心はどこにあるのか
令和2年1月25日
人間の心とは、いったいどこにあるのでしょう。
ものを考える脳と感情を示す心とが、まったく無関係とは思えません。だから、心は脳と共にあるような気がします。また一方、「自分の胸に聞いてみろ」などと言うように、心臓が位置する胸にあるようにも思われます。よく、心(気持)のことを♡(ハート)で表現するのはその意味でしょう。真言密教では〈心〉と表記して、常に「むね」と読んでいます。観想において、「心の上に月輪あり」などと読むのがその例です。
ところが、日本語には「腹が立つ」「腹を割る」「腹黒い」「腹をさぐる」「腹にいちもつ」などと、まるで腹が心であるような表現が多いのです。実は脳の中に存在しているはずのホルモンが、腸内にも存在していることが最新医学では証明されています。
睡眠や体内リズムを整えるメラトニン、幸せや癒しの気分を与えるセントニンをはじめ、喜びをもたらすドーパミン、悲しみをもたらすノルアドレナリン、怒りをもたらすアドレナリンなどが腸内にも存在し、「脳・腸管ペプチド」などと呼ばれています。このことは、ストレスが重なると便秘や下痢になり、腹をこわすと気分まで悪くなることでも明白です。腸が位置する腹をこそ「臍下丹田」と呼び、全身の〈気〉が集まる生命力であり、心そのもののようです。。
「腸内フローラ」という言葉が美しいお花畑を意味するように、私たちは腸内環境を整えてこそ、美しい心も健康も手に入れることができるのでしょう。これは私の考えですが、腸内環境がイキイキとしている人は、あまり腹を立てることも少ないのではないでしょうか。たぶん、正しいと思いますよ。
シクラメンの「かほり」
令和元年12月5日
『シクラメンのかほり』が流行った頃、作詞・作曲の小椋佳さんは第一勧銀(当時)の行員でした。取引先の会社で休息をしていた時、なじみのない花であったシクラメンを見て、突然に浮かんで来たそうです。なじみのない花から名曲が生まれるのですから、音楽とは(いや、むしろこの世そのものが)奇妙なものです。
「真綿色した シクラメンほど 清しいものはないーー」。実は、この歌詞には問題があるとの指摘がありました。
①「香り」の旧仮名づかいは「かをり」であって、「かほり」ではないこと。
② シクラメンには匂いがなく、したがって「かほり」もないこと。
③「真綿色」という日本語はないし、白のシクラメンは純白であること。
皆様、いかがでしょうか。この指摘に反論ができますでしょうか。
①については、歌人や俳人からただちに指摘がありました。「香り」の由来は「香居(を)り」だからです。もっとも、平安時代には「かほり」と表記することもあったそうですが、小椋さんがそこまで意識したとは思えません。
②は確かにそのとおりです。少なくとも、この当時のシクラメンに「かほり」はありません。
③については私が所持する『日本の色辞典』で調べましたが、やはり「真綿色」はありませんでした。真綿とは絹の綿です。白にほんのりと薄い黄を帯びた色ほどに考えられますが、しかし白のシクラメンはまったくの純白です(写真)。
ところが、私は数年前に小椋さんの奥さんの名が「佳穂里」であることを知りました。妻に捧げた思い出の歌であるなら、この「かほり」でいいはずです。小椋さん自身はこのことを否定するような発言をしたそうですが、さあ、どうでしょう。「出逢いの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」と、これは明らかに一人の女性を歌っています。
文章作品は、現実と虚構とが微妙にからみ合うものです。だから、〝うそ〟を描くのは常のことです。つまり、この歌は幻の「かほり」さんとの出逢いの時と、恋する時と、別れ道の時を、三色のシクラメンで表現した抒情詩なのです。奥さんであってもいいし、架空の女性であってもいいのです。そして、純白ではない「真綿色」という造語も、香りのないシクラメンも「かほり」さんには必要だったのです。「暮れ惑う別れ道」で揺れていたのも、シクラメンのような「かほり」さんでした。これが正しいと、私は確信しています。
私が葬儀をしたある男性で、「和尚さん、何もいらないから若さだけが欲しい」と語った故人がいました。若い青年も、そして熟年も、〝ときめき〟を忘れてはなりません。それが〝若さ〟なのです。歌の最後には、「呼び戻すことができるなら 僕は何を惜しむだろう」とも。
終身犯
令和元年11月20日
昔のアメリカ映画ですが、実話を元にした『終身犯』という作品がありました。
主人公のロバートは、恋人に乱暴をした男を殺した罪で懲役12年の判決を受け、刑務所に服役していました。しかし、母のエリザベスを侮辱した看守をさらに殺してしまい、死刑を宣告されました。ロバートはいうなれば、殺人という最も恐ろしい業を背負って、この世に生れて来たのです。しかし、悲しんだ母が嘆願運動を行った結果、終身刑にまで減刑されました。
ある日、彼の独房に一羽の傷ついた小鳥が迷いこんで来ました。退屈ですることもなかった彼は、この小鳥にかぎりない愛情を注ぎました。独房の貧しい食事を与え、必死に看病を続けました。そして、ついにその小鳥が元気を回復して飛び立った姿を見て、彼はこれまでに味わったことのない人生の喜びに打ち震えました。
彼はその後、独房で許されるかぎりの鳥を飼育し始めたのです。そのための研究書も取り寄せ、同好の人とは文通での相談役にもなりました。彼の研究はいよいよ深まり、論文も高く評価され、その道の権威にさえなりました。また、彼の業績に対する減刑運動が起こったり、彼の論文に共鳴した未亡人のステラと獄中結婚までしたのです。
そして、彼の獄中での態度も評価され、やがて他州の刑務所に移されることになりました。新たな刑務所で鳥の研究ができることに夢をいだきつつ、終身犯のロバートは希望に満ちた未来に向かうのでした。
殺人という狂悪な犯罪と、献身を捧げる美しい慈善と、人の心にはいずれともなく秘められています。ただ、その縁に触れて業が催し、悪事に染まらぬことで、人はまずまず平穏に生きられるのです。しかし魔の誘いは、いつ訪れぬともかぎりません。
日本選手の笑顔
令和元年9月19日
私は現在、ほとんどテレビすら見ない生活をしています。それでも、たまには息抜きに画面をのぞくと、奇妙に欲しいと思っていた情報が入るものです。番組そのものよりも、そのことを意識しているからかも知れません。
先ほど、ちょっとリモコンを押しましたら、日本と中国の女子バレーボールが放映されていました。最後の頃でしたが、15分ほど観戦しました。相手はさすがに世界ランク一位だけあって、三セットをストレートで敗れました。余計なことでしょうが、私はバレーボールはきわめて不公平なスポーツだと思っています。なぜなら、小柄な日本選手がどうガンバっても、見上げるようなデカ女(失礼!)に勝てるはずがありません。相手は日本の10倍も人口がいるのです。国中を探せば、いくらでも人材がいます。だから、私は小柄でも公平にプレイができるスポーツに期待を寄せています。
ところが、日本選手たちはどんなに点数を取られても、ミスをしても、常に笑顔を忘れず、何度もタッチをして肌を寄せ合い、最後まであきらめませんでした。立派だと思いました。あの状況の中で、あれだけの笑顔を保つのは、よほどの精神的強靭さが必要です。並みの特訓ではできません。おそらく、歯をくいしばって笑顔を見せる練習をくり返すのでしょう。
うれしい時に笑顔を見せることは誰にでもできます。しかし、くやしい時、つらい時、悲しい時に笑顔を見せられる人は、きわめて稀です。試合には敗れましたが、私はリモコンを切る前に、日本選手たちに大きな拍手を送りました。そして、このような番組を放映してくれテレビにも感謝をしました。
続・はじめに心あり
令和元年8月23日
昨日、心を変えることの大切さをお話しました。心がすべての始まりであるとお話しました。
実は、このお話には続きがあります。それは何かといいますと、眼に見えない心は、逆に眼に見えるものからも変わるということなのです。つまり、見た目も大事であるということです。
わかりやすい例をお話すれば、たとえば女性が精神的に落ち込んだ時、美容室やエステに行ってリフレッシュすると気分が変わります。これは、心を変えるために、逆に外見から変えることの大切さを知るヒントなのです。さらに講釈をすれば、体を持つ者は、体において弱いということです。眼に見えぬ心は、眼に見える体に弱いということです。心の強さは、常に維持できるものではありません。
よくお話をするのですが、精神的な悩みに対しては、むしろ体や行動で対応した方がよいのです。たとえば眠れないという方は、心と体の疲労バランスが悪いからなのです。精神的には疲れていても、重労働をしたわけではありません。そこでウォーキングや水泳をして体をクタクタに疲れさせると、とてもよく眠れます。
私などは修法(瞑想)や執筆で精神的な仕事が多いのですが、太鼓を打ったりや法螺貝を吹いたりで、疲労バランスがよいのです。眠れないということは、まずありません。横になれば、一分以内に〝お浄土〟です。
「はじめに心あり」は、もちろん大原則です。しかし心と体、心と外見、心と行動は常に密着しています。「見た目が九割」も、あながち誇張ではありません。眼に見えない心を変えるため、眼に見えるものから変えることも大切なのです。
はじめに心あり
令和元年8月22日
たとえば初めてメガネをかけた時、本人もまわりの人も、何となくぎこちなさを感じるものです。ところが二、三ヶ月もすると、とてもメガネが似合うようになります。つまり、メガネ用の顔になって来るのです。
これはなぜなのかと言いますと、「自分はメガネが必要になった」という意識に、自分の体が反応したからなのです。メガネをかけた姿を鏡に写しているうちに、「もうメガネは手放せない」という自覚になり、それが体に反応したということなのです。
このことは、ほかにも思い当たる例がいくつもあります。
僧侶になる儀式を得度式といいますが、私はその得度式のお導師(戒師)を何度も勤めました。ういういしい姿で髪をそり、初めて墨染の衣や袈裟を着用した時は、何となくサマになりません。ところが、その後に本尊への礼拝を何度もくり返し、正座をして読経をくり返していくうちに、どことなく僧侶らしくなって来るのです。その物腰に僧侶らしい威厳が現れて来るのです。これも、自分は僧侶であるという覚悟が、全身に反応するからです。
また、デビュー当時はアカぬけしなかった女優さんががスターになると、まるで一変します。まず、目の輝きも、全身の輝きも違って来ます。そしてステージや画面に映る姿にも、いかにもスターであるという貫禄が備わって来ます。自分は人気のスターなのだという自信が、このように変身させるのです。
こうした現象は、眼に見えない心のあり方が、眼に見える姿といかに直結しているかの証明にほかなりません。「はじめに心あり」なのです。はじめに心があり、心が言葉や行動を変え、心が人生を変えるのです。
何をするにも、まずは心が大切です。心に真剣さがなくては、何も始まりません。何も進みません。心が変われば言葉が変わるのです。言葉が変われば行動が変わるのです。そして、行動が変われば人生が変わるのです。