終活としての遺影

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仏教

令和3年4月16日

 

最近は〈終活〉が盛んです。身辺を整理したり、エイディングノートを記入したりする方が増えました。さらには死のシュミュレーションとして納棺のうかん体験(ひつぎに入る)をしてお経を聞いたり、ご自分への弔辞を読んだりできるサロンもあります。もちろんご自分の葬儀に用いる遺影の準備も勧めていて、タレント並みに修正撮影をして、若い姿で額に入れてくれます。

人生を考えることは、同時に死を考えることです。つまり、どのように生きるかは、どのような死を迎えるかということです。まさに「生をあからしめ、死を明からしめるは仏家一大事ぶっけいちだいじの因縁なり(道元どうげん禅師)」と言えましょう。したがって、一般の方々も死に関心をいだき、死に対して明るく前向きな発想を持つことは、とてもよいことだと私は思います。しかし、納棺体験や遺影の準備までする人は、まだまだまれであることは否定できません。

特に現代はスマホのスナップはたくさんあっても、いざ遺影に使える写真を用意している人はなかなかいません。いかに合成技術が進んでも、30年前の写真では遺影としていかがなものかと思うのです。終活を意識している方は、ぜひご自分で気に入った遺影を残してください。その遺影ひとつで、葬儀の雰囲気がかなり立派になることを保証します。遺影が決まれば、式場に飾ってほしいものを考えることなど楽しくなるはずです。

実は、この問題は僧侶の方々にも言えそうです。洋服を着用した家族とのスナップはあっても、威儀いぎを正して一人で撮影した遺影を準備している方はめったにいません。真言宗の僧侶(特に名誉住職)はいよいよの年齢を迎えた時、写真館に出向いて(あるいは出張を願って)、衲衣のうえ(密教の法衣)着用の遺影を残しておくべきだと私は思います。洋服姿の写真では、僧侶の葬儀にはなりません。また葬主に対しても、迷惑をかけることになりましょう。このお話、大切なことですよ。

山路天酬密教私塾

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