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大欲清浄

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令和元年12月20日

 

人は〈よく〉で生きています。あれが欲しい、これが欲しいと思うからこそ懸命けんめいに働き、悩み、傷つき、時には笑い、喜び、欲しいものを得れば満足します。

ところが、その満足が続くかというと、そうはいきません。お金が欲しいといいながら、お金が手に入れば今度は、そのお金を維持することで苦しみます。名誉が欲しいといいながら、その名誉が手に入れれば今度は、さらに上の名誉が欲しいと苦しみます。一つが手に入れば、さらに上を望み、一つが欠ければ、また次を望むのです。人は苦しみがあるから苦しむのではなく、自らの欲によって、その苦しみをつくり出して苦しんでいるのです。

では、その苦しみのもとである欲を捨てることができるかというと、そうはいきません。人が生きるとは、実は生きることそのものが欲であるからです。お金も名誉も、健康も趣味も、勉学も教養も、さらには美しいものも、心のやすらぎも、すべては欲がなくして得ることはできません。欲があるからこそ、求めるものを得ることができるのです。「求めない」ことを美徳とする方がいますが、それは「求めない」ことを求めているのだと私は思っています。

お釈迦さまやお大師さまでさえ、大きな欲がありました。それは私たちのようにお金が欲しいとか、名誉が欲しいとかいった小さな欲ではありません。「一切の人々を救済しよう」という、とてつもない欲でした。欲を捨てるのではなく、逆に生かすことでこれを実践したのです。真言密教ではこれを「大欲清浄たいよくしょうじょう」といいます。

人はおおいに欲をかくべきだと、私は思います。ただし、清らかな欲をかきましょう。人を喜ばせ、家族を守り、仕事に励み、世の中の役に立つような欲をかきましょう。欲はそれ自体が悪いのではなく、その使い方によって善にも悪にもなるのです。おおいに欲をかき、清らかに生かしましょう。「大欲清浄」です。

生きること、生かされること

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令和元年12月3日

 

 今日も得度式とくどしき(仏門に入る儀式)があり、お二人の新発意しんぼっち(得度の志願者)が仏門に入りました(写真)。

 もちろん私が戒師かいし(お導師)を勤めましたが、お二人とも真剣に、そして何度も礼拝らいはいを重ねました。お大師さまをはじめ、国王(天皇)・両親・鎮守ちんじゅと続き、最後に親族や友人ともお別れの礼拝をしました。なぜ家族や友人とお別れするのかといいますと、今後はたとえ家族として同居をしても、また友人として会っても、今までとは違うことを自覚するためです。つまり、世俗にあっても、世俗に染まらぬことを誓うためなのです。式典の後は、どこか覚悟が決まった表情になりました。

 ところで、お会いしたこともない天皇陛下になぜ礼拝をするのかといいますと、私たち日本国民のすべてが皇恩こうおんを受けているからからです。以前にもお話しましたが、日本は世界最古の国家なのです。2600年以上も一度として滅びることなく、天皇家が絶えることなく、これほど平和が続いた国家など、この地球上にはほかにありません。このすばらしい国に生まれた私たちは、その皇恩にむくいねばなりません。私たち一人ひとりが日本のために、その日本は世界のためにあるからです。

 次に両親については、当然のことだからです。たとえ両親とどのような関係にあろうとも、今日の〝いのち〟があるのは、何があろうとも両親のおかげだからです。苦労をかけた両親に向かって礼拝をする時、その両親も新発意も感極まるものがあります。

 鎮守とは生まれ故郷の神社のことです。私は「生まれ故郷を思い出しながら礼拝してください」とお話しています。長い人生の中で、自分の生まれ故郷がどのようなものであったかには、大きな意味があります。日ごろは思い出すこともありませんが、いわば自分自身を作り出した「原風景げんふうけい」なのです。その神さまとの縁によって、私たちが生まれてきたことを忘れてはなりません。また、真言密教はこのように、仏さまも神さまも大事にしているということでもあります。 

 得度式の意味を考えると、改めてお大師さまの偉大さがわかります。私たちはそれほどに、多くの恩によって生きてきたのです。いや、生かされてきたのです。生きることとは、生かされることだったのです。不思議な縁によって戒師を勤めましたが、さわやかな気持ちでお二人の前途を祝しました。

日の吉凶判断

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令和元年11月14日

 

真言密教では日の吉凶を決める場合、『宿曜経しゅくようきょう』という経典に説かれる「二十七宿しゅく」、あるいは「二十八宿」によって判断します。

私も入籍の日、結婚式の日、開店日、移転日などを問われた場合、これに基づいてお答えしています。つまり、ここでは世間でよく言われる「大安」や「仏滅」は、本来はまったく無視してもよいのです。しかし、おめでたい日が「仏滅」で喜ぶ人はおりませんので、そこは兼ね合わせて判断する必要があります。

問題は、その「二十七宿」と「二十八宿」のどちらの説を用いるかです。皆様がお持ちの暦でもこの両説があって、どちらが正しいのかとよく質問を受けます。むずかしいお話はともかく、結論を申し上げれば、『宿曜経』を請来しょうらいされたお大師さま(弘法大師空海)は「二十七宿」を用いられました。あさか大師でお渡ししている「開運暦かいうんれき」も、これに従っています。

日本に現存する最古の『宿曜経』は高野山の霊宝館れいほうかんにあり、平安時代の写本ですが、これはもちろん入手することはできません。ところが、2011年の東京古書会館大入札会で京都の同志社大学が、これに次ぐ時代の写本を落札しました。これは高野山のものと比較しても、決して劣るものではありません。写真は私が所蔵する、そのコピー製本です。

皆様が「二十七宿」か「二十八宿」か迷うことがありましたら、必ず「二十七宿」に従ってください。お大師さまが用いられたのですから間違いはありませんが、『宿曜経』で実際に占いをしている先生方も、みな「二十七宿」を用いています。

平安時代の貴族が用いた暦には、「二十七宿」の下に予定を書き入れるのらんがあります。つまり、当時は暦が予定表だったのです。「二十七宿」がそれほどに、生活の中に溶け込んでいた事実も申し上げておきましょう。

虚空蔵

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令和元年9月18日

 

この自然界、この宇宙には、実は無限の宝や無限のお金をたくわえるくらがあるのです。真言密教では、これを〈虚空蔵こくうぞう〉といいます。

私たちが何かを欲しいと思った時、それにあたいする何かを世の中に与えた時、私たちはその虚空蔵から運ばれて、望むものを手に入れることが出来るのです。すなわち、一億円をかせげる人とは、一億円に値する何かを世の中に与えた人なのです。スーパースターは、だから一度に何億円も稼ぐことが出来るのです。しかも彼らは、お金のために生きているのではなく、世の中を喜ばせるために生きているのです。このことが、わかりますでしょうか。

皆様のまわりを見てください。多くの友人に囲まれ、多くの物に恵まれ、多くのお金を手に入れている人は、それに値する何かを世の中に与えているはずです。人を喜ばせ、人のために役立ち、人に必要なものを与えているはずです。逆に、友人にも物にもお金にも困っている人は、常に他人の悪口を言い、不平不満をこぼし、世の中に与えるものが少ないはずです。

さらに申し上げれば、皆様が失物うせもの盗難とうなんにあったり、詐欺さぎにあったりして何かを失った時は、それは失ったのではなく、虚空蔵に〝返した〟ということなのです。その理由は、もちろん様々さまざまです。それを失う何かの原因があったからなのです。そして、その原因をつぐなう行為をなした時、失ったものは必ず返って来ます。

だから、世の中に与えずして手に入れたものは、逆に必ず失うことになります。宝くじやギャンブルは人生の楽しみです。しかし、宝くじやギャンブルで手に入れたお金はいずれあわのように消え失せ、手に入れた以前よりかえって貧しい生活を送ることになるのです。そのような例は、ネットで検索すればいくらでも出ています。宝くじやギャンブルでお金を手に入れたら、すぐにでも虚空蔵に返すことです。つまり、ユニセフや赤十字、被災地に寄進をすることです。

私は若い頃に、一時は赤貧せきひんの生活を経験しました。それでも、この真理を知っていたために救われました。人生で最も大切な真理です。

地水火風空

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令和元年9月17日

 

今日も二名の方に伝授をしました。その中で、人間の体こそは自然界そのもの、宇宙そのものであるというお話をしました。そのことを、皆様にもお伝えしましょう。

まず、私たちの頭は丸くて頂上が少し盛り上がった形をしています。お大師さまの頭はその典型で、これは天空を示し、宝珠ほうじゅの形を象徴しょうちょうするのです。天空を見あげてみてください。全体が丸くて、しかも無限のかなたに遠のくはずです。あさか大師はほぼ360度に視界が開けていますので、そのことがよくわかります。ちなみに申し上げますが、キューピーちゃんの頭は、その形を少し大げさにしたということです。

次に顔は、額からアゴにかけては半円です。これは風の形を示します。風は大きく回転しながら半円を描いて進むのであって、台風も竜巻もその例外ではありません。

次に、首から肩にかけては三角形です。これは火を示します。火は上に向かって細くなりますから、全体が三角形になるのです。お護摩を修する時、お導師が最初に三角形の炎をイメージするのもこのためです。

次に、お腹はおへそを中心に丸い形をしていて、水を示します。お腹は飲んだものや食べたもので、水分が多いのです。つまり、水玉の丸い形でこれを象徴するのです。カルピスの水玉模様を見れば、誰でも水を連想するはずです。

そして最後に、両足を座禅のように組んで座ると、横長な四角形になり、大地を示します。私たちが両足を大地に着けて生きているのも、実はこの意味なのです。

以上を両足から順に示せば〈すいふうくう〉となり、真言密教ではこれを〈五大ごだい〉といいます。私たちの体が自然界そのもの、宇宙そのものの縮図であるという意味です。だから、「人間のこの体にこそ仏が宿るのだ」とするのが、お大師さまの教えです。私たちの体は、それほどに尊いことを知らねばなりません。

山路天酬密教私塾

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