令和2年8月12日
明日から盂蘭盆(お盆)に入ります。盂蘭盆といえば〈施餓鬼〉がつきものですが、もともとの由来は異なります。
盂蘭盆はお釈迦さまの弟子で、神通(霊能)第一の目連尊者に始まります。餓鬼道に堕ちたお母様を救うため、お釈迦さまの教えにしたがって、この時節(インドの雨期)に大勢の僧侶に食事を供養し、その功徳を回向したことが由来です。つまり、その当時はお釈迦さまや弟子の僧侶こそ、仏さまであったということになります。
施餓鬼の方は同じくお釈迦さまの弟子で、多聞(たくさん教えを聞いた)第一の阿難尊者に始まります。瞑想中に餓鬼が現われて、「三日の後に、そなたの寿命は尽きて餓鬼道に堕ちるだろう」と予告を受けました。修行を積んだ阿難尊者も、決して気持のよいものではありません。そこでお釈迦さまに相談して施餓鬼法を授かったと伝えられています。したがって、施餓鬼法はお盆にかぎらず、本来はいつ修してもよいということになります。
ところで私は毎日、夕方の薄暗い時間になると施餓鬼法を修しています。夕食のご飯を専用のお椀に入れ、水を加えて境内の片隅に向い、略作法ではありますが、これを自らに課しています。
なぜ施餓鬼法を修するのか、しかも毎日修するのか言いますと、これが師僧の遺訓だからです。まだ二十代の頃でありましたが、師僧は「真言密教の行者は毎日、施餓鬼法を修さねばならない。その理由はいずれわかるだろう。ただ、施餓鬼法を修した行者は胃腸を病んだり、衣食に困ることがないことだけは伝えておこう」とおっしゃったのです。
私は昭和二十七年の生まれですから、終戦直後の飢えの苦しみを知っているわけではありません。たとえ粗末な食事ではあっても、一日として何も食べられないほどの生活を送ったことはありません。十八歳で上京して、貧しい暮らしはしていても、パンの耳をかじってでも何とか生きることはできました。また断食修行なども経験しましたが、飢えの苦しみとは比べようもないはずです。その私が僧侶になったのです。布施(特に食を施すこと)をせずして何を行ずるのでしょうか。飽食の時代にご馳走を食べ、満腹をかかえて何が供養か、何が施餓鬼かと思うばかりです。
布施の方法はいくらでもあります。身近な人への布施もあれば、被災地への布施、貧困国への布施もありましょう。それも、可能なかぎりは心がけています。しかし今、私にでき得る最善の方法は施餓鬼なのだと確信しています。なぜなら、コロナウイルスの不安や混乱を含め、「鬼神(死後の魂)乱るるが故にすなわち万人乱る(仁王護国般若経)」からです。あの世が乱れれば、この世も乱れるのも当然のことだからです。