山路天酬法話ブログ

笑門来福

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健康

令和4年1月13日

 

今年もたくさんの年賀状をありがとうございました。私は年末は多忙なので、「立春大吉」にちなんだ〝春賀状〟なるものを考案し、もう20年近くも続けています。一年の始まりが立春にあることは、暦の上では常識です。だから、春賀状はきわめて理にかない、しかも年末の多忙さまで補助してもらえるのです。

おはずかしながら、実はこの春賀状が好評で、毎年これを心待ちしてくださる方が多いのです。中には、額に入れて拝んでくださる方もいると聞きました。気のせいか、これをマネる僧侶の方も増えて来たように思います。もうしばらくです。来月の2月4日を楽しみにお待ちください。

年賀状の決まり文句は「あけまして云々」のほか、「賀正」や「謹賀新年」がありますが、さすがにありきたり過ぎる気はします。中には「笑門来福しょうもんらいふく」という、うれしい四文字も目につきます。そこで今日は、笑いについてのお話です。

そもそも、人は笑うから福が来るということです。福が来たから笑うのではないのです。その証拠に、よく笑う人は幸せに(もちろん、一般的な意味ですが)暮らしています。その笑いがまた次の福を呼び、また笑うからその次の福を呼ぶのです。だから、笑いの絶えない門(家)には福がやって来る、「笑うかどには福きたる」なのです。おわかりでしょう。

私はいろいろな方からご相談を受けた時、その方が笑うか否かを重視しています。なぜなら、笑う人に対しては「この人は大丈夫だ」と思えるからです。もちろん、ご祈願もご回向も勧めますが、笑いのオーラ(!)が困難を乗り越えることを知っているからです。

お会いして逆に困るのは、笑わない人です。何とかして明るい笑いのオーラを呼び寄せたいのですが、なかなかうまくいきません。そこで「無理をしてでも、笑うふりをしてごらん」とか、「鏡を見ながら、暗示をかけてでも笑ってごらん」などとお話します。また、いっしょに食事をしながら冗談をいいますと、少しずつ変わって来ます。お顔立ちも変わって来ます。

「百薬の長」は、お酒より笑うことです。お酒は飲み過ぎれば害になり、出費もかかりますが、笑いはいくら笑い過ぎて健康を害することはなく、しかも無料です。ストレスを除き、血流を改善し、免疫力を高め、美容効果ももたらします。まさに「笑門来福」です。

月始めの総回向

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あさか大師

令和4年1月9日

 

昨日と本日は、新春大護摩の合い間に、月始めの総回向を修しました。新型コロナ感染者がまたまた急増したためか、初詣を済ませている方が多いせいか、さびしい集りでしたが、僧侶の方もご信徒の方も元気に読経をしました(写真)。

また、初詣には長年お会いしていたかった方が何人かお見えになり、とてもうれしくなりました。何の連絡もしていなかった方が、私を忘れずにいてくださったことに、感動すら覚えました。

まいた種は、スグに芽が出るわけではありません。一つの縁が永くつながり、その縁が熟さねば結果という芽は出ません。遠い過去に私がまいた種が芽を出し、花を咲かせてくれたのでしょう。さらに実を結ぶまで育つかどうかは、今後の努力しだいです。自分を戒め、肝に銘じることにいたします。

続・新春大護摩

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あさか大師

令和4年1月5日

 

初詣の新春大護摩も5日目となり、会社の方がご祈願に見えています。また、毎年の地元・中学校野球部の方々が、練習始めに当たって必勝祈願にお参りしました(写真)。皆さん礼儀正しく、お大師さまの前で一人ずつ合掌して行きました。

今年は寅年なので、「トラの勢いで練習しましょう」とお話したこととは言うまでもありません。阪神タイガースにも、ぜひ優勝してほしいと思います。

また、聖徳太子の時代、寅年・寅の日・寅の刻に毘沙門天びしゃもんてん(福徳と必勝の神さま)が、奈良の信貴山しぎさんに出現しました。寅年は毘沙門天とご縁が深いとされるのはこのためです。しかも、今年は元旦が寅の日でした。また立春の2月も寅の月です。皆様もぜひ、毘沙門天の福徳と必勝のご加護をいただいてください。

新春大護摩

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あさか大師

令和4年1月3日

 

あさか大師初詣の新春大護摩も三日間が過ぎ、大勢の方にお参りいただきました。開山4年目の初詣は、天候にも恵まれ、僧侶の方も元気に読経しました。新春大護摩にあたっては、お参りの方と全員でお大師さまのご宝号「南無大師遍照金剛なむだいしへんじょうこんごう」をお唱えしています。新しい遍路大師像へんろだいしぞうにも、合掌する方が増えているようです。

写真上は新春大護摩の熱祷、下は受付の様子です。

令和4年初日の出

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あさか大師

令和4年1月1日

 

謹賀新年・恭敬三宝。

令和4年元旦にあたり、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。あさか大師の境内より礼拝した初日の出を配信して、これより新春護摩のご祈祷に入ります。今年もよろしくお願い申し上げます。

令和4年元旦  午前6時50分

年末のカレンダー

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生活

令和3年12月27日

 

年末になると、いろいろな業者の方がカレンダーを持って挨拶に見えます。私はこの習慣は何とかならないものかと、長年にわたって悩んでいます。なぜなら、私はほとんど寺を出ることがありません。したがって予定表を持ちません。予定はすべて、市販のエコカレンダーに記入すれば済むからです。壁にはっておけば、予定表のようにページをめくらずとも一目瞭然。それを見つめれば、仕事の思案にもこと欠きません。したがって、私が愛用するのは写真も絵もがらもないシンプルそのもののカレンダーです。業者のカレンダーを用いることは絶対にありません。

ところが、せっかく挨拶に見えて、持参したカレンダーを渡されれば、「いりません」とは言えないわけです。これを受け取るたびに、自分の顔がどんな表情になっているかを想像するに、この気持ちがわかりますでしょうか。それに、いただいたそのカレンダーの処分がまた大変なのです。特に金具付のそれを分別するには、かなりの手間を要します。これを「人生における非情なまでのムダ」と言わずして何といたしましょうか。

いったい業者の方々は、渡したカレンダーをお客様が使っていると、本当に思っているのでしょうか。昔の日めくりカレンダーにこだわり、それを待っている方もいるでしょう。名山や名庭の写真、美術館の名宝を好む方もいるでしょう。しかし、いただいたすべてのカレンダーを飾ることは、まずありません。スペースを要する特大カレンダーは、今どきの住宅には合いません。いずれにしても、「現代における多大なムダ」であると私は考えています。

ついでながら、皆様は一週間の始まりは日曜日なのか月曜日なのか、どちらだとお思いでしょうか。実は現代のカレンダーや予定表は、「日曜始まり」と「月曜始まり」が混乱しています。日本では長く日曜日を週の始まりとして来ました。日曜はキリストが復活した日なので、これを週の始めとする考え方を明治時代に採用したからです。労働基準法でも、一週間は日曜日に始まり土曜日までと解釈しています。

しかし、現代のカレンダーや予定表は、いわゆる月曜始まりが増えています。これはISО(工業規格を国際的に基準化する機構)の勧告によるものだそうで、日曜始まりに慣れた目には、いささかなじめません。私もうっかり月曜始まりのカレンダーを購入して、苦笑した経験があります。年末多忙の中で、カレンダーに振り回されるのもいかがなものでしょうか。〈断捨離だんしゃり〉の先生は、どう思っているのでしょうか。

男のおしっこ

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生活

令和3年12月25日

 

男も洋便器でおしっこをする場合は、すわって用を足すべきだというのが私の持論です。特に60歳を過ぎたらなおさらです。なぜなら、立ったまま洋便器でおしっこをすると、たいていの方がゆかこぼすからです。しかも、自分でこれをふき取る人はほとんどいません。家庭では主婦にとって、これがどれほどの負担になっているかがわかるでしょうか。

したがって、洋便器には床のトイレマットは不要です。マットに尿酸がたまるとカビがえ、悪臭を放つからです。マットがなければ、スグにきとれますし、便利な消臭除菌の商品も出回っています。もちろん、専用のスリッパは必要ですので、マメに取り換えるようにしましょう。

私もこのことを知ってから、トイレマットを取り去り、坐っておしっこをするようになりました。また、自室の隣りにトイレがありますが、弟子の僧侶が使うとどうしても粗相そそうをします。おしっこの仕方までは伝授していないので(笑)、やむなく私の専用とすることを決意しました。

そもそも男のおしっこは、人類の誕生以来、立ちしょん(失礼!)であったはずです。今は小便器の前に立てば、センサーで水が流れ、離れるとまた水が流れます。あれは水洗という機能のほかに、男の生理的な反応にもかなっているのです。つまり、男は水の流れる「シャー」という音につられて、気持ちよく放尿するするからです。その証拠に、以前のように「使用後は水を流してください」の時代にも、男は使用前から水を流していたはずです。

ところが、今の洋便器ではそうはいきません。そのことを照合しても、男のおしっこは洋便器には合わないということです。コンビニなどでは、店員さんの掃除が大変だと思います。世の男たる者は、洋便器ではぜひ坐っておしっこをしてください。また、公共のトイレで粗相を見つけたら、少しでも掃除をしてください。

トイレは不浄な場所とされるだけに、掃除をすることで大きな功徳になります。なぜなら、トイレの神さまに好かれるからです。実は、トイレ掃除で開運した方がたくさんいるのです。私も何人かの社長さんに、「10分早く出社して、ぜひトイレ掃除をしてください」とお話しました。必ず業績があがります。本当ですよ。

男はなぜ、毎日酒を飲むのか

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人生

令和3年12月20日

 

タイトルは忘れましたが、かなり以前、ある韓国の歴史ドラマを見ました。その中で、新羅しらぎのさる城主と臣下の者が、毎日酒を飲む姿をを見て、城主の妻が「世の男という男は、なぜこうも毎日酒を飲むのか」と語るシーンがありました。私はこの言葉が忘れられず、思い出しては彼女の心底を探ろうとして来ました。

たしかに、男という生き物は特に一日の終わりに、酒を飲まねば何か〝ふん切り〟がつかないという感情の生理があるのようです。とにかく、男の人生といえば、酒をぬきにしては考えられません。上は宮中の天皇から長屋の庶民にいたるまで、男が求める者は、まず酒なのです。文学・書画・詩歌・音楽・芸能もまた酒をぬきにして語れません。唐の詩人・李白りはくは泥酔して池に映った月を取ろうとしておぼれ、その生涯を閉じました。「李白は一斗いっとう詩百篇、長安市上酒家に眠る(飲中八仙歌)」と歌われるくらいです。そのほか、日本画壇の巨匠・横山大観は毎日二升三合を飲んでいたとされるほどの酒豪です。池波正太郎の人気ドラマ『鬼平犯科帳』でも、主人公の長谷川平蔵が酒を飲まぬ日はありませんし、作者本人もまた、こよなく酒を愛しました。

酒は「百薬の長」などと称しますが、いかがでありましょう。ほどほどに飲めば健康によいかも知れませんが、本当にほどほどに飲めるのでしょうか。一方では「気ちがい水」とも称し、諸悪の根源もまた酒なのです。酒によって人生を狂わした例は、枚挙にいとまがありません。

酒を讃えた文例をあげるなら、まずは貝原益軒かいばらえきけん(江戸時代の本草学者)の『養生訓ようじょうくん』に出て来る「酒は天の美禄びろくなり。少しのめば陽気を助け、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁いを去り、興を発して、はなはだ人に益あり」でありましょう。ただし「少しのめば」、なのです。ここで踏みとどまれるかどうかは、まさに男の人生がかかっているということです。

かといって、まったく飲まないというのも(体質的な理由はともかく)、いささか魅力に欠けるかも知れません。もちろん、例外はありますが、何ごとも〝ほどほど〟が大切なように思います。よし田兼好だけんこうは『徒然草つれづれぐさ』で「下戸げこならぬこそ、おのこはよけれ」という名言を残しています。

冒頭の城主の妻は毎日、男たちの酒宴を見ながら、この生理的矛盾に悩んだはずです。男と女は協力することはできても、理解し合うことはできないのかも知れません。

遍路大師像開眼法要

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あさか大師

令和3年12月19日

 

いよいよ年内も、残すところ10日ほどとなりました。本日は午前11時半より、今年最後の金運宝珠護摩を修し、長いコロナ禍の終結と来年への福徳を祈りました(写真)。皆様の祈りが結集し、新たな希望となることを念じてやみません。

また、その後は三周年記念事業としての遍路大師像開眼法要を挙行しました。皆様の信心と浄財が実を結び、今日を迎えられたことを感謝いたします。大勢の方が集い、僧侶の方の声明やお子様の献花をいただき、遍路大師像の霊気が境内にみなぎったように思います(写真)。

気のせいかも知れませんが、この遍路大師像が完成して以来、参詣者の方が増えてきたように思います。それだけお大師さまの力が遍満し、それが人を呼ぶのだと思います。ささやかな事業ではありますが、この仏縁がさらに弘まることを期しております。

世間の人、なべてこのことあり

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人生

令和3年12月13日

 

前回のブログで、一つのことを貫き通すことの大切さ、そして深くて、しかも巾広くありたいというお話をしました。巾広くということは、枝葉を広げるということであるが、始めから枝葉を増やしてはならないというお話もしました。つまり、このバランスこそ大切だという意味なのです。

しかし、実は人はなかなかこのバランスが保てません。気が向けば、あちらにもこちらにも手を出し、結局は何一つモノにならないということが多いのです。たとえば、私が愛読する吉田兼好よしだけんこうの『徒然草つれづれぐさ』(鎌倉時代の代表的随筆)第百八十八段に、大変おもしろいお話が出ています。

ある人が、自分の子を法師(僧侶)にして学問を修めさせ、説教師として生きて行けるようにと夢を託しました。ところが、この親は何と、その子に馬乗り(馬術)から習わせたというのです。なぜなら、法事のお導師として招かれた折、馬で迎えに来られた場合に落馬するようではみっともないと考えたからです。この時代は現代のような乗用車がありませんので、馬での送迎が当たり前であったのでしょう。

次に法事の後のおとき(食事)の折、酒など出されて、何の芸もないのでは施主がきょうざめるに違いないと考え、今度は〈早歌そうか〉という歌の芸を習いました。現代でいうなら、まずはカラオケといったところでしょう。とにかく、この二つを熱心に習ったところ、かなり上達して夢中になったようです。そして、ますます励んでいる内に肝心の学問や説教師の方は何も身につかず、とうとう年をとってしまったというのです。

決して、笑い話ではありません。兼好は文中にて、「世間の人、なべてこのことあり」と述べています。若い時には希望もあり、大きなことを成し遂げたい、出世したい、勉強もしたい、芸も身につけたいと思いながら、まだまだ先があると思ってのんびりと過ごし、むなしく年を重ねるものです。そして、気がついた時には坂道を下る車輪のような速さで衰え、もはや取り返しがつきません。

ずいぶん頭の痛いお話ですね。私にも身に覚えがあります。まさに、そのとおりなのです。まずは最も大切な目標に専念し、しっかりと一本の幹が育ったら、次に枝葉を育てましょう。あれもこれもと右往左往うおうさおうをしてはなりません。前回と今回のお話、どちらに軍配ぐんばいを上げますか、皆様。

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