山路天酬法話ブログ

腎臓が寿命を決める

カテゴリー
健康

令和2年6月26日

 

皆様は〈腎臓じんぞう〉というと、単なる泌尿器の一種、つまり「おしっこをつくる臓器」ぐらいに思っているでしょう。

ところが、これが大変な間違いなのです。特に2017年10月に放送された『NHKスペシャル〈シリーズ人体・神秘の巨大ネットワーク〉』は、「〝腎臓〟が寿命を決める」というタイトルでその重要性が強調されました。実は漢方(中医学)では、人体における生命力の根源を〈じん〉あるいは〈腎気じんき〉と定義し、これを最も重要な臓器であると考えます。すなわち、〈腎〉には「先天の精」が蓄えられると共に、「後天の精」が補充されるという見方をします。「先天の精」とは父母から受け継いだ遺伝的な生命力のことで、「後天の精」とは誕生以来の食生活や生活習慣、つまり養生ようじょうよって得られた生命力のことです。この二つの精が〈腎〉に貯蔵されるとするのです。

また貝原益軒かいばらえきけんの『養生訓ようじょうくん』には、「腎は下部にあって五臓六腑の根本である。腎気が弱くなると、身体の根本が衰えていまう。ゆえに養生の道では腎気を保たなければならない」と力説されています。「五臓六腑の根本」と言っています。まさに「腎臓が寿命を決める」と言う表現も、決して誇張ではないことがわかりますでしょうか。

ただし、漢方での〈腎〉とは単に腎臓のみを指すのではありません。活力に関するホルモンを出す副腎ふくじん、生殖器にかかわる男性の睾丸こうがん精巣せいそう、女性の卵巣や子宮もすべて〈腎〉なのです。つまり〈腎〉と定義する全体のはたらきを、生命力そのものと見るのです。そして、この〈腎〉の衰えを「腎虚じんきょ」といい、これを老化と見るのです。足腰が弱くなる、皮膚がカサカサになる、顔色や肌色が悪くなる、老眼や白内障になる、耳が遠くなる、そしてヤル気がなくなる、記憶力が衰えるなどの老化現象は、すべてこれ「腎虚」が原因であると漢方は主張します。

また、若い方でも「腎虚」の症状として、非常に疲れやすくなります。しかも、「腎虚」による腎臓病は現代医学ではほとんど治りません。したがって、医師はすぐ「そろそろ透析とうせきが必要ですね」と宣告します。しかし、週三回、一回に四、五時間を要する透析療法は、腎臓病患者にとって大きな負担になることは言うまでもありません。

実は私の父も腎臓病を患い、医師より透析を宣告されていました。しかし、私はこれぞと思う漢方薬を10年以上にわたって送り続け、透析をせずに父の天寿をまっとうさせることができました。明日はこのブログのレベルで、私が学んだ〈腎〉を養う方法をお伝えします。

九十五歳の脚本家

カテゴリー
人生

令和2年6月25日

 

昨夜、脚本家・橋田壽賀子さんの本を寝床で読みました。現在、九十五歳とのことですが、いやはやそのパワーには驚きます。今後への励みとして、気になったところを書き出してみましょう。以下は、『ひとりがいちばん!』『私の人生に老後はない』などから、勝手にダイジェストしました。

「朝起きたら、まず梅干しを二個、おなかに入れます。これは三六五日欠かすことのない私の習慣で、海外旅行にも必ず梅干しを持って行くほどです。それからプールに行く前におなかいっぱい食べてしまうと動けなくなるので、〈カスピ海ヨーグルト〉を食べるようにしています。思いのほかおいしく、すっかり気に入ってしまいました」

「私の日課のひとつは、毎朝プールで600メートルを泳ぐことです。水の中に入ったときの解放感は本当に気持ちのいいもので、水に体をゆだねていると、手足が自然に動き出してしまいます。思いきり手足を伸ばしたときの解放感はたまらないもので、私の場合、泳ぐというよりも全身を伸ばしにいく、といった方が適切かも知れません」

「とにかくよく食べるのはキャベツとじゃがいも。毎日食べても飽きないほどです。それから気をつけているのは、赤、黄、緑の野菜をまんべんなく食べることです。お肉も毎日いただきます。ステーキなら120グラム。一日1600キロカロリーを超えないようにというのが主治医からのアドバイスです」

「仕事を続けるには、何よりも元気な体でいることが大切。健康器具もいろいろそろえています。お菓子をやめるとストレスになってしまうので、テレビを見るときはバランスボールに座ってカロリーを消費します。エアロバイクをこいだり、エアポールに足を上げたり下げたり、自分流エクササイズもよくします。また、電話で話をするときは青竹踏みをします」

「ひとりが寂しいなどと誰が決めたのでしょう。夫は亡くなり、確かに私はひとりになりました。ひとりを楽しむには体も使いますし頭も使います。ということは健康維持やボケ防止にもなるのです」

「夕方になるとさくら(愛犬)といっしょに散歩に出ます。家の近所を三、四十分歩くのですが、上り下りの激しい道ばかりで、家に帰ってくるころには汗びっしょり。けっこういい運動になります」

「多忙さを言い訳にして尻込みするのは私らしくありません。行くと言ったら、誰がなんと言おうと、出かけてしまうのが私流です。仕事は帰って来てから必死でがんばれば何とかなる」

最後に、実りある豊かな日々を送る秘訣として、①健康 ②金銭的基盤 ③人間関係 ④生きがいになる仕事(ボランティアや趣味)と、そして⑤好奇心をあげています。好奇心ですか。なるほど、そうですよね。そのとおりです。

プラスの波動とマイナスの波動

カテゴリー
祈願

令和2年6月24日

 

アメリカの心臓病専門の病院による、こんな実験報告があります。

入院している心臓病の患者400人を、無差別で200人ずつに分けました。そして、一方の患者の名前をすべて書き出し、一人一人のために病気平癒の祈りを教会にお願いしました。また、この人たちに対しては、「皆様のために、教会で毎日祈っていますよ」ということだけを伝えました。もう一方の患者に対しては、何もせず、何も伝えませんでした。

そして、10ヶ月がたちました。教会で毎日祈ってもらった200人の患者はその間、一度も発作をおこしませんでした。しかも、この人たちは経過がどんどんよくなっていたというのです。しかし、もう一方の200人の患者は、12人が発作をおこし、その中で8人が死亡しました。そして、経過が悪くなった人が60パーセントにも達しました。

この実験は明らかなデータのもとに、一般公表されています。いったい、この違いは何なのでしょうか。

つまり、「祈りは力である」という一語に尽きるのです。その力とは〈波動〉といってもよいでしょう。心の想念は波動となって伝わります。時間にも空間にもかかわりなく、必ず伝わります。だから、よい波動の集まる人は体の代謝もよくなり、治癒力ちゆりょくも増し、病気の回復が早まるのです。

このことは、人生そのものにおいても同じです。幸運は人とは、すなわちプラスの波動が集まる人です。多くの人から好かれ、感謝され、その想念が波動となって集まる人です。そのプラスの波動が幸運を呼ぶのです。だから私は、「好かれることは、人生で最も役立つ才能ですよ」と、いつもお話しています。それは、逆のことを考えれば誰にでもわかるはずです。人に好かれることもなく、感謝されることもなく、かえってうらみやにくしみを買っている人はマイナスの波動しか集まりません。こういう人がいくら名前を変え、方位を変え、開運グッズを求めても意味はありません。

そして、さらに大切なことは、人の幸運を祈れる人は自分もまた幸運に恵まれるという事実です。類はまた、その類を呼ぶからです。プラスの波動はプラスの波動を呼ぶからです。祈られる人は心の支えになり、自信にもなりますが、祈る人もまた同じです。この世は「もちつ、もたれつ」なのです。そして、「人を呪わば穴ふたつ」なのです。わかりますよね。

厄よけの五節句

カテゴリー
文化

令和2年6月23日

 

そろそろ〈七夕〉の準備をしている保育園や幼稚園も多いことでしょう。七夕は〈五節句ごせっく〉の一つで、暦のうえでの重要な意味があるのです。

なまけ者の節句せっくはたらき」ということわざがあります。普段なまけている者にかぎって、節句の時など世間の人が休む時に、忙しいふりをするという意味です。あるいは逆に、普段怠けていると、世間の人が休む時に休めなくなるという戒めにも受け取れます。つまり節句は本来、季節の節目として仕事を休む日であったのです。なぜなら、この日は奇数(陽数)どうしが重なり、陰に転ずるために〈厄よけ〉をする必要があったからです。

数にはもちろん奇数と偶数があります。十進法(0から9までに位をつける数の表記)での奇数が〈陽〉で、偶数が〈陰〉です。ですから単数で月日を示せば、一月七日(七日正月・七草ななくさ)・三月三日(桃の節句・ひな祭り)・五月五日(端午たんごの節句・子供の日)・七月七日(七夕・星祭り)・九月九日(菊の節句・重陽ちょうよう)となり、これが五節句です。一月一日は元旦なので、一月七日を〈七日正月〉と定めました。これらの日はすべて奇数(陽)が重なり、陰に転じて災いをまねくと恐れられたのです。したがって、現在では国民的なお祝いの意味で過しますが、本来は厄よけをして災いをはらう日だったのです。

一月七日の〈七草ななくさがゆ〉は平安時代、病気にならぬよう嵯峨天皇に薬膳やくぜんを献上したことから始まりました。三月三日の〈桃の節句〉は桃の木に魔よけの意味があるからです。〈ひな人形〉も、本来は紙で作った人形に名前を書いて川に流しました。つまり、みそぎだったのです。五月五日の端午は〈五月病〉への厄よけです。季節の変わり目で病気になりやすいため、清めの菖蒲しょうぶ湯に入り、菖蒲酒を飲み、菖蒲枕で眠りました。また、男の子の髪には菖蒲をまいて成長を祈りました。七月七日の七夕は織姫おりひめ彦星ひこぼしの伝説から、二人が会ってと疫病が流行はやらぬよう祈願をしたのです。これが転じて、天の川に願いごとをするようになりました。九月九日の重陽は、最大の陽数である九が重なるため、菊の花で邪気を祓ったのです。菊の花が香る中、月をながめながら菊酒を飲む〈菊花の宴〉は天武天皇の飛鳥時代から行われていました。

ただし、これらの五節句は、正しくは旧暦(約一ヶ月遅れ)でのお話です。現代(つまり新暦)の三月三日に桃の花は咲きません。花屋さんで売っている桃の花は温室で栽培されたものです。また現代の七月七日ではまだ梅雨も明けず、天の川など見えません。しかし、こうした千古の伝統が受け継がれることは、この国の文化です。新しい祝日を増やすなら、どうして伝統ある五節句を加えないのでしょうか。私は以前から、このことが大変に不満でした。

ひび割れた水瓶

カテゴリー
人間

令和2年6月22日

 

その昔、インドに水汲みずくみを仕事にしている男がいました。男は不思議にも、人の言葉を話す二つの大きな水瓶みずがめを主人から与えられていました。この二つの水瓶に一本の竿さおを通して肩にかつぎ、高台にある主人のやかたから遠くの川まで降り、水を汲んでから再び主人の館まで運ぶことを命ぜられていたのです。水瓶はとても重く、主人の高台までの坂道は特に大変でした。坂道を上るため、男はその水瓶を左右にかついで登っていたのでした。

ある日のこと、いつものように長い時間をかけて水を運んだところ、左側の水瓶の水が半分に減っていました。よく見ると、その水瓶のにはひび割れが入り、そこから水がれていたのです。次の日も、また次の日も、どんなに急いでも、左側の水瓶は半分に減ってしまいました。それでも、右側の水瓶は漏れることがなく、何とか必要な水を汲むことができました。そんな毎日が続いたある日、とうとう左側の水瓶が人の言葉で語りかけて来ました。

「あなたが毎日、一生懸命に水を運んでくれているのに、私の体にひび割れが入っているから水が漏れてしまいます。こんなに苦労して運んでくれているのに、水が半分に減ってしまいます。これからもこうして迷惑をかけるくらいなら、私なんか捨てられてしまった方がいいのです。どうか捨ててください」

「いいんだよ、そんなことは心配しないで。君がいなければ水は半分も汲めないじゃないか。こうして水が汲めるのも君のおかげだよ。そのうち、きっといいことがあるからね」

それから二年がたちました。男は毎日、相変わらず二つの水瓶を使って水汲みをしていました。右側の水瓶は得意でしたが、ひび割れの入った左側の水瓶はいいたたまれません。働いてもむくわれないのは、役立たずな自分のせいだから、もう捨ててくださいと何度も頼むのでした。男は毎日登っている、いつもの坂道を指さして言いました。

「見てごらん、みごとな花が咲いているじゃないか。どちら側の道に咲いているかわかるかい。君が通る左側の道に、私が花の種をまいておいたんだ。ここは雨の少ない土地だから、君が水を漏らさなければ花なんか咲くはずもない。そうだろう。この花は君が咲かせたんだよ。誰にだって、必ず取りがあるんだ。立派に役目を果たしたじゃないか。ご主人様がこの美しい花の坂道を見て、君にとても感謝していたよ」

ひび割れた水瓶は、もう喜びで涙をこらえることができませんでました。役立たずと思っていた自分が初めて報われたのです。そして、自分の尊厳を知ったのです。このひび割れた水瓶こそは、実は私たち自身のことです。

「五重塔」の秘密

カテゴリー
仏教

令和2年6月19日

 

大正12年の関東大震災(マグニチュード7・9)では、十万人以上の死者や行方不明者を出し、火災によって東京は一面の焼野が原となりました。その火災による死者だけでも、九万人を超えたとされています。この時、浅草寺せんそうじ浅草観音あさくさかんのん)は幸いにもわずかな被害にとどまり、避難所としての機能を果たしました。右も左もわからぬ混乱の中で、五重塔ごじゅうのとうばかりはすっくと建ち残り、それを目標に人々が集まったからです。

また平成7年の阪神・淡路大震災(マグニチュード7・3)の折にも、ほんの一部を除いて、奈良や京都の五重塔(三重塔も含めて)も無事でした。日本最古である法隆寺の五重塔は奈良時代に建てられ、高さは31・5メートルです。日本最大の高さである東寺とうじ(お大師さまが住職をした京都の教王護国寺きょうおうごこくじ)の五重塔は江戸時代に再建されて、高さは54・8メートルもあります。木造建築でこれほどの高さで、あの震度の中でも倒れないなどという事実は、普通なら考えられません。いったい、五重塔がかくも地震に強い理由は何なのでしょうか。

その秘密は〈心柱しんばしら〉にあります。つまり、五重塔の中心にあって、地上から一番上の相輪そうりん(九段の輪や宝珠などの装飾)までを貫く柱にあるのです。内部構造を見ると、この心柱は五重の階層と固定されてはいないのです。日光東照宮の五重塔にいたっては、何とこの心柱が宙に浮いています。四層目からつるしているだけなのです。では固定もしない心柱が、どうして地震から五重塔を守っているのでしょうか。

心柱は土台に乗せるか、宙づりです。では何が支えなのかというと、支えはないのです。つまり、五重の階層はそれぞれに積み重ねているだけだということになります。もちろん、下の階層は上からの重みに耐えねばなりません。そこで、それぞれの四隅には複雑な木組みをほどこし、のしかかる重みを分散させています。この積み重ねの構造により、下の階層が右にれると上の階層は左に揺れ、それぞれが互い違いにれて衝撃しょうげきを吸収します。それでも、震度が強くれば塔の全体は共振して傾きます。そこで心柱が本領を発揮します。塔が右に傾くと、心柱は左に傾くいわゆる「やじろべい力学」が発生し、力が相殺そうさいして揺れに耐えられるのです。千年を超える木造建築が、現代まで残る理由がここにあります。

五重塔は仏さまを供養する象徴的な建築です。コンピューターもなく、微分積分の知識もない時代、深い信仰と自然への洞察がなければこんな智慧は生まれません。現代建築の耐震構造さえ、これをヒントにしているくらいです。五重塔は世界に誇る日本の英知です。そして、仏教の英知です。

下天の内をくらぶれば

カテゴリー
仏教

令和2年6月18日

 

私たちは数の単位として、「一・十・百・千・万・億・兆」までしか使いません。しかも〈億〉や〈兆〉にいたっては、まず普通の生活で用いることはほとんどありません。一流会社の経理や国家予算ならともかく、私たちの〝普通預金〟にはまるで「夢の世界」です。

ところが、その夢の世界がさらに続くことをご存知でしょうか。すなわち、数の単位を最後まで記しますと、「一・十・百・千・万・億・兆・けいがいじょじょうこうかんしょうさいごく恒河沙ごうかしゃ阿僧祇あそうぎ那由他なゆた不可思議ふかしぎ無量むりょう大数たいすう」となります。そして、この中で〈恒河沙〉以下は経典に出でいる仏教用語であることもお伝えしておきましょう。つまり、数の単位を考案した中国人は、こんなとてつもない数字を仏教から学んだということになります。

恒河沙ごうかしゃ〉とはガンジス河の砂の数ほどという意味、〈阿僧祇あそうぎ〉は数え切れないほどという意味、〈那由他なゆた〉はとてつもなく大きいという意味、〈不可思議ふかしぎ〉は考えてもわからない遠い境界という意味、〈無量むりょう〉は阿弥陀さまのようにはてしない境界という意味、最後の〈大数たいすう〉は〈無量〉のさらに上があるならばというほどの意味です。いやはや「夢のまた夢」で、仏教の壮大な世界観にため息が出るのではないでしょうか。

〈夢〉といえば、織田信長が好きであった『敦盛あつもり』の一節は「人間五十年、下天げてんの内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたびしょうを受け、滅せぬもののあるべきか」でした。信長は僧侶や寺院は弾圧しましたが、仏教のことはよく勉強しています。この時代は五十年も生きれば長命で、生まれてすぐに亡くなる人すら多かったのです。平均寿命は四十歳にも届かぬ三十代であったはずです。事実、信長は四十九歳で、あの本能寺で自決しました。

この〈下天げてん〉もまた仏教用語です。壮大な宇宙の中に〈天界〉があり、その天界の一番下という意味です。その下天に住む〈天人〉に比べても、人間の寿命などは一瞬に過ぎません。つまり人間にとっての五十年は、天人からすれば一瞬なのです。だから、夢だと言っています。これを逆に表現したのが浦島伝説です。若い浦島太郎は竜宮城で七日間を楽しみましたが、戻って来たら何百年も生きた老人になってしまいました。時間の尺度がまったく違うからです。

仏教は壮大な宇宙や無限の数字を示すことによって、人間が謙虚になることを教えているのです。こうした夢のような世界を示して、傲慢ごうまんにおちいらぬよう戒めているのです。いま、こんなお話をしている私自身すら、まるで夢をみているような気がします。

画僧月僊の偉業

カテゴリー
人物

令和2年6月16日

 

江戸時代の後期、伊勢山田の寂照寺じゃくしょうじ月僊げっせんという異端な画僧がいました。名古屋の味噌商の家に生まれ、七歳で浄土宗の僧侶となり、十歳で江戸の増上寺ぞうじょうじで修行をしました。そのかたわら、雪舟せっしゅう様式の画人・桜井雪館さくらいせっかんの門下となって絵も学びました。その後は京都の知恩院に住して、円山応挙まるやまおうきょにも師事しました。そして写実的表現も習得して、独自の画風を確立したのでした。残された絵を見ても、深い玄妙の境地に感銘を受けます。

三十四歳で荒廃こうはいした寂照寺を再興するため、その住職となりました。そして、ここからいろいろな逸話が生まれます。まず画料が高いことで、世の批判を浴びました。絵はすばらしいが、何といっても値段の話が先なので、人々は「乞食こじき月僊」などとまで呼ぶ有様でした。「この半切でしたら、二両でしょうな」「このような絹に人物を描くなら、三両です」といった具合で、絵の依頼はすべて値段で決まるのです。それでも絵の評価は高まる一方で、依頼者が絶えません。

時には遊女からの依頼さえありましたが、月僊は悪びれもなく法衣を着て遊郭ゆうかくに出向きました。遊女の白の腰巻に描いて欲しいとの希望には、「そうですな、一両二分でよろしゅうございますか」と言うや、さっさと持ち帰り、みごとな花鳥を描いて来てそれを遊女に差し出しました。遊女はまるで鳥にエサをくれるようなしぐさで画料を放り投げました。月僊はそれをていねいに拾い集め、何度も礼を言って立ち去りました。気品も威厳もない、まさに異端いたんな「乞食月僊」だったのです。

文化六年の正月、月僊は寂照寺で六十七歳の生涯を閉じました。ところが遺品を整理するや、おびただしい契約書や領収書、設計図や人足にんそく手間賃の控えが山のように出て来たのです。それらはみな、伊勢参宮道路の修理や橋の普請に関するものばかりで、人々が驚いたのも無理はありません。当時の伊勢では、道路も橋もひんぱんに修理されて参拝者に喜ばれましたが、みな奉行所の仕事と思っていたのです。それらはすべて、月僊の画料によって支払われていたのでした。

また死に臨んでの遺言では、窮民救済金として千五百両を奉行所に託しました。飢饉ききんに備えて永代的な計画まで立てていたのです。これらは後に、「月僊金」としてその利子が活用されました。人々は月僊の死後、その功徳に服したのでしす。もちろん寂照寺の本堂や山門などの復興も果たし、経典の購入も怠りませんでした。

まことに、偉業と讃えるほかはありません。そして、こうした偉業とは人知れぬ陰徳いんとくから生まれることも憶念されるのです。その高風は今なお、多くの人々から慕われています。月僊の作品は京都の妙法院、三重県立美術館、岡崎光昌寺、そして寂照寺にも保管されています。

「声相」という真実

カテゴリー

令和2年6月13日

 

先月、八千枚護摩のお話をしましたが、実はもう一つ、声帯をこわした経験も忘れることはできません。不動明王の真言を大きな声で十万遍も唱える荒行をしたのですから、当然といえば当然です。しかも、私はその荒行を50回もくり返したのです。丈夫だった声帯も限界を超えたのでしょう。しだいに声枯こえがれがひどくなり、二重音が同時に出るようになりました。音程も思うように取れませんでした。

はじめは気管支炎か喘息ぜんそくでも患ったのかと思い、病院の内科や呼吸器科で調べましたが何の異常のないというのです。のどによいという医薬品や民間薬もかなり試みました。しかし、いっこうに効果はありません。そんな中で父の葬儀を勤めましたが、ひどい声で読経したことを、今でも恥ずかしく思っています。

その後、友人にすすめられて高名な耳鼻咽喉科の先生に調べていただいた結果、大きな声帯ポリープが二ヶ所に発生していることが判明しました。そしてご紹介をいただき、手術を受けて事なきを得ました。しかし、今でも長時間の読経や講演をすると、声枯れがするのは逃れられません。冷たい飲み物もなるべくけるようにしています。歌手や声楽家、詩吟や謡曲の方々は冷たい飲み物を避けるのはもちろんですが、蒸しタオルを喉に巻いて就寝するとも聞いています。

その一方、私はそれまで以上に人間の声という機能に興味をいだき、肉声や電話の声、テレビやラジオの声を通じて、いろいろなイメージが広がるようになりました。つまり人相や手相と同様、声にも「声相」があるということなのです。声が大きい人は元気な証明だと、私はよくお話します。しかしまた、その声の中に心の本質が現れていることも事実です。初めての電話で顔は見えずとも、声によってその方の内面をのぞき込むような習慣さえついてしまいました。

別の角度から説明しましょう。たとえば外国映画をみる場合、俳優さんや女優さん本人の声の方がよりリアルであることは申すまでもありません。字幕を追うのが面倒だという方もおりますが、その声にこそ俳優さんや女優さんの魅力があるのです。ところが、吹き替え版ではどうでしょう。本人の声に慣れている場合、まったくイメージがこわれることがよくあります。声の本質とはこれなのです。声優さんを選ぶのも大変でしょうが、明らかな〝失敗〟はよくあることです。

ただ、私の好みでしょうが、『名探偵ポアロ』の熊倉一雄さんや『刑事コロンボ』の小池朝雄さんなどは例外です。彼らには主演の本人と同等の魅力、つまり本質があるからです。皆様もぜひ「声相」に興味をいだいてください。声は真実を現わします。仏さまの真実も、自然界の声に現われるのです。これもまた、お大師さまの教えなのです。

立ち向かう相手とは

カテゴリー

令和2年6月11日

 

ある師僧が、弟子の僧侶を連れて道を歩いていました。すると見るからに猛々たけだけしい黒犬が、その師僧のそばに近づいて来ました。ところがその黒犬は、見た目とは大違いで、なれなれしく、うれしそうにすり寄って行きました。尾を振り、首を垂れ、従順で、いかにも「いい人に出会った」という感じでした。

ところが、連れの弟子は何を勘違いしたのか、師僧にかみつきでもしたら大変とでも思ったのでしょう。急いでその黒犬に近づき、「シッ、シッー!」と追い払おうとしました。すると黒犬は弟子に向って振り向き、耳をさか立て、眼光するどく、威嚇いかくしてえまくりました。

突然の猛攻に、弟子の方もあわてました。すぐさま道端の石を拾って、「このヤロー!」とばかり、投げつけるふりをしたのです。犬も犬なら、弟子も弟子です。その黒犬は身の危険を察したのか、やがて退散してしまいました。さて、以下、こんな会話となりました。

「師僧、あの黒犬に何か食べ物でもやったのですか」

「どうしてかね」

「大そうなれなれしくて、いかにもうれしそうにすり寄っていましたけど」

「いや、わしは何もやらんよ」

「師僧にはなれなれしくて、うれしそうにすり寄ったのに、私にはどうしてあんなに吠えまくったのですか」

「わからんか。あれは、おまえが吠えた声なのじゃよ。わしには殺生せっしょう残忍ざんにん臭気しゅうきがないから寄って来るのじゃ。おまえにはその臭気があるから、こわがって吠えたのじゃよ」

「でも、私は石を投げつけるマネをしただけで、あの犬を殺そうとか痛い目に合わせようとしたわけではないのですが」

「今のお前がその気であっても、過去の生き方が殺生や残忍な臭気を放っているから、犬の嗅覚きゅうかくがそれを感知したのじゃよ。犬がおまえを吠えたのは、お前の心の写しなのじゃ。殺生や残忍な心をおまえ自身が怖がって吠えたのじゃ。わかるかな」

その弟子は、師僧の言葉に深く耳を傾けました。私たちが立ち向かう相手とは、私たち自身の姿でもあります。相手の姿は、鏡に写った私たち自身の姿なのです。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ