2月23日

 

韓国歴史ドラマの名作に『ホ・ジュン(宮廷医官への道)』があり、大変に感動しつつ視聴した記憶があります。

彼はめかけの子という不遇ふぐうの身分でこの世に生まれ、あらゆる災難や辛苦しんく、差別や偏見を受けながら、ついに朝鮮第一の名医となりました。そして、晩年には朝鮮初の漢方医書『東医宝鑑とういほうかん』を完成させました。この『東医宝鑑』は、今では世界遺産としても知られています。

私はこの『東医宝鑑』をいつかは読んでみようと思いつつも、かなり高価でもあり、いまだに果たせないでいるのが残念です。ただ、このドラマの中でホ・ジュンが語る名言があり、私は夢中でメモをとりました。たぶん、この『東医宝鑑』の文中に記載されているのでしょう。

最近、何年も前のそのメモが見つかりましたので、皆様にご紹介しましょう。

「人の頭が丸いのは天に似て、足が四角いのは地に似る。天に四季があるように、人には四股しこ(両手足)がある。天に五行ごぎょう(木・火・土・金・水)があるように、人には五臓ごぞう(心・肝・・肺・じん)がある。天に六極ろっきょくしつゆう・貧・悪・弱)があるように、人には六腑ろっぷ(大腸・小腸・胆・胃・三焦さんしょう膀胱ぼうこう)がある」

人の足が四角いというのは、座禅のように足を組んだ時、大地のように四角い形になるという意味です。上記の表現はつまり、人の体がすなわち宇宙の縮図であるという意味で、まさに真言密教の思想と瞑想世界を表わしているといっても過言ではありません。あさか大師は360度視界が開けますので、境内の中ほどで足を組んで座ると、頭を拡大すれば天となり、足を拡大すれば大地となることがわかります。そして五臓六腑そのものも、この自然界の動きに等しいことがわかります。

私はこのメモを大事にして、後進の指導に役立てたいと考えています。さっそくパソコンに入力し、いつでもプリントができるよう準備をしました。

宗派を超えて

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令和2年2月2日

 

今日も昨日と同じく、行く始めの回向行事をいたしました。九日(日)が「開運星祭かいうんほしまつ大護摩供おおごまく」の行事なので、集まった僧侶の方とその準備に入りました。左端に星祭り曼荼羅まんだらの一部が見えると思います(写真)。明日から前行ぜんぎょうに入り、七日後の当日に結願けちがんのお護摩をいてお札を祈念します。

この頃は真言宗のみならず、天台宗・浄土真宗・神官の方々などが集まって、とても楽しくなりました。各宗のニュースも聞けますので、私は居ながらにしていろいろな情報を得ていることになります。お大師さまの真言密教は、宗派などにとらわれることなく、どんな教えでも受け入れる順応性があります。

もちろん、教義をたどれば矛盾もありましょう。しかし、そんなことで争いを起こしているようでは、宗教界に平安はありません。社会に対しても、申し訳がたちません。今日、真言宗と天台宗が高野山で合同法要をしたり、ヨーロッパの聖堂で声明しょうみょう(経典や真言による声楽)の公演をしたりするのは、とても喜ばしいことです。

今後も宗派を超えて、いろいろな方々とお会いできることが、私のひそかな願いです。一つだけ悩んでいることは、真言密教は仏具代が高価であることです。得度とくどをして仏門に入り、次に加行けぎょうという修行を成満じょうまんした後には金属製の仏具が必要になります。特にお若い方は、その工面が大変です。いい情報がございましたら、お教えてください。

大欲清浄

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令和元年12月20日

 

人は〈よく〉で生きています。あれが欲しい、これが欲しいと思うからこそ懸命けんめいに働き、悩み、傷つき、時には笑い、喜び、欲しいものを得れば満足します。

ところが、その満足が続くかというと、そうはいきません。お金が欲しいといいながら、お金が手に入れば今度は、そのお金を維持することで苦しみます。名誉が欲しいといいながら、その名誉が手に入れれば今度は、さらに上の名誉が欲しいと苦しみます。一つが手に入れば、さらに上を望み、一つが欠ければ、また次を望むのです。人は苦しみがあるから苦しむのではなく、自らの欲によって、その苦しみをつくり出して苦しんでいるのです。

では、その苦しみのもとである欲を捨てることができるかというと、そうはいきません。人が生きるとは、実は生きることそのものが欲であるからです。お金も名誉も、健康も趣味も、勉学も教養も、さらには美しいものも、心のやすらぎも、すべては欲がなくして得ることはできません。欲があるからこそ、求めるものを得ることができるのです。「求めない」ことを美徳とする方がいますが、それは「求めない」ことを求めているのだと私は思っています。

お釈迦さまやお大師さまでさえ、大きな欲がありました。それは私たちのようにお金が欲しいとか、名誉が欲しいとかいった小さな欲ではありません。「一切の人々を救済しよう」という、とてつもない欲でした。欲を捨てるのではなく、逆に生かすことでこれを実践したのです。真言密教ではこれを「大欲清浄たいよくしょうじょう」といいます。

人はおおいに欲をかくべきだと、私は思います。ただし、清らかな欲をかきましょう。人を喜ばせ、家族を守り、仕事に励み、世の中の役に立つような欲をかきましょう。欲はそれ自体が悪いのではなく、その使い方によって善にも悪にもなるのです。おおいに欲をかき、清らかに生かしましょう。「大欲清浄」です。

生きること、生かされること

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令和元年12月3日

 

 今日も得度式とくどしき(仏門に入る儀式)があり、お二人の新発意しんぼっち(得度の志願者)が仏門に入りました(写真)。

 もちろん私が戒師かいし(お導師)を勤めましたが、お二人とも真剣に、そして何度も礼拝らいはいを重ねました。お大師さまをはじめ、国王(天皇)・両親・鎮守ちんじゅと続き、最後に親族や友人ともお別れの礼拝をしました。なぜ家族や友人とお別れするのかといいますと、今後はたとえ家族として同居をしても、また友人として会っても、今までとは違うことを自覚するためです。つまり、世俗にあっても、世俗に染まらぬことを誓うためなのです。式典の後は、どこか覚悟が決まった表情になりました。

 ところで、お会いしたこともない天皇陛下になぜ礼拝をするのかといいますと、私たち日本国民のすべてが皇恩こうおんを受けているからからです。以前にもお話しましたが、日本は世界最古の国家なのです。2600年以上も一度として滅びることなく、天皇家が絶えることなく、これほど平和が続いた国家など、この地球上にはほかにありません。このすばらしい国に生まれた私たちは、その皇恩にむくいねばなりません。私たち一人ひとりが日本のために、その日本は世界のためにあるからです。

 次に両親については、当然のことだからです。たとえ両親とどのような関係にあろうとも、今日の〝いのち〟があるのは、何があろうとも両親のおかげだからです。苦労をかけた両親に向かって礼拝をする時、その両親も新発意も感極まるものがあります。

 鎮守とは生まれ故郷の神社のことです。私は「生まれ故郷を思い出しながら礼拝してください」とお話しています。長い人生の中で、自分の生まれ故郷がどのようなものであったかには、大きな意味があります。日ごろは思い出すこともありませんが、いわば自分自身を作り出した「原風景げんふうけい」なのです。その神さまとの縁によって、私たちが生まれてきたことを忘れてはなりません。また、真言密教はこのように、仏さまも神さまも大事にしているということでもあります。 

 得度式の意味を考えると、改めてお大師さまの偉大さがわかります。私たちはそれほどに、多くの恩によって生きてきたのです。いや、生かされてきたのです。生きることとは、生かされることだったのです。不思議な縁によって戒師を勤めましたが、さわやかな気持ちでお二人の前途を祝しました。

日の吉凶判断

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令和元年11月14日

 

真言密教では日の吉凶を決める場合、『宿曜経しゅくようきょう』という経典に説かれる「二十七宿しゅく」、あるいは「二十八宿」によって判断します。

私も入籍の日、結婚式の日、開店日、移転日などを問われた場合、これに基づいてお答えしています。つまり、ここでは世間でよく言われる「大安」や「仏滅」は、本来はまったく無視してもよいのです。しかし、おめでたい日が「仏滅」で喜ぶ人はおりませんので、そこは兼ね合わせて判断する必要があります。

問題は、その「二十七宿」と「二十八宿」のどちらの説を用いるかです。皆様がお持ちの暦でもこの両説があって、どちらが正しいのかとよく質問を受けます。むずかしいお話はともかく、結論を申し上げれば、『宿曜経』を請来しょうらいされたお大師さま(弘法大師空海)は「二十七宿」を用いられました。あさか大師でお渡ししている「開運暦かいうんれき」も、これに従っています。

日本に現存する最古の『宿曜経』は高野山の霊宝館れいほうかんにあり、平安時代の写本ですが、これはもちろん入手することはできません。ところが、2011年の東京古書会館大入札会で京都の同志社大学が、これに次ぐ時代の写本を落札しました。これは高野山のものと比較しても、決して劣るものではありません。写真は私が所蔵する、そのコピー製本です。

皆様が「二十七宿」か「二十八宿」か迷うことがありましたら、必ず「二十七宿」に従ってください。お大師さまが用いられたのですから間違いはありませんが、『宿曜経』で実際に占いをしている先生方も、みな「二十七宿」を用いています。

平安時代の貴族が用いた暦には、「二十七宿」の下に予定を書き入れるのらんがあります。つまり、当時は暦が予定表だったのです。「二十七宿」がそれほどに、生活の中に溶け込んでいた事実も申し上げておきましょう。

虚空蔵

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令和元年9月18日

 

この自然界、この宇宙には、実は無限の宝や無限のお金をたくわえるくらがあるのです。真言密教では、これを〈虚空蔵こくうぞう〉といいます。

私たちが何かを欲しいと思った時、それにあたいする何かを世の中に与えた時、私たちはその虚空蔵から運ばれて、望むものを手に入れることが出来るのです。すなわち、一億円をかせげる人とは、一億円に値する何かを世の中に与えた人なのです。スーパースターは、だから一度に何億円も稼ぐことが出来るのです。しかも彼らは、お金のために生きているのではなく、世の中を喜ばせるために生きているのです。このことが、わかりますでしょうか。

皆様のまわりを見てください。多くの友人に囲まれ、多くの物に恵まれ、多くのお金を手に入れている人は、それに値する何かを世の中に与えているはずです。人を喜ばせ、人のために役立ち、人に必要なものを与えているはずです。逆に、友人にも物にもお金にも困っている人は、常に他人の悪口を言い、不平不満をこぼし、世の中に与えるものが少ないはずです。

さらに申し上げれば、皆様が失物うせもの盗難とうなんにあったり、詐欺さぎにあったりして何かを失った時は、それは失ったのではなく、虚空蔵に〝返した〟ということなのです。その理由は、もちろん様々さまざまです。それを失う何かの原因があったからなのです。そして、その原因をつぐなう行為をなした時、失ったものは必ず返って来ます。

だから、世の中に与えずして手に入れたものは、逆に必ず失うことになります。宝くじやギャンブルは人生の楽しみです。しかし、宝くじやギャンブルで手に入れたお金はいずれあわのように消え失せ、手に入れた以前よりかえって貧しい生活を送ることになるのです。そのような例は、ネットで検索すればいくらでも出ています。宝くじやギャンブルでお金を手に入れたら、すぐにでも虚空蔵に返すことです。つまり、ユニセフや赤十字、被災地に寄進をすることです。

私は若い頃に、一時は赤貧せきひんの生活を経験しました。それでも、この真理を知っていたために救われました。人生で最も大切な真理です。

山路天酬密教私塾

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