施餓鬼法の伝授

カテゴリー
仏教

令和3年3月16日

 

一昨日、私は数名の僧侶(弟子)の方に〈施餓鬼法せがきほう〉を伝授しました。そして、皆様とても熱心に受法していただきました。私は僧侶にとって、施餓鬼はきわめて大切であると思っています。だから、施餓鬼に関心をよせ、私に伝授を求めていただいたことは、大変にうれしいことでした。

では、僧侶にとってなぜ施餓鬼が大切であると思っているのか、その理由をお話いたしましょう。

そもそも人間というものは、他人のことはまずまず見えていても、自分のことはなかなか見えません。自分が正しいと思えば、相手は間違っていると思うものです。また大きな組織の中にでもいれば、自分までが特別な人間だと思いがちです。その傾向は、組織が大きければ大きいほど強くなりましょう。さらに職業によっても、ことさらこの傾向は強まります。政治家・裁判官・弁護士・医師、そして僧侶などは、世間から特別な目で見られるはずです。つまり、あがめられるということです。こういった職業の人は、特に自戒をせねばなりません。

僧侶はもちろん法務(回向や祈祷)を勤めて、お布施を受けます。そうすると、お布施を受けるのが当たりまえ、このくらいを受け取るのは当りまえに思うものです。世の僧侶の中にはお布施の額が足らないと言って催促さいそくをしたり、腹を立てたり、短い読経でさっさと立ち去る方がいるのです。このような僧侶は間違いなく〝餓鬼道〟にちます。少なくとも私は、そう確信しています。僧侶といえども餓鬼道に堕ちることを、いや、僧侶なればこそ餓鬼道に堕ちることを知らねばなりません。

新義真言宗の開祖・興教大師こうぎょうだいし覚鑁かくばん上人)は有名な『密厳院発露懺悔文みつごんいんほつろさんげもん』の中で、「形を沙門しゃもん(僧侶)にして信施(お布施)を受く」と述べています。つまり、修行とは形ばかりで、お布施ばかりを受け取っているという意味です。鎌倉時代からです。今も昔も、僧侶は受け取るばかりで、自らはほとんど布施をしません。

もう、おわかりでしょう。僧侶は施餓鬼ばかりは必ず修することです。私は略作法ではありますが、毎日これを自らに課しています。また、多くの方に食事をほどこすことも心がけています。「師僧が弟子のために食事を作るのですか」と奇妙に思う方もいますが、私には何の違和感もありません。むしろ布施ができることを、ありがたいとさえ思っています。このブログを読んでいただいた僧侶の方は、ぜひ施餓鬼を修していただきたいと思います。

山路天酬密教私塾

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